第27話 青い封蝋
その日の朝、僕は自分でも分かるほど落ち着かなかった。
研究室の机には、電信実験の記録が積まれている。銅線の長さ、二本線の配置、陶器の支えの間隔、受信器の鉄片の反応、短音と長音を組み合わせた簡易符号。
整理すべきことはいくらでもある。
けれど、ペンを取っても、同じ行を何度も読み返してしまう。
原因は、分かっていた。
王太子府よりの招請。
その通達が、昨日の夕方、学術院へ正式に届いたのだ。翌日の午前、王太子府の使者が書状を届け、そのまま王城へ案内する。
そういう段取りらしい。
つまり、今日である。
研究棟の廊下で行った実験は、まだごく小規模なものだった。銅線で廊下の端と端をつなぎ、受信器の鉄片を動かしただけ。符号も、いくつかの定型合図を決めただけだ。
それでも、離れた場所へ意味を送った。
その事実が、王城まで届いた。
「ユリウス君。随分と緊張しているな」
エルネストの声で、僕は顔を上げた。
教授は、いつものように茶を飲んでいた。王太子府からの使者が来る日だというのに、まるで普段と変わらない。
「……そう見えますか」
「見えるとも。普段の君なら、もう三枚は記録を片づけている頃だ」
僕は手元の紙に視線を落とした。
「集中しようとはしているのですが」
「無理もない。王太子殿下からの招請だ。緊張しない方がどうかしている」
「教授は、落ち着いていらっしゃいますね」
「私が緊張しても仕方あるまい。王太子殿下が呼んでいるのは君だ」
「それは、余計に緊張する言い方です」
「なら安心材料を一つ。王太子殿下は、少なくとも話の通じぬ方ではない。聡明で、現実をよく見ておられる。君が誠実に話せば、きちんと聞いてくださるだろう」
エルネストはそこで、少しだけ目を細めた。
「ただし、誤魔化せる相手でもない」
「……安心材料のはずが、少し重くなりました」
「正直でよろしい」
誤魔化さない。
結局、できることはそれだけだ。
そう思っても、手元の記録紙はやはり少し遠く見えた。
その時、研究室の扉が軽く開いた。
入ってきたのはエリオン殿下だった。いつものように本を一冊抱えている。
「ユリウス、顔が硬い」
「エリオン殿下。おはようございます」
「うん、おはよう。顔が硬い」
「二回言わなくても分かっています」
「大事だから二回言ったんだよ」
エリオン殿下は当然のように僕の隣の椅子へ座る。完全に自分の席のような顔をしているが、最近では誰もそれを指摘しなくなっていた。
「兄上に呼ばれたんでしょ?」
「はい。エリオン殿下、王太子殿下はどんな方ですか?」
「兄上は、厳しいけど怖い人じゃないよ。優しいけど、甘い人でもない。必要なことを考えて、必要ならすぐに決める人」
その言葉は、思ったより真面目だった。
「キミの魔術を、兄上がただの面白い実験で済ませるとは思えないな」
「やはり、報告は王城へ届いているのですね」
「ボクの護衛が見ていたからね。届かない方が不自然だよ」
エリオン殿下は、悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「でも、大丈夫。兄上は、できないことをできると言う人が嫌いだ」
「それは、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫だよ。ユリウスは、できないことをできるとは言わないでしょ」
うまく見せようとする必要はない。
限界も含めて示せばいい。
「ありがとうございます、エリオン殿下」
「うん。顔が少しましになった」
「それは褒めていますか」
「褒めてるよ」
その時、研究室の扉が、今度ははっきりとした音で叩かれた。
エルネストが茶器を置き、姿勢を正した。先ほどまでの軽さは残っていない。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたのは、濃紺の上衣をまとった文官だった。胸元には王太子府の紋章がある。背後には王城付きと思われる騎士が二人控えていた。
威圧する様子はない。だが、その場に立つだけで、研究室の空気が引き締まる。
文官はまずエルネストへ一礼し、それから僕へ視線を向けた。
「失礼いたします。王太子府より参りました」
声は静かで、よく通った。
「ユリウス・ヴァルディエル殿に、王太子レオニス殿下よりご招請でございます」
王太子。
僕は立ち上がり、礼を取る。
「ユリウス・ヴァルディエルです」
文官は封蝋の押された書状を差し出した。深い青の封蝋には、王太子府の紋章が刻まれている。
「本日、王城にて殿下がお時間をお取りになっております。御身支度が整い次第、ご案内いたします」
「承知いたしました」
書状を受け取る手に、わずかに力が入る。
エルネストが口を開いた。
「王太子殿下に、学術院としても謹んで応じる旨をお伝えください。私も同行いたしましょう」
