第31話 古頁の灯
エリオン殿下に連れられて王城の廊下を歩く、というのは不思議な感覚だった。
普段は逆だ。学術院では、だいたいエリオン殿下が僕の後ろをついてくる。研究室でも資料室でも、気づけば隣か背後にいて、こちらが実験器具を取りに行けば当然のようについてくる。教授に呼ばれればそのまま同席し、時には僕より先に椅子へ座っていることさえあった。
だから、こうして僕が殿下の後ろを歩くのは妙に新鮮だった。
しかも、今日は何も話さない。
いつもなら、こちらが返事に困るくらい話しかけてくる。つい先ほど終えた実証についても、いくらでも話したいことがありそうなものだ。
王城の廊下には午後の光が差し込み、磨かれた床へ窓の形を映していた。すれ違う文官や騎士はエリオン殿下に気づくたび足を止めて礼を取り、殿下も軽く頷いて応じる。
いつもの軽さがないことが、少し気になった。
「エリオン殿下」
「ん?」
前を向いたまま、返事が返ってくる。
「どちらへ向かっているのですか」
「着いたら分かるよ」
「それは答えになっていません」
「うん。今はそれで勘弁して」
声は軽い。けれど、普段の冗談とは少し違った。
それ以上聞く気にはなれず、そのまま後を追う。
やがて僕たちは、王城の中でもひときわ静かな一角へ入った。人の気配が減り、壁には新しい装飾よりも年月を経た木枠や燭台が目立つようになる。突き当たりにある大きな扉を抜けると、その先には高い天井と壁一面の書棚を備えた書庫が広がっていた。
古い紙と乾いた革の匂いが漂っている。
入口近くにいた白髪の老人が、僕たちを見ると静かに礼を取った。細い眼鏡をかけた司書らしい男で、エリオン殿下へ頭を下げたあと、その視線を僕へ向ける。
「お待ちしておりました、エリオン殿下。ユリウス・ヴァルディエル殿ですね」
「……僕をご存じなのですか」
「本日の閲覧者として伺っております」
思わずエリオン殿下を見る。
当人は何食わぬ顔で歩き出していた。
「殿下?」
「ほら、こっち」
「何か説明すべきことがあるのでは」
「あとでね」
どうにも嫌な予感がする。
書棚の間を抜け、さらに奥へ進む。明るい閲覧席から離れるにつれて本の装丁は古くなり、背表紙の文字にも見慣れないものが増えていった。
一番奥の壁際には、黒ずんだ金属扉がある。
中央には王家の紋章が刻まれ、ただの書庫を仕切るための扉には見えなかった。
エリオン殿下が懐から小さな鍵を取り出す。
「足元、気をつけてね」
「……どこへ行くのですか」
「下」
鍵が回り、重い音を立てて扉が開く。その先には地下へ続く石造りの階段があった。
エリオン殿下がランプを持って先に降り、僕も後へ続く。地上の物音はすぐに遠ざかり、代わりに二人分の足音だけが石壁へ反響した。
長い階段を下りきった先には、もう一つの扉が待っていた。
中へ入る。
地上よりずっと小さな書庫だった。
エリオン殿下が壁際の燭台へ順番に火を移していくにつれ、古い革表紙、金属で留められた箱、封印を施された巻物が暗がりから浮かび上がる。埃はほとんどない。長く放置された場所ではなく、今も厳重に管理されていることが分かった。
「ここは……?」
エリオン殿下が振り返る。
ようやく、いつものいたずらっぽい笑みが戻っていた。
「禁書庫。原則として、王族以外は入れない場所」
「……僕が入ってよい場所には聞こえませんが」
「聞こえないね」
楽しそうに答えられ、思わず背後の扉へ目を向ける。
「戻った方がよいのでは」
「大丈夫。兄上には話してあるから」
足が止まった。
「王太子殿下に?」
「うん。キミを連れて入ることも、見せるものもね。許可が出ているのは今日の一冊だけだけど」
「では最初からそう言ってください」
「その方が面白いかと思って」
「僕はまったく面白くありませんでした」
エリオン殿下はくすくすと笑い、そのまま棚の間へ入っていく。
ほどなく、一冊の古い本を取り出した。
分厚い革表紙には王家の紋章が押されているが、華やかな装飾はない。誰かに見せるための本というより、記録として保存するために綴じられたものに見えた。
「ここには、公には出せない記録がたくさんあるんだ」
エリオン殿下は本を机へ置き、周囲の棚へ視線を巡らせた。
「昔の戦争、王家の継承争い、外交交渉の裏側。各家の血統魔術について調べた記録もある。どういう状況なら強く使えて、逆にどういう条件では安定しにくいのか。そういうものまで公開したら、いろいろ困るでしょ?」
