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第6話 名前

本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。


性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。

それから数日、俺は箱の整理をして過ごした。


迷っている理由のほうに、答えがある。藤堂の言葉は、要するにこういうことだ。俺は同意書の一枚も、自分の判断で処理できなくなっている。判断材料が足りないからではない。判断の前提を、八ヶ月間、誰とも検証していないからだ。


レビューの通っていない設計は、どこかで必ず破綻する。四十年やってきて、それだけは知っている。


日曜の朝、俺は藤堂にメッセージを送った。


「今日、時間をもらえませんか。長い話があります。頭のおかしい話に聞こえると思いますが、最後まで聞いてほしいです」


返信は三分で来た。


「川原。二時。缶コーヒーは俺が出す」


* * *


十二月の川原は、風が刺すように冷たかった。土手の階段に並んで座ると、藤堂は宣言どおり、温かい缶コーヒーを二本買って、片方を寄越した。


「で?」


前置きはそれだけだった。ありがたかった。


「……俺の名前は、村瀬亘といいます。四十歳です。今年の三月に、トラックに轢かれて死にました」


藤堂は、何も言わなかった。


俺は話した。順番に、事実だけを。横断歩道とグリル。白い天井の朝。細い手首と、少女の声。医者への報告と、「そういう記憶がある、ということですね」。三週間眠っていた早坂千尋として退院したこと。彼女がどこへ行ったのか、誰にもわからないこと。男に戻る方法を探して、性別不合という診断に行き着いたこと。転生だけを伏せて、あとは全部本当のことを話して、八ヶ月通ったこと。


そして、同意書の前で指が止まった理由。


「この身体は、俺のものじゃない。持ち主が帰ってくる可能性が、ゼロだと証明できない。それなのに、戻らない変更を加えていいのか。……それが、保留の中身です」


話し終えると、川の音だけになった。


藤堂は缶を両手で包んだまま、長いこと黙っていた。やがて、口を開いた。


「……前の身体、バイクは」


「え?」


「乗ってたか、って訊いてる」


「……中免です。CB400に乗ってました。十年前に降りましたけど」


「タイヤの空気圧、どれくらいで管理してた」


「前2.5、後ろ2.9。冬は少し落として――」


答えてから、これは検証だ、と気づいた。十八歳の女の子が即答できない種類の質問を、こいつは選んで撃っている。


藤堂は続けた。前の会社の話。炎上案件の顛末。四十歳の腰痛の位置。俺は全部即答した。藤堂は途中から質問をやめて、代わりに、俺のスマホで村瀬亘の死亡記事を、長いこと読んでいた。


「……初めて会った日から」


やっと出てきた声は、低かった。


「しゃべり方がおっさんだとは、思ってたんだよ」


「はい」


「けどな。それとこれとは」


藤堂は缶を置いた。声に、初めて硬いものが混じった。


「……一個だけ、確認させろ。あんたの性別不合は、嘘か。診断のために、俺たちの列に並んでみせただけか」


来た。いちばん答えなければいけない質問が。


「訴えた中身に、嘘はひとつもありません。鏡の顔も、声も、名前で呼ばれることも、全部、本当に耐え難かった。今も耐え難い。……でも」


俺は、缶コーヒーを握り直した。


「藤堂さんの二十年と、俺の八ヶ月は、同じものじゃない。それを知ってて、同じ窓口に並びました。それは……そうです。割り込みです」


殴られるなら、それでいいと思った。


藤堂は、長いこと川を見ていた。缶のプルタブを、意味もなく指で弾いていた。それから、ぽつりと言った。


「診察室のあんたの顔は、嘘の顔じゃなかったよ。あれは俺にはわかる。二十年、待合室であの顔ばっか見てきたんだ」


「……」


「だから整理がつかなかったんだ、今の今まで。嘘じゃねえのに、俺の知ってるどれとも違う。あんたの『違う』は、どこから来てるんだ、って」


藤堂は、俺のスマホを返して寄越した。画面には、まだ死亡記事が表示されていた。


「今、わかった気がする」


「……なにが、ですか」


「なあ、早坂。……いや」


彼は言い直した。


「村瀬さん、か」


八ヶ月ぶりに、誰かが俺をその名前で呼んだ。


「あんたのは、性別不合じゃねえよ。あんたは――死んだ村瀬亘の、遺族なんだ」


風が、土手の枯草を鳴らして通り過ぎた。


「四十年連れ添った身体に死なれて、まだ骨も拾えてない。診断がほしかったんじゃねえだろ、ほんとは。返してほしかっただけだ。それが無理だから、いちばん近い窓口に並んだ。……遺族が、死んだ男を取り戻そうとしてたんだ。そりゃ同意書は書けねえよ。あれはあんたにとって、乗り換えの書類じゃなくて、諦めの書類だもんな」


反論しようとした。口を開けて、何も出てこなかった。


八ヶ月、箱に詰めてきたものが全部、その一語の周りに、音を立てて整列していくのがわかった。宛先のない涙。焼かれた身体。開かないスマホ。娘の帰りを待つ両親と、持ち主の帰りを待つ俺。査定表と地図。俺は査定表を読む男だった。減点方式でしか、この身体を見られなかった。当たり前だ。俺はずっと、失ったものの目録を作っていたのだから。


「俺とあんたは、逆なんだよ」


藤堂の声は、もう硬くなかった。


「俺は戻る場所なんか、最初からねえ。この先に行きたい場所があるだけだ。だから足りなくても進む。あんたは――帰り道を探してた。似てるようで、別もんだ。……別もんだから、俺の窓口じゃ、あんたの用事は片づかねえ」


「……じゃあ」


声が、震えた。もう、隠さなくてよかった。


「俺の用事は、どこの窓口なら」


「知らねえよ、そんなもん」


藤堂は笑った。それから、真顔に戻った。


「けど、たぶん最初にやることは決まってる。あんた、自分の葬式、出てないだろ」


目の奥が、熱くなった。


まずい、と思った。思ったときには、もう遅かった。


八ヶ月。白い天井の朝から、一度も泣いていなかった。医者の前でも、両親の前でも、風呂の中でさえ、最後の一線は業務で守った。泣いたら何かを認めることになる気がして、何を認めることになるのかは、考えない箱に入れて。


箱は、もう空だった。全部、名前がついてしまった。


俺は缶コーヒーを持ったまま、声を出して泣いた。四十年の人生で、たぶん一度も出したことのない声だった。この身体の声帯が出す、高い、みっともない、本物の泣き声だった。


藤堂は何も言わなかった。缶コーヒーを飲みながら、川を見ていた。ただ、俺の泣き声が落ち着くまで、一度も腰を上げなかった。


日が傾いて、影が長くなった頃、藤堂が言った。


「寒くなってきたな。……生きてる奴は、腹が減る。なんか食って帰るぞ。おごらねえけど」


「……はい」


立ち上がると、膝が痺れていた。生きている身体の、間抜けで正直な痺れだった。


* * *


その夜、ノートを開いた。


書きかけのまま数日放置していた特記の欄を、まず埋めた。


特記:藤堂慧に、全部話した。受理された。


それから新しいページを開いて、少し考えて、一行だけ書いた。


俺は、村瀬亘の遺族である。


書いてみると、拍子抜けするほど静かな一行だった。八ヶ月かかって、やっと正しい題名のついた報告書の、これが一行目だ。


対応方針は、まだ白紙だ。同意書の答えも、まだ出ていない。ただ、課題の名前が正しくなった。四十年の経験上、正しく名前のついた課題は、もう半分解けている。


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