終わりの話~Finale~
その日も例外なく、モルヴァは一面の雪景色であった。
昨晩の吹雪は収まったようで、氷の粒がきらきらと反射するさまは、厳しい気候を一瞬忘れさせるほどに神々しい風景であった。
つかの間の眩しい晴れ間に、エミーリオはやつれた笑顔を見せながら、寝台の上から目を細めて積もった雪を眺めていた。
「晴れましたね」
そういい終えるとエミーリオが苦しげに咳き込み、弱々しい呼吸を繰り返す。
潤んだ瞳でヴィンチェンツォを見つめ、「すみません」とエミーリオが途切れ途切れに呟いた。
ヴィンチェンツォは「温かい飲み物を持ってこよう」とうろたえながら廊下へと急ぐ。
激しくどんどんと揺れる扉の音に、ヴィンチェンツォは「忙しいな」とぼやきつつ、慌てて玄関へ足を運ぶ。
冷たい風が吹き込むと同時に、モルヴァに似つかわしくないような、南国の鳥を思わせる少女達の群れが姿を現した。
宿屋の四姉妹であった。
「エミーリオ君の具合はどうですか?」
その中でも一番年長と思われる、エミーリオより二つほど年上の娘が、ヴィンチェンツォに向かって包みを差し出し、にっこりと微笑んだ。
「顔色もよくなったようだが、熱もあるし、まだ辛そうだ」
そうですの、と娘は落胆を隠さず肩を落とす。
「たくさん食べてもらおうと思って、たんとこさえてきましたの」
よそ行きの声を出す姉が滑稽だったのか、妹達が後ろでくすくすとしのび笑いをもらしている。
少女が手にした包みから、ほんのりと香ばしい香りが漂っていた。
何かの肉のようである。
「早く元気になって、また二人でうちに来てくださいな」
「お気遣いありがとう。エミーリオには伝えておくから」
薄笑いを浮かべつつ、ヴィンチェンツォは娘達の抗議の声を遮るかのように素早く扉を閉めた。
ありがたいことではあるが、こんな胃に悪そうなものを、どうして数日何も口にしていない病人が食せるというのか。
ヴィンチェンツォは包みの上から匂いを確かめ、「熊だな」と呟きつつ居間へ戻っていく。
そしてエミーリオが書き出してくれた粥の作り方を手に取り、持ち出し禁止の機密文書でさえこれほど真剣に読んだことなどない、と睨みつけている。
現在のヴィンチェンツォにとっては、コーラーの密偵から送られた密書やエドアルドの私信よりも、手のひらの中の調理法の方が遥かに重要であった。
どうしたものかと片手を顎にあて、しばらく考え込む。
とりあえず飲み物だ、と明らかに多すぎると思われる量の茶葉を無造作に茶器に投げ込み、湯を注ぐ。
慣れれば俺にだってできる、と若干満足そうに古い壁の染みを見つめていたヴィンチェンツォの耳に、再び荒々しい訪問者を告げる音が聞こえてきた。
今度は誰だ、と不機嫌そうな顔になるものの、ヴィンチェンツォは先ほどと同じような差しさわりのない笑顔を瞬時に作り上げてから、扉を開ける。
隣家の娘が友人を引き連れ、健康的な笑顔を全開にしていた。
「たーだ寝てるだけじゃ、いつまでたってもよくなんねえしょ。体にいいもの持ってきたで、食べさせてやんねと。ついでに片付けしてすっきりさせて、悪いもの全部ここのうちから出してやんべさ」
ヴィンチェンツォに籠を押し付け、ぐいぐいと屋内へ入ろうとするたくましい体躯の娘を、ヴィンチェンツォは「いやいやいや」と慌てて押しとどめる。
「掃除は自分で出来るから。御両親にもいつもありがとうとお伝えしてくれ」
必死で笑顔を保ちながらも娘の侵入を全力で阻止し、ヴィンチェンツォは瞳孔が開かんばかりの形相で扉を再び閉じた。とどめに内側からかんぬきをかける。
「なして遠慮するのさ。お隣なんだからそんなのなしだべ」
と扉を叩いて大声を上げる隣人をいつものように無視し、ヴィンチェンツォは肩で荒い息をついていた。
ここの女性は、熊より扱いが難しい気がする。
それでもどうにか慣れた。
でも時折辛くなる。
そしてまた慣れた。
