8話
最初の異変は、ほんの一筋だった。
「……え」
ルミナは鏡の前で、息を止める。
髪。
完璧だったはずの金糸の中に、一本だけ――白が混じっていた。
「……違う」
すぐに引き抜く。
指先が震える。
(光の加減よ)
そう思い込もうとする。
だって。
私は、あの方に“選ばれた”のだから。
「ルミナ様、本日のご支度を――」
「いいわ!」
強く遮る。
使用人がびくりと肩を揺らす。
その反応に、一瞬だけ満足しかけて――
(……弱い)
胸の奥がざらつく。
以前なら、ただ視線を向けるだけでよかった。
何も言わなくても、相手は崩れた。
でも今は。
「ちゃんと見なさい」
思わず、言ってしまう。
「私を」
使用人は慌てて顔を上げる。
「は、はい……とてもお美しく……」
その声は、震えていた。
恐怖からか。
それとも――
(違う)
何かが違う。
“見惚れている”のではない。
ただ、“怯えている”。
その差が、どうしようもなく不快だった。
その日の夜会。
ルミナは、完璧な装いで現れた。
視線が集まる。
囁きが起きる。
(ほら)
間違っていない。
私は美しい。
私は選ばれている。
そう思った、次の瞬間。
「……あれが、例の」
「確かに美しいが……」
耳に入る声。
以前と違う。
熱がない。
距離がある。
「少し、印象が変わったな」
その一言が、突き刺さる。
(……何が?)
笑みを崩さないまま、歩く。
完璧に。
誰よりも美しく。
なのに。
視線が、続かない。
すぐに逸れる。
次へ流れる。
(どうして)
胸が、ざわつく。
(もっと……)
足りない。
まだ足りない。
一方で。
「侯爵閣下、こちらの件ですが」
父のもとには、書類が山のように積まれていた。
地位は上がった。
責任も、権限も。
だが。
「……これはどういうことだ」
眉をひそめる。
署名されたはずの契約が、覆されている。
「相手方が、急に態度を変えまして……」
「理由は?」
「それが……明確には」
歯切れの悪い返答。
苛立ちが募る。
(なぜだ)
以前なら、こんなことはなかった。
誰もが従った。
逆らう者など、いなかった。
なのに今は。
「……裏で何か動いているのか」
疑念が浮かぶ。
そして同時に。
誰も信じられなくなる。
同じ頃。
「……少し、風が冷たいですね」
セシリアは庭で、小さく呟いた。
隣には、イシュヴァル。
「では、こちらへ」
すぐに、肩に羽織がかけられる。
自然な仕草。
迷いのない距離。
「ありがとうございます」
受け取ると、ほんの少しだけ指が触れる。
それだけで、落ち着く。
「本日は、外が騒がしいようです」
イシュヴァルが言う。
「え?」
「夜会があるのでしょう」
ああ、と頷く。
かつては自分もいた場所。
でも。
「……あまり、気になりません」
素直に言う。
驚くほど、執着がなかった。
「そうですか」
彼は静かに微笑む。
「良いことです」
そのまま、手を取られる。
当たり前のように。
拒む理由が、もうない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
視線が重なる。
「貴女は、変わりませんね」
「……?」
「求めない」
指先が、そっと頬に触れる。
「だから、失わない」
その言葉の意味を、セシリアはまだ完全には知らない。
ただ。
その声が、心地よいと感じるだけで。
夜会の終わり。
ルミナは、鏡の前に立っていた。
笑みを貼り付けたまま。
ゆっくりと、顔に触れる。
(……大丈夫)
美しい。
まだ、美しい。
でも。
光の加減で。
一瞬だけ。
頬に、影が落ちる。
それが。
“線”のように見えた。
「……違う」
首を振る。
「違う、違う……」
でも。
もう気づいている。
ほんの少しずつ。
確実に。
何かが削れていることに。
遠くで。
「……ええ、順調です」
イシュヴァルは静かに呟く。
穏やかなまま。
何一つ変わらず。
「愛されるほど、形が変わる」
その視線は、冷静だった。
「実に、理にかなっている」
否定はしない。
止めもしない。
「願いは、正しく叶えられている」
それがすべて。
最初から。
何一つ、間違っていない。