「それは……確かに」
血統魔術が軍事力でもある以上、その弱点はそのまま国家機密になり得る。
「ここが閉じられているのは、一つの秘密を隠すためじゃないんだ。外に出せない資料を長いあいだ集めてきた結果、こういう古い記録まで残っている」
エリオン殿下が革表紙へ手を置く。
「今日キミに見せたいのは、その中でもかなり古いもの。フェルマティア王国が、まだ今の形になる前の記録だよ」
古い本が開かれる。
並んでいるのは、現在の王国語とは少し異なる文字だった。僕には全文を読むことはできない。それでも、図や家名らしきもの、魔術系統を示しているらしい記号は判別できた。
火。氷。風。雷。結界。
いくつもの魔術系統が、古い家名とともに記されている。
「今の貴族たちは、自分たちの血統魔術を神に選ばれた血筋の証みたいに語るよね」
「はい」
「家に宿る神秘。祖先から受け継いだ奇跡。特別な血にだけ許された力。でも、この頃の記録は少し違う」
エリオン殿下は、指先で古い文字を追った。
「最初にあったのは、もっと単純な違いだったらしい。火を扱う術式を安定させやすい家系。雷の術式と相性のいい家系。結界を維持するのが得意な家系。そういう性質を持つ人たちが、確かにいた」
頁がめくられる。
「そこへ、その家で成功しやすい詠唱や身体の使い方が残った。儀礼になって、教育法になって、何代も繰り返すうちに、その家だけの術式として磨かれていった」
「それが、現在の血統魔術に」
「たぶんね。この記録だけで、すべての家が同じ過程を辿ったとまでは言えないけど」
その慎重な言い方は、少し意外だった。
古い記録を読んだからといって、それだけですべてを理解したつもりにはならない。その姿勢には、どこか親しみを感じる。
「つまり、血統魔術そのものが作り話だったわけではないのですね」
「うん。そこが、昔のボクには一番ややこしかった」
エリオン殿下は小さく笑ったが、表情にいつもの明るさはなかった。
「家ごとの適性は実際にある。積み重ねてきた技術も本物。詠唱や儀礼だって、長く残ってきたものには何かしら意味があるんだと思う。でも、それが何百年も続くうちに、どうしてその方法になったのかは少しずつ忘れられていった」
古い本へ視線が落ちる。
「成功する方法だけが残って、理由を知っていた人はいなくなる。それでも力は受け継がれるから、やがて『この血には特別な神秘が宿っている』って説明の方が自然になったんじゃないかな」
「誰かが意図的に、そう教えたわけではない?」
「少なくとも、ボクが読んだ記録からはそう見えなかった」
エリオン殿下は首を横に振った。
「王家が秘密を作って、貴族たちを騙したわけじゃないよ。この資料だって、血統魔術の神秘を否定するために封じられたものじゃない。古すぎるうえに、ほかの機密記録と一緒に保管されて、そのまま限られた人しか触れなくなっただけ」
そこで一度、言葉を切る。
「だから、今の貴族たちは本気なんだ。自分たちは特別な血を引いている。家の神秘を受け継いでいる。自分たちの魔術は、他の者には踏み込めないものだって」
「こういう古い記録を、知らないのですね」
「うん。でも、それだけじゃないと思う」
エリオン殿下は、本の端を指で軽く叩いた。
「仮にこれを読んだとしても、何百年も受け継いできた家の物語を、一冊の古文書だけで簡単に捨てられるものでもないよ。だって実際に、その家の人間は代々同じ魔術を使えているんだから」
確かにそうだ。
「エリオン殿下は、それを幼い頃に知ったのですね」
「うん」
エリオン殿下は椅子へ腰を下ろした。
「本を読むのが好きだったから、いろいろな書庫に入り浸ってた。最初はただ楽しかったんだ。剣の稽古より、儀礼の練習より、茶会で同じような挨拶を繰り返すより、古い本を読んでいる方がずっと面白かった」
その姿が自然と浮かんだ。まだ幼い王子が、王城の奥で古い本を開き、誰も知らない記録に目を輝かせている。
「最初は、王国の秘密を知ったみたいで興奮した。でも、読み進めるうちに、だんだん分からなくなった」
「何がですか」
「みんなが大切にしているものが、本当は何なのか」
エリオン殿下は、開いた本の端を指先で押さえた。
