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第4話 限度の値段

本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。


性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。

通院は、二週間に一度のペースで続いた。


柳田先生の診察は、毎回きっちり三十分。日誌を見せ、二週間ぶんの生活を話す。先生は多くを言わない。ただ、こちらの言葉の置き場所を間違えない人だった。


そして診察の帰りに、藤堂と会う率が妙に高かった。ビルの一階、自販機の前がやつの定位置だった。


「おう、早坂。生きてるか」


「ぼちぼちです」


会えば、とりとめのない話をした。印刷会社の紙の値上がりの話。バイクのキャブレターの話。取引先の無茶な入稿の話。気づけば俺も、前の職場の炎上案件の話などをしていた。歳の離れた飲み友達というのが、いちばん近い。四十年の人生の語彙で喋って、そのまま通じる相手は、今のところこの世界に藤堂しかいなかった。


連絡先は、二度目に会った日に交換した。「予約の日が被ってたら教えろ。コーヒー代が浮く」というのが藤堂の言い分だった。


「あんた、ほんと若い顔しておっさんだよなあ」


「よく言われるようになりました」


その日は、俺のほうから訊いた。研究のためだ。そのはずだった。


「ホルモンって、実際どんな感じなんですか」


藤堂は、嬉しそうに話した。


三ヶ月で声が割れ始めたこと。半年でカラオケの持ち歌が全滅したこと。一年目のある日、電話の相手に初めて「お兄さん」と呼ばれて、切ったあとに駐車場でガッツポーズしたこと。


「二年でこの声。医者が言うには、まだ下がり幅あるらしいぜ」


いい声だった。低くて、よく通る。本人が二十年待った声だ。


そして俺は、その声を聞きながら、頭の中で照合作業をしていた。


俺の声は、もっと低かった。


正確に言えば、低いとか高いとかではなく、俺の声は「俺の声」だった。四十年、耳の内側で鳴っていた音だ。藤堂の二年は、あの音までの距離のどのあたりだろう。たぶん、まだ半分もない。そして藤堂のゴールは、俺のスタート地点には、おそらく永遠に届かない。


骨格は変わらない。身長は伸びない。手の大きさも、肩幅も。ホルモンは多くを変えるが、全部ではない。パンフレットにも、ガイドラインにも、そう書いてあった。読んで知っていた。知っていたはずだった。目の前の実物で聞くまでは。


「手術も、いずれな」


藤堂は鞄から、折り目のついた資料を出して見せてくれた。胸の手術の説明だった。術式、費用、傷痕の残り方。下のほうの手術は段階があって、できること、できないことが率直に書いてある、と教えてくれた。


「全部は手に入らねえよ。知ってる」藤堂はあっさり言った。「けど俺の場合、『戻る』じゃねえからな。『初めて手に入る』んだ。足りなくても、俺のだ」


俺は、黙って資料を見ていた。


同じ紙を、俺は査定表として読んでいた。どこまで戻るか。どこが戻らないか。減点方式の、葬式の見積もりみたいな読み方だ。


藤堂は同じ紙を、地図として読んでいる。


「……いい資料ですね」


それだけ言うのが、精一杯だった。


* * *


秋になった。


異変に最初に気づいたのは、弁当だった。


通院は電車を乗り継ぐ半日がかりの外出なので、母親は毎回、弁当を持たせてくる。その弁当には、甘い卵焼きが入る。千尋の好物らしい。俺は四十年、卵焼きはしょっぱい派だった。甘い卵焼きなど、と初めは思っていた。


その日、診察帰りの公園のベンチで弁当を開けて、甘い卵焼きを見つけて、俺は「当たりだ」と思った。


思ってから、箸が止まった。当たり、とはなんだ。どっちの舌が言った。


異変は、他にもあった。クリニックまでの道を、考え事をしたまま着けるようになった。曲がり角を身体が覚えた。朝、洗面所の鏡に映る顔に、驚かなくなった。驚かなくなっている自分に気づいて、初めて驚いた。


夜の日誌が、いちばんまずかった。


日付を書き、違和感の欄にペンを置いて――三十秒、止まった。


書くことを、探していた。


毎日、息をするように湧いていたはずの「違う」が、探さないと出てこない。ゼロになったわけじゃない。声は今も他人だし、名前を呼ばれれば今も半秒遅れる。だが確実に、目盛りが動いている。


まずい。まずいぞ。


診断には持続性が要る。一貫した訴えが要る。俺の武器は時間と記録のはずだった。その記録が、このままだと「適応していく患者」の記録になる。せっかく乗ったレールの上で、俺の違和のほうが先に痩せていく。


……いや。戦略の話だけじゃ、ないだろう。


ペンを持ったまま、俺は自分に訊いた。おまえ、いま何が怖かった。診断が取れなくなることか。それとも――「戻りたい」の目盛りが動いていたことか。


答えは出さなかった。日誌には、その日あった違和感を、探して、三つ書いた。嘘は書いていない。探した、というだけで。


次の診察で、柳田先生は日誌をめくって、ふと言った。


「最近、書き方が少し変わってきましたね」


心臓が跳ねた。


「いいことでも、悪いことでもありません」先生は顔を上げた。「記録は、正直につけてくださいね。それだけです」


……この人は、たぶん全部見えている。何がとは言わないだけで。


* * *


その帰り、自販機の前で、藤堂は温かい缶コーヒーを飲んでいた。夏の終わりの蝉は、もういない。


「浮かない顔だな。診断、渋られたか」


「いえ。……藤堂さんは」


気づいたら、訊いていた。


「ホルモンやっても、手術しても、届かない部分があるって……怖くなることは、ないんですか」


「そりゃあるさ」


藤堂は即答した。缶を、手の中で少し回す。


「けどな、俺の行き先は『まだ無い場所』なんだよ。地図の先っぽ。だから足りなくても、進んだぶんは全部プラスだ。……あんたはたぶん、逆なんだろ」


「逆?」


「あんた見てると、たまに思うぜ」


藤堂は俺を見た。詮索しない男が、初めてまっすぐこちらを見た。


「あんたは、変わるのが怖いんじゃねえ。変わっても足りないのが怖いんだな」


缶コーヒーの熱が、手袋越しみたいに遠かった。


俺は、答えられなかった。肯定も否定も、どちらも嘘になる気がした。いや――どちらも本当になるのが、怖かったのかもしれない。


「ま、通えよ」藤堂はいつもの声に戻って、缶を飲み干した。「順番は回ってくる。じゃあな」


その夜、ノートの進捗欄に「継続」と書いた。


課題の欄にペンを置いて、また三十秒止まって、結局こう書いた。


課題:課題を正しく書けていない可能性がある。


我ながら、ひどい報告書だ。こんな進捗を上げてきた部下がいたら、俺は間違いなく差し戻している。


例の「考えない」の箱は、もう蓋が閉まりきらなくなっていた。


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