9話
その噂を聞いたのは、偶然だった。
「……最近、侯爵家が妙でな」
廊下の向こう。
使用人たちの、ひそやかな声。
「娘の方も……以前のような評判では」
「顔色も優れぬとか……」
そこで、言葉が途切れる。
気配に気づいたのか、静かになる。
(……侯爵家)
胸が、わずかに揺れる。
もう関係のないはずの場所。
なのに。
「セシリア様」
背後から声がする。
振り返ると、イシュヴァル。
「どうかなさいましたか」
「……いえ」
すぐに否定する。
でも。
完全には消えない。
ほんの少しだけ残る、引っかかり。
「外の様子を、ご覧になりますか」
不意に、そう言われる。
「……え?」
「気になっておられるようでしたので」
穏やかな提案。
断る理由が、見つからない。
「……少しだけ」
頷くと、彼は満足そうに微笑んだ。
連れて行かれたのは、街の外れ。
人目につかない場所から、広場を見下ろす。
そこに――
「……ルミナ?」
思わず、息を呑む。
いた。
間違いなく、妹だった。
でも。
(……誰?)
一瞬、そう思ってしまう。
美しい。
それは変わらない。
けれど。
何かが、崩れている。
視線が集まっているのに。
どこか、長く続かない。
笑っているのに。
無理に作っているのが分かる。
「見てください……私を」
ルミナの声が、風に乗る。
必死な響き。
かつての余裕は、どこにもない。
「私は、こんなに――」
言葉が、途中で詰まる。
周囲の反応が、薄い。
誰もが見ているのに、誰も“残らない”。
(……どうして)
セシリアの胸が、ざわつく。
知っている顔。
知っている声。
なのに。
まるで別の存在みたいに見える。
「愛は、難しいものです」
隣で、イシュヴァルが静かに言う。
「……え」
「求めるほど、形が変わる」
穏やかな声。
説明のようで。
どこか、距離がある。
「……あれは」
言葉が、うまく出ない。
「あれは……」
妹。
そう言いたいのに。
なぜか、遠い。
「望まれた結果です」
あっさりと、返される。
「……結果?」
「ええ」
微笑みは変わらない。
「願いは、正しく叶えられている」
その言葉に、胸の奥がひやりとする。
(……正しく?)
あれが?
あれが、“正しい”?
その時。
ルミナが、こちらを見た。
目が合う。
一瞬。
時間が止まる。
「……お姉様?」
かすれた声。
そして。
次の瞬間。
「どうして、あなたが……!」
表情が歪む。
嫉妬と、焦燥と、何かが混ざった顔。
「どうして、そんな顔をしているのよ!」
叫びに近い声。
「あなたは……何も持っていなかったのに!」
胸に、刺さる。
でも。
それ以上に。
違和感が強い。
(……私)
何も持っていなかった。
それは、事実。
なのに。
(今は……?)
視線が、自然と隣へ向く。
イシュヴァル。
穏やかなまま。
何も変わらない。
でも。
(……どうして)
ここだけが、違う。
外は、崩れているのに。
ここだけ、何も変わらない。
「……イシュヴァル様」
初めて。
ほんの少しだけ。
問いの温度が変わる。
「これは……」
何なのか。
聞こうとした、その瞬間。
指先が、そっと触れる。
頬に。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
いつもと同じ声。
でも。
どこか、深い。
「ご不安ですか」
「……はい」
正直に、頷く。
初めての感覚だった。
ここにいて、揺らぐ。
「そうですか」
彼は、わずかに目を細める。
そして。
「それでは」
静かに、続ける。
「離れますか?」
その一言で。
すべてが、止まる。
離れる。
ここから。
この場所から。
この人から。
考える。
ほんの、一瞬。
ルミナの姿。
父の顔。
あの家。
そして。
今の自分。
(……戻りたくない)
はっきりと、思う。
怖い。
おかしい。
でも。
それでも。
「……いいえ」
答えてしまう。
その瞬間。
イシュヴァルの指が、わずかに強くなる。
「よろしい」
低く、満足した声。
「それでこそ」
逃げ道は、もうない。
でも。
自分で選んだ。
「貴女は、正しい」
優しく、肯定される。
そして。
「だから、守られる」
その言葉に。
胸の奥が、静かに落ち着いていく。
違和感は消えない。
でも。
それ以上に――
ここにいたいと思ってしまう。
遠くで。
ルミナは、崩れかけた笑みで立ち尽くしていた。
誰も、見ていない。
もう。
“愛される側”ではない。
そして。
「……収穫ですね」
イシュヴァルは、静かに呟く。
手の中の温もりを、確かめるように。
「ようやく」
その声は、穏やかで。
どこまでも優しかった。