けれどやっぱりこの地で生きていくということは、街育ちの自分には天から賜った試練のようにさえ感じる。
ヴィンチェンツォはその感情の起伏を繰り返し、モルヴァに着任して半年が経とうとしていた。
何が起きても驚くまいと固く心に誓って赴任したつもりだった。
だが、計算外及び想定外の出来事も多々あった。
仕事以外に疲労を感じるのは、モルヴァが僻地なせいなのだ。
今の自分達は、猫の集会所に運悪く舞い降りてしまった間抜けな雀のよう、と赴任してまもない頃、ヴィンチェンツォはおぼろげながら気付いた。
またもや激しく扉がどんどんと叩かれ、ヴィンチェンツォの顔が恐れと怒り半分で引きつり始めていた。
今日は休日だ。
エミーリオの様子を看つつ、のんびり体を休めようと思っていたはずなのに、こうもひっきりなしに人が訪ねてくるのは、慣れたこととはいえ、今日だけは勘弁してほしかった。
若い娘といえども今日こそは、はっきり物申さねば総督としての威厳を保てぬ。
ヴィンチェンツォは敢えて気難しい顔を作り上げると、臨戦態勢で扉を勢いよく開け放った。
ヴィンチェンツォの目の前でぶるぶると身を震わせている男は、隣の娘の半分ほどの細さであった。
毛皮のコートの中でこれ以上はないというほどに小さく体を丸め、ロメオ・ミネルヴィーノは耐えかねたように叫ぶ。
「寒い!」
がたがたと震えながら、ロメオが悲鳴に近い声をあげていた。
「お久しぶりです」
そして、のそりとわずかに身じろぎをするロッカの姿に、ヴィンチェンツォは呆気にとられていた。
ロメオが来るとは聞いていたが、まさかロッカまで来るとは思いもしなかったからである。
ここはモルヴァだよな、と口に出さず立ち尽くすヴィンチェンツォである。
「来る途中吹雪の日ばっかりで足止めはくらうし、なんなんだよこのど田舎は。もっと早く着くはずだったのにさ」
「大袈裟です。今日はとてもよい天気ですし、灼熱の王都の工事現場を思えば、モルヴァは天国です。ですよね、ビアンカ」
え、と一瞬呆けた顔になるヴィンチェンツォの手から、籠がするりと落ちかけ、ロッカの背後から小さな悲鳴が上がる。
危なかった、とため息をもらすヴィンチェンツォを見上げるフードの奥には、太古の輝きを集めたような瞳が煌めいていた。
「ごきげんよう、閣下」
「…ごきげんよう」
わずかに口元を上げ、ビアンカは軽く膝を折って挨拶する。
時が止まったかのようにビアンカを凝視しているヴィンチェンツォである。
その静寂をかき乱し、雪を踏みならしてずかずかと歩み寄る者がいた。
「お客様がおいでなら、ご連絡くださればよかったのに!皆様、是非うちにご滞在くださいな。料理自慢の宿ですのよ」
先ほど帰したはずの宿屋の姉妹が、庭先できゃあきゃあと騒ぎながら、ちらちらとこちらを見ている。
若い男の気配をいち早く察し、隣家の娘とその友人達が好奇心丸出しで、再び戸外へ顔を出す。
街の人かしら、随分痩せすぎでねえの、自分達を値踏みする無数の目に背筋が凍るのは、決して寒いからではない、とロッカの動物的本能が警鐘を鳴らしている。
ロッカは神妙な顔をして、鋭さの欠片も見当たらない、かつての宰相閣下の様子をうかがっていた。
ふん、と隣の娘は鼻を鳴らすと、自分より背の低い宿屋の長女を馬鹿にしたように見下ろしていた。
「総督さまの前じゃ街の人みてえな話し方して、なぁに調子こいてるのさ。こったらとこでくっちゃべってねえで、家さけえって手伝いしれ!」
いいふりこきだべさ、とひそひそ囁き合う少女達の声に顔を真っ赤にして、宿屋の長女が負けじと言い返す。
「あんたこそ隣だからってずうずうしく押しかけて、総督様が迷惑してるのがわからないの?」
ロメオは恐いもの見たさに寒さも忘れ、鼻息荒く角突き合わせている娘達から目が離せずにいた。
「若い女の子に囲まれて、随分楽しそうじゃない。…ちょっと女の子の趣味が変わったみたいだけど、いいんじゃないかな、どの子も丈夫そうだし」
