第32話 始点
王城の謁見の間は、以前通された応接室とはまるで違っていた。
高い天井。白い石柱。壁に掲げられた王家の紋章。磨き上げられた床には、細長い赤の絨毯がまっすぐ奥へ伸びている。その先、一段高い場所に王太子レオニス・フェルマティア殿下が立っていた。
その場にいるだけで、ここが王国の意志を告げる場所なのだと分かる。
左右には近衛騎士が並び、王太子府の文官たちが控えていた。軍務院、学術院、法務に関わる者たちもいる。誰も大きな声を出さない。衣擦れの音さえ、謁見の間ではやけに重く響いた。
僕は赤い絨毯の上を進み、定められた位置で膝をついた。
「ユリウス・ヴァルディエル」
レオニス殿下の声が、謁見の間に響いた。
応接室で聞いた時よりも、低く、硬い声だった。個人として僕に問いかける声ではない。王太子として、王国の名を背負う者の声だ。
「面を上げよ」
「はい」
僕は顔を上げた。
レオニス殿下の表情は厳かだった。
「そなたは、王立魔術学術院において行った研究、ならびに王城における実証により、魔術が理論によって分析され、再現され、応用されうることを示した」
文官の一人が巻物を広げる。王太子府の印章と並んで、見覚えのないもう一つの印が押されていた。
「雷魔術の応用。遠隔打音通信の実証。いずれも、そなた一個の才覚による成果として片づけるには惜しいものであった」
静かに息を吸う。
「同時に、余はそなたに問うた。魔術をどうしたいのか、と。そなたは答えた。魔術を学問にし、理論と手順を他者が検証できる形へ変えたい、と」
「はい」
「ならば、その言葉を王国の前で示すがよい」
レオニス殿下が文官へ視線を向けると、広げられた巻物が読み上げられた。
「王太子府令、ならびに王立魔術学術院評議会の承認により、同院に《理論魔術特任講座》を新設する。本講座は、魔術現象の観測、分析、理論化、ならびに再現可能な術式体系の研究と教育を目的とする」
理論魔術特任講座。
自分の頭の中にしかなかった言葉が、王国の制度として読み上げられている。
「同講座の初代特任教授に、ユリウス・ヴァルディエルを任ずる」
一瞬、喉が乾いた。
特任教授。
研究を認められることとは違う。自分で研究するだけでもない。
これからは教壇に立ち、自分が組み上げてきたものを他者へ渡し、それが本当に一人の才能ではなく学問として成立するのかを示さなければならない。
十五歳という年齢を考えれば、異例どころではない。
謁見の間に並ぶ者たちの視線にも、その意味を測るような気配があった。驚き。疑念。警戒。その中には、学術院の判断そのものを確かめようとする目もある。
それでも、この任命は王太子一人の思いつきではない。
巻物には王太子府と学術院、双方の承認がある。
レオニス殿下は、それらすべてを承知したうえで告げた。
「ただし、これは栄誉であると同時に責務である。そなたが示したものが、そなた一人にしか扱えぬ奇才で終わるのか。それとも、王国に新たな学びをもたらすものとなるのか。その答えを、これより先の研究と教育によって示せ」
深く頭を下げた。
冷たい石床の気配が、妙にはっきりと分かる。
「謹んで、お受けいたします。魔術を学問として拓くため、研究と教育の双方に全力を尽くします」
「よい」
レオニス殿下が静かに頷いた。
「そなたの理論が、王国に益をもたらすことを期待する」
その言葉をもって、任命は終わった。
王国の中心で、正式に役目を与えられた。
研究者としてだけではない。
教える者として。
それは誇らしさより先に、重さとして胸へ落ちた。それでも、不思議と嫌ではなかった。
立ち上がり、もう一度深く礼を取る。
謁見の間を後にする時、背中にはいくつもの視線が残っていた。好意だけではない。期待だけでもない。
それでいい。
魔術を学問にするなら、疑われることも、その疑問へ答えることも避けては通れない。自分の理論が間違っているなら、誰かに指摘されるべきだ。正しい部分があるなら、別の誰かが確かめ、さらに先へ進めばいい。
そのための場所が、ようやく与えられた。
◇
王城での任命から、ひと月近くが過ぎた。
その間に、領地へ送っていた知らせへの返事も届いた。
父からの手紙は、驚くほど短かった。
『悪くない。帰ってきたら、詳しく聞かせてくれ』
その一文を読んだ瞬間、思わず口元が緩んだ。
手紙の余白には、母をはじめ、家族からの祝いの言葉も書き添えられていた。
王国の中心で新しい役目を与えられても、帰る場所まで変わったわけではない。
そのことが、妙に嬉しかった。
王太子府から正式な任命書が届き、学術院では特任講座の設置が進められた。講義要綱の作成、使用する講堂の確保、受講者への告知。僕自身もエルネストと何度も内容を詰め、初回講義で何をどこまで話すのかを決めていった。
それでも、準備が十分だと思える日は来ないまま、最初の講義の日を迎えた。
王立魔術学術院の大講堂へ向かう廊下で、僕はカティアに会った。
いや、待っていてくれたのだと思う。
彼女は窓際に立っていた。差し込む光を受けて、深紅の髪が柔らかく艶めいている。今日は仕事の合間なのだろう、装いは華美ではない。けれど、すっと伸びた背筋と、腰に佩いた細剣の気配が、彼女の凛とした美しさを際立たせていた。
「カティア」
「ユリウス」
彼女は僕を見ると、少しだけ笑った。
