3話
その日は、昼下がりだった。
「こちらへ」
イシュヴァルに呼ばれて向かったのは、屋敷の奥にある小さな温室だった。
柔らかな光と、静かな緑。人の気配がほとんどない場所。
(……落ち着く)
そう思った瞬間。
「気に入っていただけましたか」
すぐ後ろから声がした。
「……はい」
振り返ると、いつもより距離が近い。
思わず一歩下がろうとして――止まる。
もう、この距離に慣れてしまっていることに気づいた。
「それは良かった」
彼は静かに微笑む。
「ここは、貴女のために整えた場所ですから」
「……私の?」
聞き返すと、当然のように頷かれる。
「ええ」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
(また、“私のため”……)
どうしてそこまでされるのか、分からないまま。
でも、嬉しいと思ってしまう。
ふと、花に触れようとして手を伸ばしたとき。
「お怪我をなさらないように」
後ろから、そっと手を取られた。
「……っ」
指先が重なる。
逃がさないように、でも優しく。
「この種類は、少し棘がありますので」
説明は穏やかだった。
けれど、そのまま手は離されない。
(……近い)
背後に、彼の気配。
腕の中に閉じ込められているような距離。
鼓動が、少しずつ早くなる。
「セシリア様」
耳元で、名前を呼ばれる。
「はい……」
声が、思ったより近くで落ちた。
「最近、よく笑うようになられましたね」
「え……」
そんなこと、自分では分からない。
「最初にお会いしたときは」
指先が、ゆっくりと手をなぞる。
「今にも消えてしまいそうでした」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「……今は、違いますか」
小さく問うと、
「ええ」
即答だった。
「とても、良い変化です」
少しだけ、手に力がこもる。
「――手放したくないほどに」
その一言で、空気が変わる。
(……今の)
優しいだけじゃない。
確かに、“囲い込む”響きがあった。
なのに。
怖くない。
むしろ――
「……あの」
言葉がうまく出てこない。
「どうされました?」
すぐに返ってくる声。
逃げ道は、やっぱりない。
「他の人にも……」
自分でも驚くくらい小さな声で、
「同じように、されているんですか」
聞いてしまった。
一瞬、沈黙が落ちる。
しまった、と思ったときには遅かった。
けれど。
「いいえ」
返ってきたのは、迷いのない否定だった。
ゆっくりと、手を引かれる。
振り返らされる形で、向き合う。
近い。
視線が、完全に重なる距離。
「貴女だけです」
静かに、告げられる。
「このように触れるのも」
指先が、頬にかかる。
「このように、時間を割くのも」
逃げ場がない。
でも。
目を逸らしたくない。
「すべて、貴女だけに」
その言葉に、胸の奥が強く熱を持つ。
(……私だけ)
そんなこと、今まで一度もなかった。
誰かにとっての“特別”なんて。
「……どうして」
かすれた声で、問う。
すると彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「簡単なことです」
顔が、さらに近づく。
息が触れそうな距離。
「貴女が、そういう存在だからですよ」
答えになっていない。
でも、それ以上聞けなくなる。
距離が、近すぎて。
「……逃げませんね」
ぽつりと、落ちる声。
試すような響き。
「逃げたほうが、よろしいですか」
返される問い。
本当なら、逃げるべきなのに。
「……いいえ」
否定してしまう。
その瞬間、彼の目がわずかに細まった。
「では」
指先が、顎に触れる。
最初の日と同じ仕草。
でも、意味はまったく違う。
「もう少しだけ、このままで」
囁かれる。
距離は、あと少しで触れる。
でも。
触れない。
そのまま、止まる。
――寸前で。
(……ずるい)
そう思うのに。
離れてほしいとは、思わなかった。
その日の夜。
一人になってからも、落ち着かなかった。
(私……)
頬に、まだ感触が残っている気がする。
手も。視線も。全部。
(……期待、してる?)
そこまで考えて、顔が熱くなる。
ありえない。
でも、否定しきれない。
一方で。
「……順調ですね」
イシュヴァルは、静かに呟いた。
手の中に残る温もりを、確かめるように。
「もう、十分でしょう」
微笑みは穏やかで。
けれど。
「逃げる理由が、なくなってきた」
その目は、どこまでも深い。
「良い傾向です」
優しく。確実に。
彼女を囲い込みながら。