「違う!単に面倒見のよい子達ばかりで、村の知り合いなだけで、俺は何も」
怯えたように全力で否定するヴィンチェンツォは、格好の玩具である。
「で、どの子なの?挨拶しないと」
ロメオの表向き真面目を装った口調が、ヴィンチェンツォを一層苛立たせていた。
「だから俺は全然そのつもりはないと言ってるだろうが!それもこれも村が豊かでないせいだ、上の責任だ」
「こちらが把握している以上に、男女比が偏ってたんですね」
鶏のように早口で言い合う娘達の会話は、もはやロッカにも聞き取り不可能だった。
「飢えてるから、男なら誰でもいいってやつか。北の女の子は積極的なんだね」
ロメオの言い方は何か引っかかる、とヴィンチェンツォは思うが、悲しげに頭を振るのみであった。
「あなたがここまで村に溶け込んでいると知れば、陛下もさぞ驚かれるでしょうね。あなたを気にかけておいででしたが、心配無用と報告しておきます」
「報告するなら、若い衆が出稼ぎなしで村で生活できる基盤を作ってやってくれと」
この状況を溶け込んでいるとでも、と苦悩混じりに自問自答するヴィンチェンツォを、ビアンカは目をぱちくりさせながら見上げていた。
喧騒と寒さから逃れるように一足先に屋内へ足を踏み入れたロメオが、「なんだこれ!」と悲鳴をあげる。
「汚い!床が見えない!どんだけ掃除してないんだよ!」
「エミーリオが風邪で臥せってから二、三日経つが…」
ロメオの後を追って再び安全な場所へと避難したヴィンチェンツォである。
そして最後に屋内へ入ったロッカに「鍵を忘れるなよ、忘れたら取り返しのつかない事態になるぞ」と真顔で言った。
舌打ちしたロメオが次の瞬間、転がる空き瓶に足を滑らせ転倒した。
「だからって、酷すぎるだろ!信じられないくらい汚い!僕は耐えられない!」
ロメオはわめき散らしながらも転がった空き瓶を回収すると、上等の毛皮のコートを脱ぐのももどかしく、辺りに落ちているものを片っ端から拾い始めた。
雑然とした室内を憮然とした表情で眺め回し、ロッカが説教混じりに言った。
「使用人としてあなたにエミーリオを貸したわけではありません。エミーリオは無事でしょうか」
エミーリオの名を呼びながら、ロッカが奥へと消えていった。
そうだ、忘れてた、と淹れかけの茶を思い出し、ヴィンチェンツォは籠をかかえたまま慌てて居間へと戻る。
こういうことは苦手、と無意識に全身で語っているヴィンチェンツォを止め、ビアンカが軽く首を横に振った。
「私が」
ヴィンチェンツォは、舶来品の知識も興味も持ち合わせていなかったが、異国の高級な茶器に違いないのはわかる。
ビアンカに託した方が遥かに安全であると悟り、ヴィンチェンツォは悲しげに「すまない」と言った。
うろたえるヴィンチェンツォに背を向け、ビアンカは鮮やかな手つきで複数のカップに茶を注いだ。
大声でロッカを呼び、茶の入ったカップを載せた盆を手渡すと、ヴィンチェンツォは「あなたも」とビアンカに茶を勧めた。
「拭き掃除したい!水はどこだ」
ほんのわずかな時間で、すっかり掃除夫と化したロメオである。
「もうない。裏の井戸から汲んできてくれ。急ぎでないなら、雪をかめに放り込んでおくんだ」
「ふざけるなよ!なんで水道ないんだよ!」
僻地だから、と呟くヴィンチェンツォから木桶をぽんと手渡され、ロメオは憤怒の形相で勢いよく戸外へ飛び出していった。
雪に足を滑らせたのか、ロメオの悲鳴が外から響いてきた。
扉が開き、ロメオがよろよろと腰に手を当てて戻ってきた。
「僕がコーラーから戻るまでに、絶対水道引いておけよ!冗談じゃないよ!」
「そうは言っても、雪がとけないことには何もできやしませんが…」
とにもかくにも企画書を作りましょう、と呟きながらロッカがエミーリオの元へと戻っていった。
ロメオは畜生、と言い捨てるとよろめく体を引きずり、再び戸外へ突進していく。
