1話
その教えが流行り始めたのは、半年ほど前のことだった。
「救われたい者は、すべてを捧げよ」
たったそれだけの言葉が、貴族たちの間で静かに広がった。
最初はただの噂だったはずなのに。気づけば、父も、妹も――深く傾倒していた。
「セシリア。あなたには分からないでしょうけれど」
ルミナが微笑む。
「“選ばれる”というのは、とても尊いことなの」
その目は、どこか熱を帯びていた。
(……変わってしまった)
そう思ったのは、一度や二度じゃない。
けれど私は、何も言えなかった。
元々、この家での私の価値は低い。魔力も少なく、社交も不得手。
“いないもの”として扱われることに、慣れてしまっていた。
だから。
「――今夜、お前を捧げる」
そう告げられた時も、驚きはあっても反論はできなかった。
「……私を、ですか」
「光栄に思え」
父は当然のように言う。
「教祖様に直接差し出せるなど、名誉なことだ」
隣でルミナが、羨ましそうにこちらを見る。
「いいなあ、お姉様。私もいつか……」
(……羨ましい?)
その感覚が、理解できない。
でも。ここで拒めば、どうなるかは分かっている。
「……承知、いたしました」
そう答えるしかなかった。
連れて行かれたのは、街外れの静かな屋敷だった。
豪奢ではない。けれど妙に整っていて、息が詰まる。
「ここでお待ちください」
使用人にそう言われ、一人になる。
逃げようと思えば、逃げられるかもしれない。
でも。
(どこに行っても、同じか)
そう思ってしまった時点で、足は動かなかった。
しばらくして、静かに扉が開く。
「お待たせいたしました」
その声を聞いた瞬間、なぜか背筋が震えた。
振り返る。
そこにいたのは――整いすぎた、黒の男。
初めて見るはずなのに。
(……知ってる)
そう感じてしまう。
ずっと前から、“どこかで見られていた”ような感覚。
「初めまして、セシリア様」
名前を呼ばれて、息が止まる。
「イシュヴァルと申します」
丁寧な一礼。完璧な所作。
でも。
何かが決定的におかしい。
「……私を」
かろうじて声を出す。
「どうするつもりですか」
震えないようにするだけで精一杯だった。
イシュヴァルは、わずかに目を細める。
「そうですね」
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
コツ、コツ、と靴音が響く。
逃げなきゃ、と頭では分かっているのに動けない。
目の前で、彼は足を止めた。
そして、そっと顎に指をかける。
「……っ」
強引ではない。でも、抗えない力。
「やはり」
至近距離で、囁かれる。
「美しい方だ」
ぞくり、とする。
見た目の話じゃないと、直感で分かる。
「随分と、丁寧に“削られて”きましたね」
その言葉に、胸の奥を掴まれた気がした。
「……なにを」
「ご自分の価値を、です」
言い当てられる。何もかも。
「本来なら、もっと早く手に入れるべきでしたが。少々、周囲の観察に時間を要しまして」
(……観察?)
誰を。何のために。
理解が追いつかない。
「ですが、もう十分です」
指先が、ほんの少しだけ強くなる。
「貴女は、あの家には過ぎた存在だ」
断言。迷いのない声。
「ですので」
一拍、間を置いて。
「本日より、貴女は私のものです」
逃げ道を、完全に塞ぐ言葉。
怖いはずなのに。
なぜか、胸の奥がじんわりと熱い。
「……拒否権は」
かすれた声で問う。
すると彼は、柔らかく微笑んだ。
「ございますよ。ただし、戻られる場合に限り」
現実を突きつける。
父と、ルミナの顔がよぎる。あの目。あの熱。
(……戻りたくない)
初めて、はっきりと思った。
「ここにいれば」
イシュヴァルが、静かに言う。
「貴女を否定する者はいません」
その一言が、何よりも深く刺さる。
「大切に扱います」
優しく。でも、確実に囲い込む声音で。
「選んでください、セシリア様」
差し出された手。
白く、綺麗で。
逃げれば二度と触れられない気がして。触れれば、もう戻れない気がした。
(……でも)
ゆっくりと、手を伸ばす。
触れた瞬間、指が絡め取られる。
逃がさないように。でも、壊さないように。
「……はい」
小さく、答える。
その瞬間、イシュヴァルは満足そうに微笑んだ。
「良い選択です」
耳元で、囁かれる。
「ようこそ――こちら側へ」




