第5話 同意書
本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。
性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。
診断が出たのは、木枯らしの吹き始めた頃だった。
そこまでの道のりを、ノートは几帳面に記録している。柳田先生の診察が通算七回。先生の紹介で、別の病院の精神科医の診察が四回。脳外科では定期のMRIと、長い名前の認知機能検査。事故の影響は「現在の訴えを説明しない」という所見が、書面になって二つの診察室を往復した。
事故から、八ヶ月。俺の「目が覚めてから今日まで、一日も欠かさず」は、ようやく紙の上で八ヶ月ぶんの持続になった。
「性別不合、と診断します」
柳田先生は、初診のときと同じ淡々とした声で言った。
「二人の医師の意見が一致しました。あなたの性別の違和は、脳の怪我でも、ほかの疾患でも説明されない。あなた自身のものです」
あなた自身のもの。
奇妙な言い回しだと思った。そして、思ったより深いところに刺さった。この八ヶ月、俺の訴えは全部本物だったが、俺は本物の患者ではないつもりでいた。制度のレールに乗るための、正しい書類上の存在。なのにこの人は今、書類ではなく俺に向かって、あなたのものだと言った。
「……ありがとうございます」
頭を下げながら、俺は自分の胸の中を探していた。あるはずの達成感を。八ヶ月かけた要件がクリアされた音を。
無かった。あったのは、静かな、置き場所のわからない何かだけだった。
先生は続けて、ホルモン療法の説明をした。効果。リスク。血栓。肝機能。定期の血液検査。そして、変化のいくつかは元に戻らないこと。
最後に、一枚の紙が机に置かれた。
同意書だった。
説明を理解したこと。リスクを了解したこと。不可逆な変化を了解したこと。「不可逆」の三文字は、書面の中で二回出てきた。二回とも、俺の指はその上で止まった。
「今日は持ち帰ってください」先生は言った。「急ぐ理由は、何もありません」
鞄に入れた紙一枚が、帰り道、妙に重かった。
これに名前を書けば、レールは次の駅に進む。声が下がり、髭が生え、俺は一歩、男に戻る。戻る。戻る、はずだ。ずっとそのために積んできた。
なのに指が止まった理由を、俺は電車の窓に映る顔に訊いた。
ひとつは、わかっている。秋からずっと、日誌の目盛りが動いている。甘い卵焼き。身体が覚えた道。この生活に、俺は根を張り始めている。その根ごと引き抜く覚悟が、あの三文字の前で揺れた。
もうひとつは――箱の中から出てきた。とうの昔に蓋の閉まらなくなっていた、あの問いだ。
この身体は、俺のものではない。
柳田先生は「あなた自身のもの」と言ってくれた。違和は、たしかに俺のものだ。だが身体は違う。早坂千尋のものだ。彼女がどこにいるのか、いないのか、誰にも――俺にも――わからないままだ。
わからないままで、戻らない変更を加えるのか。持ち主に無断で。
十八年かけて育った声を、俺の都合で潰すのか。
答えの出ないまま、家に着いた。同意書は、ノートに挟んで机の抽斗にしまった。保留。期限、次回診察まで。
* * *
異変を最初に察知したのは、やはり母親だった。
夕食のあと、二階に上がろうとした俺を、母親が呼び止めた。テーブルには急須と、湯呑みがふたつ。逃げ場のない配置である。
「最近、また眠れてないでしょう」
「……ちょっと、考え事があって」
「そう」母親はお茶を注いだ。「言わなくていいのよ。言いたくないことは」
しばらく、湯呑みの湯気だけが動いていた。
「お母さんね」と、母親は言った。「ずっと考えてたことがあるの。うまく言えるかわからないけど、聞いてくれる?」
俺は頷いた。
「事故の前の千尋と、今のあなたが……その、別の人みたいだって、ほんとはずっと思ってた。好きなものも、しゃべり方も、笑うところも違う。お医者さんは記憶のせいだって言うけど、お母さんは、母親だから。わかるの」
心臓が、ゆっくり冷えていった。
ばれている。とっくに。八ヶ月も一緒に暮らして、隠せているつもりでいたのは俺だけだった――
「でもね」
母親は湯呑みを置いて、まっすぐ俺を見た。
「千尋の記憶が、もう戻らなくても。あなたが千尋と違う人になっちゃってても。今ここにいるあなたが、うちの子よ。お母さん、それだけは決めたの。ずっと前に決めてたんだけど、口に出してなかったなって思って」
言葉が、出なかった。
この家に来てから、俺に注がれるものは全部、宛先違いだと思ってきた。涙も、剥いたりんごも、甘い卵焼きも、全部千尋宛ての誤配で、俺は横取りしている受取人で。
今のは、違った。
「今ここにいるあなた」。この人は、宛名の欄を空白にしたまま、俺に向かって言った。中身が誰であっても有効な言葉を、たぶんこの八ヶ月、ずっと準備していた。
「……なにそれ」
やっと出た声は、少し掠れていた。
「重いよ、お母さん」
「母親は重いのよ」と母親は言った。「今ごろ気づいたの?」
その夜、俺は風呂で長いこと顔を洗った。業務のはずの風呂で、業務外のことをした。それが何かは、記録に残さない。
* * *
「診断、出ました」
数日後、自販機の前でそう報告すると、藤堂は目を見開いて、それから缶コーヒーを持っていないほうの手を出した。
「おめでとう」
握手だった。分厚くて、硬い手だった。俺はその手を握り返しながら、この「おめでとう」が藤堂の世界でどれほどの重さの言葉か、考えていた。二十年の男の「おめでとう」だ。八ヶ月の俺に。
「で、ホルモンはいつからだ」
「……それが」
言い淀んだ半秒で、藤堂の目つきが変わった。
「保留にしてる、って顔だな」
「……はい」
「なんでだ」
責める声ではなかった。純粋に、わからない、という声だった。それがいちばん、痛かった。
「ここまで来て、何を迷う? あんた、初診の日から誰より必死だったぜ。俺はてっきり、同意書なんか秒で書くもんだと思ってた」
何を迷う。
言えるわけがなかった。この身体には持ち主が別にいるかもしれないんです、とは。俺は八ヶ月前に死んだ四十歳で、戻り先を探してここに来ただけなんです、とは。
「……すみません。整理がついたら、話します」
藤堂はしばらく俺を見ていた。それから、ふ、と息を吐いた。
「わかった。待つ」
缶を飲み干して、彼はゴミ箱に放った。綺麗に入った。
「けど早坂。ひとつだけ言っとくぜ」
ヘルメットを小脇に抱えて、藤堂は言った。
「迷ってる奴の顔ってのは、だいたい、迷ってる理由のほうに答えがあるんだ」
その夜のノート。
進捗:診断、取得。
同意書:保留。
特記:
特記の欄に、書くことは決まっていた。決まっていたのに、ペンを持ったまま、俺は長いこと書けずにいた。
迷っている理由のほうに、答えがある。
だとしたら俺の答えは、同意書の上ではなく、たぶん、もっとずっと手前にある。八ヶ月前の、あの白い天井の朝から、一度も開けていない箱の中に。