慌しく動き回る男達を見つめ、ビアンカはぽつりと言った。
「大変そうですね。王都と違って」
「慣れれば、そんなものだと…いろいろと」
この気まずさをどうしたものか、とヴィンチェンツォはお茶をすすりながら、二人が戻ってくるのを待ちわびていた。
温かいカップで両手を暖めながら、ビアンカは暖炉の火を見つめていた。
「どうしてモルヴァに」
しばしの沈黙の後、ビアンカはカップのお茶で喉を潤した。
「ヴィンチェンツォ様に、会いに来ました」
はぜる火に視線を向けたままのビアンカの声は、大きくも小さくもない明瞭な声であった。
何故、と問うべきかどうか迷いながら、ヴィンチェンツォはごくりと喉を鳴らしてビアンカを見つめていた。
「あなたは嘘つきです」
唐突にビアンカの口から発せられた言葉は、自分を非難するものだった。
思い当たることが多過ぎて、ヴィンチェンツォは彼女が何を言わんとしているのかとっさに理解できなかった。
何がばれたのだろう、と青ざめるヴィンチェンツォを睨みつけ、ビアンカは続けた。
「私を助けに来てくれるって言ったのに、来てくれませんでした。あれは嘘ですか」
「そんなこと、いったいいつ、どこで」
「王宮のお庭で、陛下にそうおっしゃってました。でも、忘れたならいいです。本気でなかったのなら全然かまいません。よくありませんけど、傷つきますけど」
聞かれていたのか、とヴィンチェンツォは間の悪さに思わず頭を抱えていた。
それはその、と口ごもるヴィンチェンツォを睨んだまま、ビアンカは泣きそうになる自分と戦っていた。
私はまだ何もしていない。
まだこの人と、何も話せていない。
あの人を徹底的に叩きのめしてきなさい、とメイフェアに背中を押されて旅立った日を思い出し、ビアンカは何かにすがりつくように、スカートの裾をぎゅっと握り締めていた。
二杯目のお茶を淹れに、ロッカが居間へと顔を出す。
「王都の噂など滅多に耳にすることもないでしょうが、ビアンカも大変だったんです。陛下は面白がって見ているだけですし、彼女が脱出したくなるのも当然かと」
「大雑把ではあるが、姉が何か書いて寄越してきたな。あなたを褒め称える内容ばかりだったが」
「周りの反応はそうかもしれませんが…」
ビアンカは顔をあげ、わずかに眉根を寄せるロッカに微笑んだ。
「人目を気にせずにのんびりできて、道中楽しかったです。ここまで連れてきてくださってありがとうございました」
「お役に立てて、何よりです。当分は雲隠れを強いられるでしょうが、王都にいるよりはいいと思います」
「雲隠れって、なんだ」
話がみえない、とヴィンチェンツォは先ほどから動揺したままである。
外から戻ってきたロメオが雑巾を手に、居間へひょっこりと顔をのぞかせた。
「巫女様があまりにも人気すぎてね、なにせ寝室にまで護衛がつくくらいだから。それならいっそ、ど田舎の方が安全でしょ」
外で様子をうかがっていたと思われる少女達に助けられ、ロメオはどうにか井戸から水を汲み上げたようであった。
「何かあったのか」
険しい顔になるヴィンチェンツォを、「ふーん」と眺め、ロメオが廊下を磨きに消えていく。
では、と気を利かせたのか、ロッカがいそいそとエミーリオの部屋へと戻っていった。
「ありましたけど、自力でどうにかしました。だから、あなたに助けてもらわなくても、私は」
相変わらずビアンカは、睨むような眼差しで自分を見ている。
何故か理不尽に責められているような気もする。
ヴィンチェンツォは無意識に首の後ろで束ねられた髪に手をやり、途方に暮れていた。
「俺に文句を言う為に、わざわざここへ来たのか」
言葉に詰まり、目を伏せていたビアンカは、意を決したように被っていたフードを取り、コートを脱ぐ。
「これもお忘れですか。あなたが、私にくれたものです」
ビアンカの栗色の髪で輝く白い花を目にした途端、思わずお茶を噴き出したヴィンチェンツォだった。
「誰かに、何か聞いたのか」
