10話
雨が、静かに降っていた。
広間に集まる人々は、以前よりも少ない。
それでも。
残っている者たちの熱は、むしろ濃くなっていた。
「どうか……もう一度……」
「救いを……!」
縋る声。
焦りを帯びた祈り。
その中心に。
変わらず、彼はいた。
「ようこそ」
イシュヴァルは、穏やかに微笑む。
何も変わらない。
何一つ。
「教祖様……!」
その声は、かすれていた。
前へ進み出たのは――ルミナ。
かつて、誰よりも視線を集めていた少女。
今は。
美しい。
それでも、確かに。
崩れている。
頬はこけ、瞳の輝きは濁り、肌には隠しきれない“時間”が浮かんでいる。
「どうして……どうしてなの……!」
叫びが、広間に響く。
「私は願った!」
「誰よりも愛されたいと!」
「なのに……!」
息が乱れる。
震える手で、自分の顔を押さえる。
「見てくれないの……誰も……!」
その声に。
誰も近づかない。
視線はある。
でも――“留まらない”。
「教祖様……!」
もう一人、前へ出る。
グラント侯爵。
かつての威厳は、影を潜めていた。
「私もだ……!」
声に、焦燥が滲む。
「地位は得た!」
「だが、誰も従わぬ……!」
「裏切りばかりだ……!」
拳を握りしめる。
「なぜだ……なぜ、こうなる……!」
沈黙。
そして。
「……なぜ、と」
イシュヴァルは、静かに繰り返した。
ゆっくりと、二人を見下ろす。
変わらない微笑。
「不思議に思われますか」
その声音に。
わずかに、温度が混じる。
――ほんの少しだけ、冷たい。
「貴女は、“愛されたい”と願われた」
ルミナへ。
「はい……!」
涙に濡れた顔で、縋る。
「だから、与えました」
淡々と。
「誰もが目を奪われる美しさを」
「……なら、どうして!」
「――“愛される形”を」
一言、重ねる。
ルミナの言葉が止まる。
「貴女は、“愛され続けたい”と仰った」
静かに。
確実に。
「ですから」
わずかに、目を細める。
「愛されるほど、形が変わるようにいたしました」
沈黙。
一瞬、意味が理解できない。
そして。
「……え?」
ルミナの声が、震える。
「それは……」
指先が、自分の頬に触れる。
崩れた感触。
「まさか……」
後ずさる。
「違う……そんなの……!」
「望まれた通りですよ」
否定はしない。
ただ、事実を告げる。
「“ずっと愛されるために”」
その言葉で。
すべてが繋がる。
愛されることは、消費されること。
崩れることは、もっと求めること。
終わらない。
止まらない。
「いや……いやああああ!!」
叫びが、崩れる。
初めて。
完全に。
“自分の願いの形”を理解して。
「そして、貴方」
今度は父へ。
「……私は……!」
すがるように言う。
「私は地位を望んだ!」
「その通りです」
頷く。
「ですから、与えました」
侯爵という地位。
権力。
名声。
「だが……!」
父の声が震える。
「誰も信じられぬ……!」
「当然でしょう」
あっさりと、言い切る。
「“すべてを掌握したい”と仰った」
その一言で。
父の顔が、凍りつく。
「他者を支配するということは」
静かに、続ける。
「他者を信じないということと同義です」
「……」
「ですから」
穏やかに。
「誰も、貴方を信じなくなった」
因果は、完璧だった。
「……そんな……」
膝が、崩れる。
すべてを手に入れたはずなのに。
何も残っていない。
「では」
イシュヴァルは、静かに言う。
「ご質問への回答ですが」
わずかに、微笑む。
「すべて、すでに叶っております」
その一言で。
二人は、完全に崩れた。
その光景を。
少し離れた場所から、見ている者がいた。
「……セシリア様」
静かに、名前を呼ばれる。
振り返る。
イシュヴァルが、すぐ隣にいる。
いつの間にか。
まるで最初からそこにいたかのように。
「……あれが」
言葉が、うまく出ない。
「願いの、結果……?」
「ええ」
穏やかに頷く。
「美しいでしょう」
その感想に。
わずかに、震える。
でも。
否定できない。
あまりにも、整いすぎているから。
「セシリア様」
指先が、そっと顎に触れる。
最初と同じ仕草。
でも、意味は完全に違う。
「貴女は、何も求めなかった」
視線が、重なる。
「ですから」
静かに。
「何も失わない」
その言葉が。
すべてを確定させる。
「……はい」
もう、迷いはない。
違和感も、恐れも。
すべて含めて。
ここにいると決めた。
イシュヴァルは、満足そうに微笑む。
「良い子ですね」
指先が、わずかに強くなる。
「これで、完全です」
囁き。
逃げ道は、もう存在しない。
でも。
それでいいと、思っている。
背後で。
ルミナの泣き声と、父の崩れた呼吸が響く。
もう。
誰も救われない。
ただ一人を除いて。
悪魔は、最後まで優しく微笑んでいた。




