第28話 雷鎚
ジークフリートが、僕を見下ろしている。
こちらを射抜く菫色の瞳は、確かにエルヴィーラを思わせた。けれど、その眼差しに宿る圧は彼女のものよりはるかに重い。怒鳴られたわけでも、魔力を向けられたわけでもない。それでも身体が自然と強張った。
エルヴィーラの涙が脳裏に浮かぶ。
彼女が大切にしてきたもの。父への憧れ。ドルンベルク家の雷を継ぐという誇り。そのすべてへ、僕はあまりにも不用意に踏み込んだ。
以前の僕なら、ここで言葉に詰まっていただろう。
けれど、カティアの言葉が胸に残っている。
待つということは、目を逸らすことではない。彼女がもう一度こちらと向き合った時、自分の言葉で応えられるようにしておくことだ。
「……やり方は、よくなかったと思っています」
喉に残る緊張を押し込み、ジークフリートの目を見返した。
「彼女が大切にしていたものへ、僕は不用意に触れました。傷つけたことは、きちんと謝りたいです」
ジークフリートは何も言わない。ただ、先を促すようにこちらを見ている。
「ですが、僕が実際に観測したものを、なかったことにはできません。できることを隠したり、できないふりをしたりするつもりもありません」
「それで、娘がまた傷ついたとしてもか?」
低い声が返ってくる。
「同じ伝え方はしません」
正しさだけを突きつけて、相手がどう受け止めるかを考えない。それでは、理論を伝えたことにはならない。
「エルヴィーラ様は、僕の言葉を受け止めたうえで、もう一度自分の雷と向き合える人だと思っています。僕は、彼女がそういう強さを持っていると信じています」
ジークフリートの目がわずかに細くなった。
「……ずいぶんと、分かったようなことを言うじゃねえか」
「分かったつもりになる気はありません」
彼女が何を思い、どんな答えを出すのか。それを僕が決めていいはずもない。
「今すぐ押しかけるつもりもありません。でも、話せる時が来たら、今のことをきちんと伝えます」
「逃げる気はねえ、と」
「はい」
短く答えると、ジークフリートは鼻を鳴らした。
「なら、ひとまずはいい。安心しろ、小僧。娘を泣かせたからって、ここで殴るほど短気じゃねえ」
「それは、安心してよいのでしょうか」
思わず返すと、口の端が上がった。
「その程度は言い返せるか。なら十分だ」
威圧されているはずなのに、不思議と悪意は感じなかった。
ただ、圧はある。
そのままジークフリートは、レオニス殿下へ向き直った。
「殿下。訓練場をお借りしたい」
近衛たちがわずかにざわつく。
王太子の前で、あまりにも率直な申し出だった。だが、レオニス殿下は片手を上げ、動きかけた近衛を制した。
「よい。自由に使うといい。必要な人員も付けよう」
「感謝いたします」
ジークフリートは短く頭を下げ、こちらを見る。
「小僧、ついてこい。ドルンベルクの雷を見せてやる」
その言葉に、背筋が震えた。
エルヴィーラの雷なら、すでに見た。
十五歳の彼女が放った《紫電槍》は十分に鋭く、長い訓練によって磨かれた血統魔術だった。
だが、目の前にいる男はその先にいる。
ドルンベルク家の現当主。
雷を背負い、実際の戦場で振るってきた者。
僕はまだ、この世界の頂点に近い魔術を見たことがない。
◇
王城の屋外訓練場は、周囲を高い塀に囲まれた広大な空間だった。
中央には三体の木製人形が並べられ、厚い革の上から金属製の胸当てと兜が装着されている。背後には土を盛った壁まで用意されていた。
「準備が早いですね」
「さっき頼んでおいた。王城の連中は仕事が早いな」
どうやら応接室へ入る前から、ある程度はそのつもりだったらしい。