「貴族って、自分の血統をすごく大事にするでしょ。家の神秘とか、祖先から受け継いだ力とか。実際、そういう家の力で王国が支えられてきたのも本当だと思う」
開いた本へ視線を落とす。
「でも、ここにある記録を読んでると、それだけじゃないって分かってくる。最初はちょっとした適性の違いだったものが、何代も続くうちに術式になって、家の誇りになって……いつの間にか、神秘になった」
燭火が瞳へ映り込む。
「そうしたら、茶会で聞く言葉も、議場で交わされる言葉も、急に遠くなった。うちは選ばれた家だ。あの家は血が薄い。この魔術は我らだけのものだ。王国の秩序は、神聖な血によって守られている」
エリオン殿下は薄く笑った。
「みんな、本気で言っているんだよ」
その笑みを見て、返す言葉が見つからなかった。
「誰かが嘘をついているなら、まだ怒れたと思う。でも、そうじゃなかった。みんな、自分たちが受け継いだ物語を本気で信じていた。だから怒る相手もいない。悪者もいない。ただ、長い歴史がそういう形を作ってしまっただけ」
「それで、エリオン殿下は政治や貴族社会から距離を置くように?」
「うん。兄上がいるからね」
エリオン殿下は少しだけ肩をすくめた。
「兄上はすごいよ。知ったうえで、それでも王国を背負おうとしている。ボクにはそれができなかった。王位なんて兄上がいればいい。ボクは書庫で本を読んでいる方が合ってる。そう思った」
「王太子殿下も、この記録を?」
「もちろん。今日キミに見せる許可を出したのも兄上だしね。父上も、この書庫に何があるかは当然知ってる」
そこでエリオン殿下は、考えるように視線を上げた。
「でも、王家の人間なら全員がここにある記録を隅々まで読んでいる、という意味じゃないよ。量も多いし、分野もばらばらだからね。ボクは単に、本を読む時間が人より多かっただけ」
「そのうえで、王太子殿下は王国を背負う道を選んだ」
「うん。兄上は、知ったから全部壊せばいいとは考えない人だから。古いものにも、残ってきた理由があるって考えるんだ。いきなり変えたら困る人もいるしね。でも、だからって、間違ってるものまでそのままにする人でもない」
エリオン殿下は少し笑った。
「たぶん兄上は、ずっとその間で悩んでるんじゃないかな」
「エリオン殿下は?」
「ボクは、逃げた」
あまりにあっさり言われて、言葉に詰まる。
エリオン殿下は困ったように笑った。
「そんな顔しないで。別に自分をひどく責めてるわけじゃないよ。ただ、王族らしい役割に熱心になれなかったのは本当。貴族たちの格式とか称号とか、血筋をありがたがる空気に、どうしても馴染めなかった」
そして、本へ戻った。
学問へ戻った。
「でも、本は好きだった」
殿下は静かに言った。
「本の中にも間違いはある。嘘もある。都合のいい記録もある。それでも、知ろうとすること自体は嫌いになれなかった」
そして僕を見る。
「だから、キミを見た時、驚いたんだ」
「僕を、ですか」
「うん。キミは王家の禁書なんて読んでない。王国の昔のことも、血統魔術がどうやって今の形になったのかも知らなかった」
エリオン殿下は、少し楽しそうに僕を見る。
「なのに、自分で見て、自分で考えて、ここと似たところまで来た」
「似たところ……」
「魔術には、ちゃんと仕組みがあるってこと」
そう言ってから、エリオン殿下は少し首を傾けた。
「でもね、ボクとキミはそこからが違った」
「違った?」
「ボクは、知って終わったんだ」
声が少しだけ静かになる。
「神秘だと思ってたものにも理由があった。みんなが信じてるものが、最初から今の形だったわけじゃない。それを知って……なんだか、全部つまらなく見えた」
古い本の頁へ視線が落ちる。
「でも、キミはそうならなかった」
「……はい」
「仕組みが分かったら、その次を考えるでしょ」
エリオン殿下が指を一本立てた。
「雷がどういう現象か分かったら、自分で作ってみる。電気が流れるなら、遠くへ意味を送れないか考える。分からないことが減ったら、今度はその分だけ新しい疑問を見つける」
そこで、少しだけ笑う。
「見てるとね、全然飽きないんだ」
思わず言葉に詰まった。
「ボクには、世界が少し色褪せて見えてた」
エリオン殿下は続ける。
「神秘の正体を知ってしまって、じゃあどうすればいいのか分からなかった。全部嘘だって笑うのも違うし、知らないふりをして信じ続けるのも無理だった」
