第30話 伝導
カン。
乾いた音が、王城本棟の一室に響いた。
机の上に置かれた小さな鉄片が跳ね、陶器の台に触れて音を立てる。鐘のように澄んだ音ではない。けれど、その場に集まった者たちの視線を引きつけるには十分だった。
王太子府の文官、軍務院の士官、学術院の研究者、近衛の魔術師。そして、いくつかの有力貴族の代理人たち。
その中央で、レオニス殿下が静かに装置を見ていた。
「今のは、受ける側で鳴った音です」
僕は卓上の装置を示しながら言った。
「こちらの打鍵器を押すと、銅線に電流が流れます。その先につながれた受音器の鉄片が動き、音を鳴らす。今お見せしたのは、同じ部屋の中で仕組みを確認するためのものです」
説明は短くした。
この実証に集められた人々は、全員が事前の報告書に目を通している。僕がここで長々と理屈を語れば、かえって伝わりにくくなる。重要なのは、音が鳴ったこと。そして、その音を離れた場所へ送れることだ。
ジークフリートと雷を交わしたあの日から、七日が経っていた。
その間、僕はほとんど休まず準備を進めた。以前注文していた銅線を元に、王城本棟と外門脇の詰所を結ぶための長さへ整え、被覆も改良した。布と樹脂だけでは心許ない箇所には追加の処理を施し、陶器の支えも間隔を調整して取り付けてある。
回路は二本線。
行きと戻りを銅線で閉じ、余計な不安定要素をできるだけ排した。
装置の名前は、ひとまず打音式電信器とした。
送る側にあるのが打鍵器。受ける側にあるのが受音器。名前は仮のものだが、役割が分かれば今は十分だ。
「では、本番へ移る」
レオニス殿下が口を開いた。
王城本棟から外門脇の詰所へ。今日の実証で最も重要なのは、その線が本当に機能するかどうかだった。
この距離なら、正直に言えば、走った方が早い。王城本棟から城門脇の詰所までであれば、足の速い近衛を走らせればすぐに届く。符号表を見ながら打音を読み解くより、その方が確実だろう。
けれど、距離が伸びれば話は変わる。
城門の先へ。兵舎へ。港へ。街道の詰所へ。
銅線を長く伸ばし、途中で保守できる仕組みを作り、打ち手と読み手が訓練されれば、情報の届く速さはまったく違うものになる。
それは、前世の歴史が証明していた。
レオニス殿下は、王太子府の文官から小さな紙片を受け取った。
「今から、余が合図を決める。ここにいる者たちには見せない」
殿下は机に向かい、短い文言を書いた。
その紙片が僕にだけ示される。
そこには、こう書かれていた。
王城、本日晴朗。
僕は内容を確認し、深く頷く。
レオニス殿下は紙片を折り、封のついた小箱に収めた。鍵は近衛の騎士が預かる。これで、僕とレオニス殿下以外は、今送る文言を知らない。
「始めてよい」
「はい」
僕は打鍵器の前に立った。
符号表は、前世でいうところのモールス信号を参考に、今の用途に合わせて簡略化してある。決められた合図のほか、照合に時間はかかるが、細かな意思を送れるようにもした。
まだ粗い。
けれど、今日はそれでいい。
僕は体内の魔力を整え、銅線へ流す電流を細く制御した。打鍵器に指を置く。短く押す。離す。長く押す。
カン。
同室内の確認用の鉄片が小さく鳴る。
けれど、本当に鳴っているべき場所はここではない。
この線の先、外門脇の詰所だ。
そこには、受信役としてエリオン殿下が待っている。もちろん、彼一人ではない。王太子府の書記官、軍務院の立会人、近衛騎士も同席している。僕が送った符号を、彼らが記録し、照合する手はずになっていた。
すべての符号を送り終える。
室内に沈黙が落ちた。
待つ時間は、長く感じられた。
実際には、ほんのわずかな時間だったのだろう。けれど、僕には自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。
