6話
最初に気づいたのは、些細な違和感だった。
「……あれ?」
ルミナは鏡の前で、ふと手を止める。
今日も美しい。
それは間違いない。
肌も、髪も、仕草も――完璧だ。
でも。
(……何かが、違う)
角度を変える。
光を当てる。
微笑む。
どれも、完璧なはずなのに。
「……気のせいよね」
呟いて、唇を上げる。
その瞬間。
背筋が、ぞくりとした。
――“見られている”感覚が、薄い。
以前は、ただ歩くだけで視線が集まった。
息を呑まれ、囁かれ、羨望される。
それが当然だったのに。
(どうして……?)
ほんの一瞬、空白がある。
次の瞬間にはまた、視線は戻る。
でも、その“間”が――怖い。
「ルミナ様、本日のご予定ですが」
使用人が声をかける。
振り返る。
その目に映る自分は、やはり美しい。
けれど。
(……前より、弱い?)
そんなはずはない。
むしろ、磨かれているはずなのに。
「ねえ」
思わず問いかける。
「私、変わったと思う?」
使用人は、一瞬だけ言葉に詰まった。
その“間”。
それが、すべてだった。
「い、いえ……とてもお美しく……」
取り繕う声。
以前なら、即答だったはずなのに。
(……なんで)
胸の奥が、ざわつく。
一方で。
「侯爵閣下、お話が」
父――グラント侯爵のもとには、連日のように人が訪れていた。
表向きは、祝福。
だが。
「今回の昇格、随分と急でいらっしゃる」
「ええ、まあ……」
言葉の端に、棘が混じる。
羨望と、疑念。
そして。
「……裏で何があったのか、ぜひお聞かせ願いたい」
探るような視線。
以前にはなかった圧力。
「……問題はない」
父は短く言い切る。
だが、その声にわずかな硬さが混じる。
(なぜだ)
すべては手に入れたはずだ。
地位も、権力も。
なのに。
周囲の“温度”が違う。
従っているようで、従っていない。
笑っているようで、笑っていない。
(……気のせいだ)
そう思い込もうとする。
だが。
確実に、何かが変わっている。
同じ頃。
「セシリア様」
穏やかな声が響く。
振り返ると、イシュヴァルがいた。
「今日は、何も困りませんでしたか」
「……ええ、とても穏やかな気持ちです」
自然に答える。
本心だった。
ここには、不安がない。
比べられることも、否定されることもない。
「それは何よりです」
彼は静かに頷く。
そして。
「少し、こちらへ」
手を差し出す。
迷いなく、その手を取る。
もう、それが当たり前になっていた。
庭の奥。
誰もいない場所。
柔らかな光と、静かな風。
「……ここ、好きです」
ぽつりと呟くと、
「ええ」
すぐ隣で声がする。
「貴女が落ち着けるように、整えましたので」
その言葉に、胸が温かくなる。
(また、“私のため”……)
理由は分からない。
でも。
疑う気持ちは、もうほとんどない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
振り返る。
距離が近い。
でも、自然に受け入れている自分がいる。
「最近、外のことを考えなくなりましたね」
穏やかな指摘。
図星だった。
「……はい」
少しだけ考えて、頷く。
「ここで、満たされていますから」
言ってから、少し驚く。
そんなこと、自然に言えるようになっている。
イシュヴァルは、わずかに目を細めた。
「そうですか」
満足そうに。
「それは、とても良いことです」
指先が、そっと頬に触れる。
もう、驚かない。
むしろ――
(安心する)
そう感じてしまう。
「貴女は、そのままでよろしい」
優しく、肯定される。
「何も変わる必要はありません」
その言葉が。
深く、染み込む。
一方で。
ルミナは、鏡の前で何度も微笑んでいた。
角度を変え、表情を作り直し、“最も美しく見える瞬間”を探し続ける。
(まだ足りない)
そう思ってしまう。
(もっと、見られたい)
その願いが、少しずつ強くなる。
気づかないまま。
その“強さ”が、何を削っているのかを。
遠くで。
「……始まりましたね」
イシュヴァルは静かに呟く。
穏やかな微笑のまま。
「欲は、形になるほど歪む」
その視線は、セシリアではなく――別の場所を見ていた。
「ですが」
ふっと、柔らかくなる。
「貴女は違う」
手の中の温もりを、確かめるように。
「だから、壊れない」
囲われたその存在だけが、唯一、歪みから外れていることを知りながら。