「承っております。エルネスト・クローディアス教授にも、ご同席をとのお言葉です」
どうやら、そこまで決まっていたらしい。
文官の視線が、エリオン殿下へ向く。
「エリオン殿下にも、王太子殿下よりご同席をとのお言葉がございます」
「うん。分かってる。ボクも行くよ」
エリオン殿下は軽く頷いた。
文官は一礼し、静かに下がる。
扉が閉まると、研究室にほんの少しだけ沈黙が落ちた。
エルネストがそれを破る。
「行こう。王太子殿下を待たせるわけにはいかん」
王城へ向かう馬車の中で、僕は書状を膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。
王都の街並みが流れていく。市場、水路、白い壁の商家、貴族街へ続く整えられた通り。前にカティアと歩いた道も、遠くに少し見えた。
あの時、僕は思った。
魔術が世界を変えるのだとしたら、それは人の暮らす場所に届く。
電信も同じだ。
王城と城門。軍務院と兵舎。港と倉庫。街道の詰所と王都の中枢。
情報の届く速さが変われば、人の動きも変わる。命令の重さも、報告の意味も変わる。
それは便利なだけでは済まない。
誰かの仕事に触れる。誰かの権限に触れる。誰かが守ってきた誇りに触れる。
エルヴィーラの涙を思い出す。
研究に嘘はつけない。できることを、できないふりはできない。
けれど、届く先にいる人のことも見なければならない。
王城に入ると、空気が変わった。
高い門、磨かれた石床、壁に掲げられた王家の紋章。廊下には静かな緊張が満ちている。王城の者たちは無駄な音を立てずに動き、すれ違うたびに整った礼を取る。
案内されたのは、謁見の間ではなかった。
より小さく、しかし品格のある応接室だった。大きな窓から光が差し込み、重厚な机と椅子が置かれている。
壁には王都周辺の地図が掛けられていた。王城、城門、兵舎、軍務院、港、主要街道。
王都の血管のように、道と水路が細かく描かれている。
電信の話をするには、あまりにもふさわしい部屋だと思った。
「よく来た」
低く落ち着いた声がした。
部屋の奥に立っていた青年が、こちらを向く。
王太子レオニス・フェルマティア。
エリオン殿下と同じ金の髪を持ちながら、その印象は大きく違っていた。
あの金色が未知へ飛び込む光だとすれば、レオニス殿下のそれは王国を照らすために制御された光だった。
ただ立っているだけで、周囲の空気が自然と彼を中心に整う。
これが、王太子。
そう思った。
エリオン殿下が軽く手を上げる。
「兄上」
「エリオン。お前がこれほど他人に興味を持つなんて珍しい」
「面白いからね」
「それは報告で聞いている」
レオニス殿下の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。弟を見る目は、思ったより柔らかい。
だが、その柔らかさはすぐに引き締まり、僕へ向けられた。
「ユリウス・ヴァルディエル」
「はい」
僕は深く礼を取った。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「堅くならなくていい。とはいえ、無理だろうな」
そう言われて、少しだけ言葉に詰まる。
レオニス殿下はその反応を見て、わずかに笑った。
「座りなさい。今日は話を聞くために呼んだ」
僕はエルネストと共に席へ着いた。エリオン殿下は当然のように僕の近くに座ろうとしたが、レオニス殿下に一度見られ、少しだけ姿勢を正してから座った。
「まず聞きたい」
レオニス殿下が口を開いた。
「君は、魔術を理論によって組み立て、行使している。そう報告を受けている」
電信の話ではない。
雷魔術の話でもない。
もっと根本の、僕が魔術とどう向き合っているのかを問われているのだと分かった。
「火を生む。光を曲げる。結界を張る。雷を操る。君はそれらを、血筋や感覚だけに頼るのではなく、現象として捉え、条件を整え、再現しようとしている」
レオニス殿下は、机上に置かれた報告書へ視線を落とした。
「にわかには信じがたい話だ。王国の魔術師たちは、長い間、才能と血統と経験によって魔術を磨いてきた。血統魔術に至っては、各家の誇りであり、秘儀でもある。それを理論によって扱うというのは、王国の常識をいくつも覆しかねない」
僕は黙って聞いていた。
殿下の声は、厳しい。けれど、否定するためのものではなかった。
慎重に言葉を選びながら、僕の研究の輪郭を確かめている。
「だが、君については、すでに複数の報告が上がっている。エルネストが君を特待生として招いたこと。エリオンが君の研究に強い関心を示していること。そして、希少な雷魔術にまで踏み込んだこと」
レオニス殿下の視線が、まっすぐ僕へ向けられる。
「だから、報告ではなく、君自身の言葉として聞きたい」
静かな問いだった。
「ユリウス・ヴァルディエル。君の研究は真実か」
喉の奥が、少しだけ乾いた。
真実か。