哀れなまでに苦しげに咳き込むヴィンチェンツォから目を離さず、ビアンカは詰問するような口調で言った。
「あなたの口から、直接聞かせてください。隠さないで、全部話してください」
「長い話になる。今話したところであなたに良い結果になるかどうか、俺はわからない」
ようやく咳が収まり、ヴィンチェンツォは精一杯冷静さを装うものの、どうにも格好がつかないと自覚していた。
ビアンカは横の小さなテーブルにカップを置き、両手を膝の上で握り締めていた。
私から話さなくては、この人もきっと、何も教えてくれない。
「顔は見えないけど、私のそばにいつも誰かがいました。私の夢の中で二人は、いろいろな場所にいて…。街の中や王宮の庭や、綺麗な月の夜だったり、その人と一緒にいる私はとても幸せな、普通の女の子で…。私がその人と過ごした過去があるなら、夢じゃないなら、いつかきっと会いに来てくれると思っていました」
顔が熱い、とビアンカは頬に手を当て、恥ずかしさを隠すように低い声を出す。
「でも、いつまで経ってもその人は現われませんでした。どこにいるのかわからない人を、本当に存在したかどうかわからない人を一人で待っているのは、とても寂しくて、辛かったの。…あれは、あなたですか」
口にすれば、それは終わりなのか、始まりなのか。
「それだけの為に、不確かな記憶だけを頼りに、俺のところへ…?」
ビアンカは目の奥の熱さに気付かないふりをして、ありったけの勇気を振り絞る。
「答えてください。私を愛してくださった方は、あなたですか」
「私の恋人は、あなたですか」
ヴィンチェンツォは呼吸を止め、栗色の髪に添えられた小さな白い花を見つめていた。
とくとくと早鐘のごとく波打つ胸の音が、ビアンカに聞こえるのではないかと思った。
「俺がそばにいなくても、あなたは幸せなのだと思っていた。俺が独り占めしてしまったら、あなたの人生に意味はないのだと」
過去に囚われて生きるよりも今のビアンカの目の前には、開かれた世界が果てしなく広がっているのだと思っていた。
自分自身にそう言い聞かせるより他に、二人は先へ進めないのだと、今日まで思ってきた。
「勝手に決めていなくなったくせに、どうして泣くの」
ビアンカが伸ばした指先がヴィンチェンツォの頬に触れ、伝い落ちる一筋の雫を拭う。
ヴィンチェンツォはその手に一周りも二周りも大きい自分の手のひらを重ね合わせ、何度もまばたきをしていた。
「真実を告げたら、あなたを苦しめると思った。過去を後悔して欲しくなかった。でも今は、自分が後悔している」
気が付けば自分の想像を超え、目の前の女性は再生の象徴として、この世に君臨していた。
それを奪うのは大罪を犯すに等しく、自分は女神か天女に報われぬ恋をしたのだと言い聞かせた。
「巫女じゃなくても、ただのビアンカでいいと思ってくれたのは、あなただけでした。それに気付いたら、今までのように生きていくなんて出来なくて…私は、やっぱり弱い人間ですか」
無言で首を振り、ヴィンチェンツォは自分の手の中に柔らかく力を込める。
この手を離した自分は、あまりにも愚かであった。
「そんなんじゃないんだ。俺はどうしようもなくわがままで、嫉妬深くて…」
誰の為でもなく、自分一人の為に生きてほしいと願う、浅ましい人間だった。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
ヴィンチェンツォの長い両腕がごく自然に、ビアンカを優しく包み込む。
ビアンカが手にしていたコートがふわりと床に落ち、ビアンカは弾かれたようにその背中に腕を回す。
ビアンカは全身に感じる強くて暖かい力に心地よい目眩を覚え、ヴィンチェンツォを魅了してやまない琥珀色の瞳をそっと閉じる。
柔らかい耳に唇を当てながら、ヴィンチェンツォは聞く者をぞくりとさせるような低い声で呟いた。
「ビアンカ、好きだ」
~了~