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第3話 待合室

本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。


性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。

母親が見つけてきた心療内科は、駅前のビルの三階にあった。


初診には母親がついてきた。待合室では、俺より母親のほうが緊張していた。膝の上のハンドバッグの持ち手を、ずっと握ったり緩めたりしている。娘の心の傷がどれほど深いのかと案じているのだろう。すまない。今日ここで開示されるのは、そういう傷ではない。


診察室で、俺は準備してきた唯一の真実を出した。


「事故で目が覚めてから、ずっと……自分のことを、男だとしか思えないんです」


声に出すのは、初めてだった。


そして声に出してみて、わかったことがある。この台詞は、震えた。演技の必要なんてなかった。ふた月あまり、誰にも言えずに抱えてきた事実は、他人に向けて言葉にするだけで勝手に重かった。


年配の医師は、茶化しもせず、驚きもしなかった。いくつか質問をして、それから「その分野には、専門の先生がいます」と言った。ジェンダークリニックへの紹介状を書いてくれるという。事務的で、丁寧で、ありがたかった。


会計を待つあいだ、母親には「事故のことと、自分のことを整理するのに、専門の先生を紹介してもらった」とだけ伝えた。嘘は言っていない。最近の俺は、嘘を言わない技術ばかり上達していく。


その足で紹介先に予約の電話を入れると、初診は二ヶ月半待ちだった。


予約の取れない鮨屋か。


……いや、違うな。並んでいる人の数だけ、二ヶ月半を待てないくらい切実な事情があるということだ。電話を切ってから、俺は自分の軽口を静かに撤回した。


待ち時間は、資産に変える。その日からノートに「日誌」の欄を作った。日付、その日の違和感、具体例。診断に要るのは持続性と一貫性。つまり記録だ。記録なら、四十年やってきた。


* * *


二ヶ月半後。初診の日は、蝉がうるさかった。


母親は同行したがったが、断った。「一人で話したいことだから」。半分は本当で、半分は実務だった。診察室に入れる嘘の関係者は、少ないほうがいい。


ジェンダークリニックは、雑居ビルの五階にあった。想像していたより普通の、清潔で静かな待合室。呼び出しは名前ではなく番号だった。なるほど、と思う。ここでは名前は、うかつに呼んでいいものではないのだ。


受付で渡された問診票を持って、記入台に立った。氏名、生年月日、と埋めていって、ある欄でペンが止まった。


――ご自身が認識している性別をお書きください。


書ける唯一の真実、のはずだった。なのに一画目が出ない。この欄に「男」と書くのは、履歴書に事実を書くのとは、何かが決定的に違う気がした。


「初めてか」


隣から声がした。


低い声だった。振り向くと、俺より頭ひとつ高い位置に、無精髭の男の顔があった。二十代後半くらい。よく灼けていて、作業着のズボンにTシャツ。自販機のコーヒーを持っている。


「あー……はい。初診です」


「そこで固まる奴、だいたい初診」


男は笑って、コーヒーを一口飲んだ。


「書けって言われて書けるなら、ここに来てないっての。なあ?」


「……確かに」


思わず素で返すと、男は片眉を上げた。


「あんた、しゃべり方おっさんだな」


どきりとした。が、男の顔に他意はなかった。むしろどこか、感心したような顔だった。


「藤堂。藤堂慧けい。ここ、もう二年通ってる。今日はホルモンの注射の日」


「……早坂です」


名字だけ名乗った。下の名前は、まだこの場所で名乗る気になれなかった。藤堂はそれ以上訊かなかった。ここの待合室では、それが作法らしかった。


「早坂は、いつから?」


いつから。それが「いつから通ってる」ではなく「いつから自分の性別に気づいてる」の意味だと、少し遅れてわかった。


「……春に、事故で記憶をなくして。目が覚めたときから、ずっとです」


藤堂は、コーヒーの缶を口に運びかけて、止めた。


「そりゃ……大変だな」


それだけ言った。詮索はしなかった。代わりに、自分のことを少し話した。物心ついたときにはもう、スカートで幼稚園に行くのが世界の間違いだと思っていたこと。ここに辿り着くまでに二十年かかったこと。ホルモンを始めて二年で、声がこうなったこと。


「二十年」と俺は繰り返した。


「長かったぜ。あんたは事故のぶん、途中からで大変だろうけど……まあ、ここの先生はちゃんと聞く。心配すんな」


番号が呼ばれた。藤堂は缶を持って立ち上がり、じゃあな、と診察室のほうへ消えていった。


俺は記入台に向き直って、「男」と書いた。


書けた。書けてしまった。二十年かけてここに来た男に、二の足を踏んでる場合かと思ったら、書けた。


ただ、胸の中で何かが、ひとり分だけ重くなった。


* * *


柳田という医師は、五十がらみの女性だった。


紹介状と、取り寄せた病院の記録を、時間をかけて読んでいた。頭部外傷。三週間の昏睡。逆行性の健忘。人格変化の所見。読み終えて、彼女は最初にこう言った。


「正直にお話ししますね。事故のあとから、という経過は、この診断のうえでは、いちばん難しいところです」


「……はい」


「私たちは、性別の違和を診断するとき、ほかの原因で説明がつかないかを、先に考えないといけません。あなたの場合、脳の怪我という、考えないといけないものが実際にある。だから、時間がかかります。それでも通えますか」


想定内だ。想定内のはずだ。それでも面と向かって言われると、レールだと思っていたものが、ずいぶん長い坂に見えた。


「時間がかかるのは、覚悟してきました」


「けっこう」柳田先生は、初めて少しだけ表情を緩めた。「では今日は、診断の話はやめましょう。あなたがいま、毎日、何に困っているかを聞かせてください」


毎日、何に困っているか。


それなら、いくらでも話せた。


鏡を見るたびに、知らない顔が振り向くこと。声を出すたびに、耳元で他人の声がすること。名前を呼ばれて、振り向くのに毎回半秒かかること。夜、寝る前がいちばん駄目で、身体の輪郭の全部が「違う」としか言いようがないこと。トイレも風呂も、いちいち目を逸らして生きていること。


話しながら、気づいていた。俺はいま、転生の話を一切していない。していないのに、口から出てくる言葉は全部、一言も加工していない本物だ。


柳田先生のペンが、途中から止まっていた。彼女は手元を見ずに、俺の顔を見て聞いていた。


「……よく、話してくれました」


診察の終わりに、彼女は次回の予約を入れた。二週間後。継続だ。ルートは繋がった。


帰りのエレベーターで一階に降りると、外は夕方になりかけていた。蝉の声が少しだけ遠い。ビルの前で、作業着の背中がバイクにまたがるところだった。藤堂は俺に気づくと、ヘルメット越しにひょいと顎を上げた。


「おう。どうだった」


「……続けて通うことになりました」


「そうか」と彼は言った。「じゃ、また会うな」


バイクの音が角を曲がって消えてから、俺はノートを出して、今日の欄に書いた。


進捗:初診、完了。継続、決定。

特記:藤堂慧。二十年。


最後の一行を、しばらく眺めた。うまく分類できる箱が、まだ無かった。


分類できないまま、また会うことになる。そして会うたびに、俺の嘘は、ひとり分ずつ重くなっていく。


その勘定がどこまで膨らむのか、このときの俺は、まだ知らずにいた。


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