やがて、廊下の向こうで足音がした。
扉が開く。
入ってきたのはエリオン殿下だった。手には封筒を持っている。いつもの軽い笑みはあるが、目の奥ははっきりと高揚していた。
「外門詰所側で受け取った符号です」
エリオン殿下は封筒を文官へ渡した。
文官が封を開き、記された文言を読み上げる。
「『王城、本日晴朗』」
近衛が小箱を開ける。
レオニス殿下が最初に書いた紙片が取り出され、文官の手元の紙と並べられた。
同じだった。
室内がざわめいた。
小さな音が、見えない場所へ意味を運んだ。事前に誰も知らなかった文言が、外門脇の詰所へ届き、同じ形で戻ってきた。
その事実を、誰も否定できなかった。
だが、そこで一人の男が口を開いた。
年嵩の貴族だった。名前は聞いたことがある。王都の儀礼や記録に関わる家の者で、魔術そのものには深く関わらないが、王城内での発言力はそれなりにあるらしい。
「失礼ながら、殿下」
男は慎重に言った。
「この合図が、事前に取り決められていなかったと、我々はどう確かめればよいのでしょうか」
疑いとしては当然だった。
レオニス殿下がその場で文言を決め、紙は箱に入れられた。けれど、僕とレオニス殿下が結託していたと疑えば、いくらでも言いようはある。
レオニス殿下は不快そうな顔をしなかった。
むしろ、静かに頷いた。
「よい疑問だ」
そして、文官へ視線を向ける。
「では、次はそなたが決めよ」
「私、でございますか」
「そうだ。短い文言にせよ。ここにいる者たちの前で紙に書き、ユリウスにだけ見せる。その後、箱に収める」
貴族の男は一瞬戸惑ったが、すぐに紙を受け取った。
書かれた文言を、僕だけが見る。
南門、異常なし。
僕は頷き、再び打鍵器に向かった。
今度は、室内の視線の種類が違っていた。
一度目は期待と疑念が半々だった。今は、疑念が自分自身の目の前で試されている。
僕は符号を送った。
短音。長音。間隔。
指先の操作と、電流の制御を重ねる。まだ自動化には遠い。僕が制御を誤れば、音は乱れ、符号は崩れる。けれど、今必要なのは完璧な仕組みではない。再現できる事実だ。
しばらくして、外門詰所から書記官が戻ってきた。
封筒が開かれる。
「『南門、異常なし』」
貴族の男の紙と照合される。
一致。
ざわめきは、先ほどより大きくなった。
レオニス殿下はすぐに次を指名した。
王太子府の別の文官。
軍務院の士官。
学術院の研究者。
近衛の魔術師。
それぞれが、その場で短い文言を決めた。誰も事前に知らない言葉。誰かが仕込む余地のない合図。
僕はそのたびに符号を送り、外門詰所側ではエリオン殿下たちが受信し、書き写した。
結果は、すべて一致した。
もちろん、時間はかかった。
途中で一度、符号の間隔が詰まりすぎて、詰所側から確認のための再送を求められた。そこも含めて、記録に残された。実用化には訓練が必要だと、かえってはっきり示された形になる。
それでも、技術の正当性は示された。
事前の取り決めではない。
手品でもない。
離れた場所へ、その場で決めた意味を送ったのだ。
レオニス殿下は、しばらく打音式電信器を見つめていた。
「見事な実証であった」
その声で、室内のざわめきが静まる。
「ユリウス・ヴァルディエル。先日の雷魔術も含め、君が示した成果は素晴らしい。余は、君の魔術にこの国の未来を見た」
けれど、殿下の言葉はそこで終わらなかった。
「だが、同時に確認せねばならないことがある。これまで君が示した結果は、君自身の才能と魔術の腕を証明したにすぎない、とも言える」
反論はできなかった。まさにそこが、僕自身の課題だったからだ。
「君が優れている。それは分かった。君が特別な魔術制御を持っている。それも分かった。しかし、それだけなら王国にとって扱うべきものは、君という一人の才人であって、君の理論ではない」