「もう行くのね」
「はい。初回講義です」
「緊張している?」
「かなり」
「正直でよろしい」
カティアは楽しそうに目を細めた。
けれど、からかう声の奥には、気遣いがあった。
「本当は、最後まで聞いていきたいのだけれど」
「お仕事ですか」
「ええ。抜けられる時間は少しだけ。だから、これだけ言いに来たの」
彼女は一歩近づき、まっすぐ僕を見た。
「頑張ってね」
「ありがとうございます」
「あなたなら大丈夫よ。いつも通りに、見て、考えて、言葉にすればいいわ」
「それが難しいのですが」
「難しいことをするために、ここに立つのでしょう?」
カティアはそう言って、少しだけ得意げに笑った。
まったく、その通りだった。
「では、行ってきます」
「ええ。行ってらっしゃい、ユリウス」
彼女はそれだけ言うと、踵を返して歩き出した。
仕事へ戻るのだろう。
彼女の後ろ姿を少しだけ見送ってから、僕は大講堂の扉へ向き直った。
忙しい中で、ほんの一言を届けるためだけに来てくれた。その事実が、不思議なほど胸の奥に残っている。緊張が消えたわけではない。扉の向こうから聞こえるざわめきは、むしろ先ほどよりもはっきりと耳に届いていた。それでも、足が止まることはなかった。
扉が開く。
学術院の大講堂は、すでに学生たちで埋め尽くされていた。
階段状に広がる座席。所狭しと座る学生たち。貴族子弟、一般学生、研究者見習い、若い魔術師たち。席に座りきれず、壁際に立つ者までいる。好奇、警戒、反発、期待。無数の視線が、一斉に僕へ向けられた。
前世でも、大学で講義を持ったことはある。
けれど、あの時の僕にとって、講義は研究の合間に差し込まれる義務でしかなかった。資料を用意し、決められた時間を話し、質問に答える。必要な仕事ではあったけれど、心のどこかでは、研究を進める時間を奪うものだと思っていた。
今は違う。
僕の前にいるのは、魔術を学ぼうとする人たちだった。
もちろん、全員が好意的なわけではない。つい先日まで特待生だった十五歳の少年が教壇に立つことを、不愉快に思う者もいるだろう。王太子府の要請によって新設された講座という事実に、警戒を抱く者もいるはずだ。
それでも彼らは、ここに来た。
僕の語るものを聞こうとして、この講堂に集まっている。
そのことが、前世では覚えたことのない重さを持って、胸の奥に落ちた。
教壇の横には、エルネストが立っていた。
「諸君」
その声が大講堂へ響き、ざわめきが少しずつ静まる。
「本日より、《理論魔術特任講座》を開講する。本講座は王太子府の要請を受け、学術院評議会の承認を経て新設されたものだ」
一度言葉を切り、こちらへ視線を向ける。
「初代特任教授を務めるのは、ユリウス・ヴァルディエル君だ」
ざわめきが広がった。
当然だろう。
十五歳。
少し前までは、同じ学術院で特待生として学んでいた人間が、今日から特任教授として教壇に立つ。
僕はそのざわめきを聞きながら、教壇へ向かった。
階段状の座席を見上げる。
その前列に、エルヴィーラがいた。
淡栗色の髪と、菫色の瞳。彼女は背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いて座っていた。いつものように凛としている。
けれど、僕と目が合った瞬間、彼女の頬がさっと赤くなった。
エルヴィーラは、慌てたように顔を背ける。
だが、次の瞬間、彼女は小さく首を振った。
まるで、自分自身を叱るように。
そして、もう一度こちらを見る。
今度は逸らさなかった。
頬にはまだ赤みが残っている。けれど、その瞳は真剣だった。
僕も、ほんのわずかに頷いた。
その少し後ろには、エリオンの姿もあった。
いつからそこにいたのか、こちらと目が合うと、楽しそうに口元を緩める。
普段と変わらない笑みだった。
さらに視線を巡らせる。
教授たちの席に、ローデリヒ・バルメルトの姿を見つけた。
腕を組み、穏やかな表情でこちらを見ている。
歓迎しているようには見えない。
少なくとも、今日はここにいる。
それで十分だった。
疑う者。期待する者。値踏みする者。純粋な好奇心を隠せない者。
そのすべてを前にして、不思議と逃げたいとは思わなかった。
自分の中にある理論を、誰かへ渡す。
誰かがそれを受け取り、疑い、考え、もしかすると僕の届かなかった場所まで進んでいく。
魔術を学問にするということは、きっとそういうことなのだ。
僕は黒板の前に立ち、白い石筆を手に取った。
大講堂のざわめきが、少しずつ静まっていく。
何から話すべきかは、もう決めていた。
かつて、エリオンに問われた言葉。
そして、この世界に生まれてから、僕自身がずっと問い続けてきた言葉。
僕は講堂を見渡し、ゆっくりと口を開く。
「魔術とは、何でしょうか」
声は、思ったよりもまっすぐ響いた。前列で、エリオンがわずかに目を細める。誰も答えない。だが、その沈黙は空白ではなかった。当たり前だと思っていたものに、初めて刃を入れられたような沈黙だった。
教授席の一角で、ローデリヒがゆっくりと組んでいた腕を解き、机上の筆記具へ手を伸ばした。それ以上の反応はない。
僕は黒板へ向き直り、白い石筆の先を黒い板へ当てた。
小さく、硬い音が鳴る。
魔術を神秘から学問へ。
その第一歩が、ここから始まった。




