2話
目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
誰かの足音も、叱責もない。ただ、穏やかな空気だけが満ちている。
(……ここは)
ゆっくりと起き上がる。
整えられた寝具。見慣れない天井。
――そうだ。ここは、あの人の屋敷。
「……イシュヴァル様」
名前を口にしただけで、少しだけ心が落ち着く。
不思議だった。
昨日まで、あんなにも怖かったのに。
支度を整えて部屋を出ると、すぐに使用人が現れた。
「おはようございます、セシリア様」
柔らかな笑み。
その一言に、わずかに足が止まる。
(……“様”?)
呼ばれ慣れない敬称。
戸惑っていると、
「朝食のご用意ができております」
自然に案内される。
拒む理由が、見つからなかった。
食堂には、すでにイシュヴァルがいた。
「おはようございます」
穏やかな声。
まるで、ずっと前からそうしてきたかのような自然さで。
「……おはよう、ございます」
少し遅れて返すと、彼は満足そうに微笑んだ。
「よくお休みになれましたか?」
「はい……」
本当に、よく眠れた。
あの家では、いつもどこか緊張していたのに。
「それは何よりです」
席を勧められ、向かいに座る。
用意された料理は、どれも丁寧で温かい。
(こんな食事……初めてかもしれない)
自然と手が伸びる。
その様子を、イシュヴァルは静かに見ていた。
「……あまり、見ないでください」
思わず言うと、
「失礼しました」
すぐに視線を外す。
でも。
「嬉しかったものですから」
そう付け加えられて、言葉に詰まる。
(嬉しい……?)
私が食べているだけで?
理解できない。
けれど、嫌ではなかった。
食後。
「少し、お時間よろしいですか」
そう言われ、頷く。
案内されたのは、小さな書斎だった。
「こちらに」
椅子を引かれる。
その仕草ひとつが、やけに丁寧で。
(どうして、ここまで)
疑問が消えない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
視線を上げると、すぐ近くに彼がいた。
「一つ、確認を」
低い声。
逃げ場を塞ぐ距離。
「この屋敷での生活に、不満はございますか」
問われて、少し考える。
不満。
そんなもの、あるはずがない。
むしろ――
「……怖い、です」
気づけば、そう答えていた。
イシュヴァルの目が、わずかに細まる。
「ほう」
「優しすぎて」
言葉を探しながら続ける。
「どうしていいか、分からなくて……」
沈黙。
否定されると思った。
けれど。
「正直で、よろしい」
彼は、静かに頷いた。
「では、その“分からなさ”は私が引き受けましょう」
「え……?」
「貴女は、考えなくていい」
さらりと、恐ろしいことを言う。
「ここでは、すべて私が決めます」
やさしい声。
なのに、完全な支配。
「その代わり」
指先が、そっと手に触れる。
「貴女は安心していればいい」
絡め取るように、指が重なる。
「それが、私の望みです」
逃げようと思えば、逃げられる。
でも。
逃げたいとは、思わなかった。
(……楽、だ)
決めなくていい。
否定されない。
ただ、ここにいればいい。
それがどれだけ甘いことか、分かっているのに。
「……はい」
小さく頷く。
その瞬間、彼の指がわずかに強くなる。
「良い子ですね」
その言葉に、胸の奥がほどけていった。
その日から。
私は少しずつ、“囲われること”に慣れていった。
選ぶ必要はない。迷う必要もない。
すべては、イシュヴァルが整えてくれる。
そして――
「セシリア様に、こちらを」
与えられるものは、どれも“私のために選ばれたもの”だった。
(……どうして、ここまで)
疑問は消えない。
けれど、その答えを深く考えないようになっていく。
考えなくても、満たされるから。
夜。
「本日は、いかがでしたか」
隣に座る彼が問う。
「……穏やかでした」
素直に答えると、満足そうに頷く。
「それは何よりです」
そのまま、自然に距離が縮まる。
肩が触れるか、触れないか。
逃げ場は、もうない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
それだけで、心が揺れる。
「あなたは、それでよろしい」
確認のようで、決定の言葉。
「はい……」
迷いは、もうほとんどなかった。
その様子を見て、彼は微笑む。
静かに。満足そうに。
まるで、最初からこうなると分かっていたかのように。
――囲われるというのは。
閉じ込められることじゃない。
気づけば、外に出る理由がなくなっていることだ。