「……はい」
「でも、キミを見ていて思ったんだ」
こちらを見る。
「分かったなら、そこから作り直せばいいんだって」
「作り直す?」
「うん。壊すためじゃなくて、もっと分かる形にする。誰かが学べて、確かめられて、その先まで考えられるようにする」
エリオン殿下はこちらを見る。
「キミが言ってる《学問》って、たぶんそういうことなんでしょ?」
同じ《学問》という言葉を、エリオン殿下は僕とは違う場所から見ていた。
「だから、キミのそばにいたかった」
エリオン殿下は、照れくさそうに笑う。
「研究室に行ったのも、最初は好奇心だった。でも、だんだんそれだけじゃなくなった。キミが何を見るのか、次に何を考えるのか、見ていたくなった」
「それで、いつも研究室に」
「うん。邪魔だった?」
「邪魔ではありません」
「本当?」
「近すぎる時はあります」
「それは善処する」
エリオン殿下が笑った。
ようやく、いつもの調子が少し戻る。
「今日の実証を見て、思ったんだ。もうキミに話してもいいって」
僕は机の上に開かれた本を見る。
王国の興り。貴族制度。血統魔術。
この場所にある記録をすべて読むことはできないし、僕が知っていい範囲も限られている。
「エリオン殿下」
「うん?」
「見せてくださって、ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「本来なら、僕が簡単に触れてよい記録ではないのでしょう。それでも、あなたがなぜ僕に興味を持ったのか、少し分かった気がします」
「少し?」
「全部分かったと言うのは、不誠実です」
「そういうところだよ」
エリオン殿下は笑う。
今度は、いつもの笑みに近かった。
「ねえ、ユリウス」
「はい」
「殿下って呼ぶの、そろそろやめない?」
突然の言葉に顔を上げた。
「それは、さすがに」
「公の場では今まで通りでいいよ。兄上の前とか、王太子府の文官がいる時とか。そういう場所ではちゃんと殿下でいい」
エリオン殿下は机へ軽く腰を預ける。
「でも、研究室とか、こういう場所とか、ボクたちだけで話している時まで殿下はいらない」
「……しかし」
「ここにキミを連れてきたのは、王族としてじゃない。ボクが、キミに見せたかったから」
その声には、もう冗談めいた響きがなかった。
「王子としてじゃなくて、ボク自身の話をしたかった。ボクが何を知って、何に白けて、どうしてキミのそばにいたいと思ったのか。それを話した相手に、ずっと殿下って呼ばれるのは、ちょっと寂しい」
エリオン殿下は王族だ。王太子の弟で、学術院に通っていても、ただの学生ではない。僕はヴァルディエル家の子で、特待生ではあっても、王族と対等に振る舞える立場ではなかった。
それでも、今目の前にいる少年は、王子ではない自分としてそう言っている。
「ユリウス」
名前を呼ばれた。
「ボクは、キミと友人になりたい」
禁書庫の燭火が、静かに揺れる。
友人。
その言葉は、思っていたより深く胸へ落ちた。
一瞬迷い、それから息を吐く。
「……エリオン」
名前を口にした瞬間、妙な緊張があった。
殿下を付けない。ただ名前を呼ぶ。
それだけなのに、これまで引かれていた線を一つ越えたような感覚がする。
エリオンは目を丸くし、すぐに嬉しそうに笑った。
「うん」
「本当に、よろしいのですか」
「もちろん。むしろ、やっと呼んだ」
「やっと、ですか」
「ずっと待ってた」
いたずらが成功した子どものような顔をしている。
「ただし、人前ではやめてね。兄上に怒られるし、キミも困るでしょ」
「それは当然です」
「でも、公の場じゃない時はエリオンでいい。研究室でも、書庫でも、廊下で誰もいない時でも」
「廊下は、誰か来る可能性があります」
「じゃあ、その時だけ急いで殿下に戻して」
「器用な使い分けを求めますね」
「ユリウスならできるでしょ」
そう言って、エリオンは笑った。
いつもの軽さが戻っている。
けれど、その奥にあったものを、今は少しだけ知っている。
「分かりました。公の場では、これまで通りエリオン殿下とお呼びします」
「うん」
「それ以外では……エリオン、と」
もう一度名前を呼ぶ。
エリオンは本当に満足そうに笑った。
「うん、ユリウス」
その声は、禁書庫の静けさの中で、不思議なくらい自然に響いた。