近衛の魔術師たちが標的の周囲へ展開し、複数人で防護術式を重ねていく。観覧位置まで十分に距離を取り、さらに従者から布を巻いた耳栓まで渡された。
「そこまでの音が出るのですか」
僕が尋ねると、エルネストが低く答えた。
「ドルンベルク卿の雷ならね」
いつもの軽さはなかった。
エリオン殿下も普段の笑みを消している。
「ユリウス、よく見ておいた方がいいよ」
「はい」
「たぶん、言われなくても目を離せないけど」
その意味は、すぐに分かった。
ジークフリートが訓練場の中央へ進んでいく。
最初に感じたのは、彼自身の体内魔力だった。
大きい。
ただ、単純に量が多いというだけではない。右手を上げるにつれ、その魔力が一定の状態へ整えられていく。
そして、それに周囲が応じ始めた。
空間に遍在していた魔力の揺らぎが、一斉に変化する。僕が共振と呼んでいる現象と根は同じように見える。
だが、規模が違いすぎた。
僕が普段行うように、一つずつ条件を定めて周囲の応答を引き出しているようには見えない。身体の動き、呼吸、魔力の流れ。そのすべてが最初から一つの手順として結びついている。
(これが……血統魔術)
エルヴィーラの時にも感じた。
術者本人の身体感覚と、血統固有の魔力特性。そして代々受け継がれてきた術式が、切り離せないほど馴染んでいる。
外から観測しただけでは、どこまでが身体の特性で、どこからが学習された制御なのか判別できない。
やがて、その右手が高く掲げられた。
空気が、かすかに鳴った。
まだ雷は生じていない。
それでも耳の奥が圧迫され、肌が細かく粟立つ。腕の産毛が持ち上がり、髪の先まで引かれるような感覚があった。
周囲の電気的な状態まで、すでに変わり始めている。
「天を裂くもの、地を穿つもの」
低い詠唱が響いた。
「我が血に宿るは、轟きの槌」
ジークフリートの周囲で白青い火花が弾ける。
短い放電。
それ自体は理解できる。
だが、なぜあの位置に、あの規模の電位差を作れるのかが分からない。
体内魔力を起点として周囲の魔力が応答している。そこまでは観測できる。けれど、その応答がどのように物質や空気へ作用し、あれほど大きな放電へ至ろうとしているのか。
過程を分解できない。
ジークフリートにとっては、おそらく分解する必要さえないのだ。
何年、何十年と身体へ刻み込み、父から子へ伝えられてきた手順。その完成形を、彼はいま一つの動作として扱っている。
「我が敵を焼き、我が道を開け」
近衛の魔術師たちが防護術式へ力を加えた。
レオニス殿下は微動だにしない。エリオン殿下も口を閉ざし、エルネストは目を細めてジークフリートの一挙手一投足を追っている。
右腕へ白青い光が絡みついた。
腕そのものが雷の起点になったように、細い放電が幾筋も走る。
「ドルンベルクの名において」
菫色の瞳が、雷光の中で鋭く光った。
「雷鎚よ、砕け」
視界が白く染まった。
次の瞬間、轟音が訓練場を叩いた。
耳栓越しでも音が骨まで届く。腹の奥を殴られたような衝撃に、思わず足へ力が入った。
白青い雷が奔る。
一本の線ではない。
太い幹から枝が伸びるように空中で分かれ、三体の標的へ襲いかかった。
一体目の胸当てへ直撃する。
金属が一瞬で赤熱し、接触部から木製の胴へ火花が走った。次の瞬間には内部から弾けるように木人が割れる。
枝分かれした放電が二体目へ飛ぶ。
肩口の金属から胴へ電流が走ったのか、革が焦げ、木材に黒い亀裂が走る。
三体目には直撃していない。
それでも標的間を走った一部の放電が金属部へ移り、留め具を弾き飛ばした。
背後の土壁にまで黒い跡が刻まれる。
熱で揺れる空気の向こうで、近衛の防護術式が激しく明滅していた。