その問いは、実験が成功したかどうかを聞いているのではない。僕が何を見て、何を信じ、どこへ進もうとしているのかを問うていた。
僕は一度、息を整えた。
「真実です」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「僕は、魔術を理論によって扱えると考えています。もちろん、すべてをすぐに説明できるわけではありません。血筋や才能、感覚が関わる部分もあるでしょう。それを否定するつもりはありません」
けれど、と続ける。
「魔術が現象として発現している以上、そこには条件があります。条件があるなら観測できます。観測できるなら、分解し、再現性を高めることができるはずです」
レオニス殿下は、黙って僕を見ていた。
その視線には圧があった。けれど、不思議と恐怖だけではない。こちらの言葉を、そのまま量っている目だった。
「魔術には、無限の可能性があります」
僕は言った。
「火も、光も、風も、雷も、ただ人を傷つけるためだけのものではありません。条件を理解し、扱い方を変えれば、今まで誰も考えなかった用途が生まれる。僕は、そう信じています」
部屋は静かだった。
エルネストも、エリオン殿下も、口を挟まない。
レオニス殿下はしばらく僕を見つめていた。やがて、ほんのわずかに息を吐き、指先で報告書の端を整えた。
「よい」
短い一言だった。
「君が、軽々しく語っているのではないことは分かった」
「ありがとうございます」
「だが、だからこそ慎重に扱わねばならない」
レオニス殿下の声が、わずかに重くなる。
「君の魔術理論がこの国に益をもたらすのか。それとも、混乱を招くだけなのか。王国を導く立場にある者として、余はそれを見極めねばならない」
僕にとっては研究だった。
だが、レオニス殿下にとっては違う。
これは、王国の未来に関わるものとして見られている。
「余一人がどう判断するかだけでは足りない。王国の前で、その可能性を示してもらう必要がある」
「王国の前で、ですか」
「そうだ」
レオニス殿下は、壁に掛けられた王都周辺の地図へ視線を向けた。
「君が本当に、理論によって魔術を扱えるのなら。その理論が血統や感覚に閉じた魔術を、学び、伝え、再現できるものへ変え得るのなら。王国はそれを無視できない」
静かな言葉だった。
けれど、その重さは命令に近かった。
「まずは、君が学術院で行った雷魔術の応用について、改めて実証の場を設ける。王城と外門詰所を結ぶ短距離の試験線を用意し、王太子府、学術院、軍務院の立ち会いのもとで示してもらいたい」
電信。
研究棟の廊下で鳴った小さな音が、今度は王城の中で試される。
僕は一瞬、言葉を失った。
まだ早い、という思いはある。距離を伸ばした時の安定性も、被覆の耐久も、受信器の調整も足りない。何より、現状では僕しか安定して電流を扱えない。
けれど、ここで退けば、僕の理論は研究室の中で閉じる。
「……承知しました」
僕はゆっくりと答えた。
「ただし、準備の時間をいただきたいです。確認すべき点が多くあります」
「認める。必要な資材は王太子府から手配しよう。エルネスト教授、学術院側の監督は任せる」
「承りました」
エルネストが深く頭を下げる。
「期待している」
その一言は、褒め言葉であり、重い命令でもあった。
そこでレオニス殿下は、扉の方へ視線を向けた。
「今回の件については、雷魔術の専門家として、ドルンベルク卿にも意見を求めている」
その言葉が終わるのとほとんど同時に、扉が外から叩かれた。
「入れ」
レオニス殿下が告げる。
扉が開き、大柄な男が部屋へ入ってきた。
厚い胸板。日に焼けた肌。短く刈られた栗金色の髪。鋭い菫色の瞳。
理知的な文官とも、洗練された宮廷貴族とも違う。戦場の気配をそのまま王城へ持ち込んだような男だった。
男はレオニス殿下へ軽く礼を取り、それから僕へ視線を向けた。
「ジークフリート・ドルンベルクだ」
低い声だった。
「細かい理屈に、俺が口を挟む気はねえ。そこは殿下と学者どもの領分だ」
一度言葉を切り、こちらを見る。
「俺が見るのは一つだけだ。お前が、雷の怖さを分かった上で触っているかどうかだ」
その声音には、飾り気がなかった。
けれど、言葉の重みはあった。
「雷魔術は危険です。制御を誤れば、人を傷つける可能性があります」
「分かっているならいい」
ジークフリートはそれ以上、細かなことは聞かなかった。
ただ、こちらを見る目は鋭い。
理屈の中身まで問いただすつもりはないらしい。それでも、雷を扱う以上、半端な覚悟は許さない。
そんな圧だけは、十分に伝わってきた。
話は終わった。
そう思った瞬間だった。
「ところで、ユリウス・ヴァルディエル」
低い声が、部屋の空気を震わせた。
大柄な男の影が一歩近づいただけで、身体が自然と強張った。
卿は僕を見下ろし、獣が笑うように口の端を上げた。
「うちの可愛い娘を泣かせたそうじゃねえか、坊主」