室内は静まり返っていた。
レオニス殿下はわずかに間を置き、問いかける。
「ユリウス。君は、魔術をどうしたい」
僕は姿勢を正した。
「僕は、魔術を学問にしたいと考えています」
かすかに息を呑む気配が広がる。
「僕一人にしか扱えないなら、それは僕個人の魔術でしかありません。条件を調べ、手順を整理し、なぜ成立するのかを共有する。そうすれば、少なくとも別の人間が同じ問いを検証できるようになります」
学術院の研究者たちが、黙ってこちらを見ていた。
「もちろん、誰もが同じ魔術を、同じ精度で扱えるとは考えていません。体内魔力の性質も、制御の得手不得手も人によって違う。血統によって特定の術式を扱いやすい者がいることも、僕は否定するつもりはありません」
父の指先に灯った、小さな光を思い出す。
従来の術式では、どれほど努力しても魔術を成立させられなかった人。それでも、成立する条件を分けて考えれば、別の手順から同じ光へ辿り着くことができた。
「だからこそ、仕組みを知る意味があるんです。一つの術式が合わないからといって、その現象へ至る道まで一つとは限らない。何が必要なのかを理解できれば、その人が扱える方法を探せます」
そこで卓上の打音式電信器へ視線を移した。
「この装置も同じです。今は僕が電流を作っていますが、重要なのは僕自身ではありません。電流を作る条件、銅線へ流す方法、受音器が動く仕組み、送った信号を読み取るための符号。それらを切り分け、誰かが学び、確かめ、改良できる形にすることです。すべての人が、同じ方法を使える必要はありません」
一呼吸置く。
「同じ現象へ至る方法を、一つの血統や、一人の感覚だけに閉じない。それが、僕の考える魔術の学問化です」
今度こそ、室内がざわめいた。
魔術の適性そのものを否定する言葉ではない。生まれ持った違いをなくせるとも言っていない。
それでも、魔術を理解する資格まで血統で決まる必要はない。
成立する条件を共有し、異なる人間がそれぞれの方法で同じ現象へ近づけるのなら、魔術は家に伝わる完成された型だけではなくなる。
レオニス殿下が片手を上げると、ざわめきはすぐに静まった。
殿下はしばらく僕を見つめた。
「よい」
短い一言だった。
「今日の実証と、君の言葉は確かに聞いた。王太子府としての判断は、追って正式に伝える」
「承知いたしました」
僕は深く礼を取った。
「本日の実証はこれまでとする。関係者は記録を整理し、王太子府へ提出せよ」
その言葉を合図に、室内の空気が動き出した。
文官たちは記録をまとめ、研究者たちは装置を覗き込み、近衛の魔術師たちは銅線の固定箇所を確認する。実証は終わった。けれど、誰の顔にも、ただ終わったという安堵だけはなかった。
僕は打音式電信器の接続を外し、手元の記録をまとめる。銅線は王太子府側で保管されるため、学術院へ持ち帰るのは写しの記録と符号表だけだ。
ようやく片付けが一段落した頃、窓の外は午後の光に変わっていた。
緊張が解けたせいか、肩が少し重い。
王城を出たら、学術院に戻って今日の結果を整理しなければならない。失敗はなかったが、改善点は多い。打音の間隔、符号の視認性、文官が照合にかかった時間、銅線の被覆の状態。記録すべきことはいくらでもあった。
部屋を出ようとした時、廊下の先からエリオン殿下が歩いてきた。
いつもの軽い足取りではなかった。
表情も、普段よりずっと真剣だった。
「ユリウス」
「エリオン殿下」
「このあと、時間ある?」
問い方は軽い。けれど、声の奥にいつもと違うものがあった。
「学術院へ戻るつもりでしたが、急ぎではありません」
「じゃあ、少し付き合って」
エリオン殿下は、廊下の奥へ視線を向けた。
「一緒に来てほしい場所がある」