ジークフリートが腕を下ろす。
肩で息をする様子すらない。
強い。
まず浮かんだのは、それだけだった。
エルヴィーラの雷が未熟だったという意味ではない。
彼女の《紫電槍》は、狙った一つの標的へ雷を届けるために磨かれていた。
だが、今の雷は目的が違う。
鎧を焼き、隊列を崩し、一度に複数の敵へ脅威を与える。
戦場で使うために研ぎ澄まされた魔術だった。
これがドルンベルク家の雷。
何代にもわたり受け継がれ、戦場で磨かれてきた血統魔術の一つの完成形。
僕は、まだ薄く煙の上がる標的を見つめた。
観測しようとはしていた。
術者の体内魔力。周囲の魔力の応答。空気が変化し始めた時点。詠唱と魔力の動き。放電が生じた位置と、その後の経路。
けれど、拾えたものは少ない。
分からない。
悔しいほど、分からない。
それなのに、胸の奥が熱くなっていた。
分からないものが、目の前にある。
それは僕にとって、諦める理由にはならない。
ジークフリートが振り返り、煙の向こうからこちらへ歩いてきた。
「見たか」
「……はい」
「これがドルンベルクの雷だ」
声には、揺るぎない誇りがあった。
家の名。受け継いだ術式。積み重ねてきた鍛錬。そして戦場で証明してきた力。
そのすべてを含んだ言葉だった。
「娘は、これに追いつこうとしている」
胸の奥が締めつけられる。
エルヴィーラが見ていたものは、これだったのだ。
ただ雷を放てるようになりたいのではない。父の背を追い、いつかこの力を受け継ぐ者になろうとしていた。
そこへ僕は、まったく別の道から雷へ触れた。
ジークフリートは僕の表情を見て、低く笑った。
「そんな顔すんな。あいつが泣いたのは、お前だけのせいじゃねえよ。自分の未熟さが腹に立ったんだろ。俺の娘だからな」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思ってる」
思っていた答えとは違った。
僕を責めるためだけに、ここへ来たわけではないらしい。
「だがな、小僧」
声が少し低くなる。
「雷ってのは、綺麗な光じゃねえ。しくじれば人を焼く。自分も、隣にいる奴もな」
焼け焦げた標的へ視線を向ける。
「俺たちは、それを知った上で使ってる。娘にも、最初にそれを教えた」
「はい」
「お前が理屈で雷を扱うってんなら、俺は止めねえ。血筋が違うから触るななんて言う気もねえよ」
その言葉は意外だった。
ジークフリートは僕を見据える。
「だが、理屈が分かったつもりになって、雷そのものを軽く見るなら話は別だ」
「軽く見るつもりはありません」
「なら、見せてみろ」
こちらを見る菫色の瞳に、先ほどまでとは別の熱が宿る。
「今の雷を、そのまま真似できるとは言わねえだろ?」
「はい」
即答した。
「一度見ただけで、ドルンベルク家の術式を理解できたとは思っていません。術者の身体的な魔力特性も、詠唱がどの制御と結びついているのかも分からないことばかりです」
「だったら?」
焼けた標的を見る。
それでも、分かったことはある。
大きな電位差が生じた。
放電が起きた。
複数の経路へ枝分かれした。
金属を通った電流が、熱や破壊を生んだ。
ドルンベルク家の術式そのものは、まだ理解できない。
けれど、最後に起きた現象まで理解不能なわけではない。
「同じ魔術は作れません」
ジークフリートへ視線を戻す。
「でも、雷という現象なら、僕の方法でどこまで近づけるか試せます」
口の端が上がった。
「それでいい」
獣のような笑みだった。
「俺の雷を真似しろとは言わねえ。お前の理屈で、お前だけの雷を形にしてみせろ。ユリウス・ヴァルディエル」




