第2話 攻略ノート
本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。
性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。
退院の日、俺は生まれて初めて見る家に「帰宅」した。
郊外の建売住宅。表札には早坂とある。玄関で母親が「おかえり」と言い、俺は半秒ほど遅れて「ただいま」と返した。この半秒を、早くゼロにしなければならない。
通された二階の部屋は、他人の人生のショールームだった。
勉強机。使い込まれた電子辞書。本棚には教科書と参考書、少女漫画がひと揃い、文庫が数冊。ベッドの上には年季の入ったクマのぬいぐるみ。壁には制服姿の女の子二人の写真――片方は、あの窓ガラスで見た顔だ。楽しそうに笑っている。
……悪いな。留守を預かる。
誰にともなく心の中でそう断ってから、俺はその部屋で暮らし始めた。
生活には、業務フローがいくつも必要だった。
最初に業務化を迫られたのは、トイレだった。なにしろ回数が多い。風呂は一日一回だが、こちらは数時間おきに研修がやってくる。手順が違う。姿勢が違う。そもそも仕様から「立つ」の選択肢が消えている。幸い、と言っていいのか、入院中に看護師さんの介助つきで基礎は叩き込まれていた。この件についての所感は以上だ。業務日誌に、これ以上の記載はない。
風呂と着替えも「業務」に分類した。目を伏せ、手順化し、感想を持たない。三日で「なるべく見ないで洗う」技術だけが妙に上達した。人体とは不思議なもので、業務だと思えばだいたいのことは処理できる。処理しきれない日もあったが、記録には残さないことにする。
食事は問題ない。むしろ問題は、箸を持つ手が俺より行儀がいいことだった。字もそうだ。ノートに試しに名前を書いたら、丸っこい、見たこともない字が出てきた。俺の頭が文面を作り、この身体が清書する。分業体制である。
母親は、過保護になった。三十分おきに部屋のドアがノックされ、果物が届く。りんごの皮が剥いてある。ありがたく食べた。四十年の人生で、剥いたりんごが定期配送された時期はない。
父親は、距離を測りかねていた。廊下ですれ違うたびに何か言いたそうにして、結局「調子はどうだ」だけが出てくる。「ぼちぼちです」と返すと、頷いて去っていく。あの人の通信プロトコルは実装が古いが、疎通確認だけは欠かさない。嫌いではなかった。
壁の写真のもう一人――千尋の親友だという子には、母親が「記憶が戻るまで、そっとしておいてほしい」と伝えてくれたらしい。それでも見舞いの焼き菓子が、机の上に届いていた。俺はそれを、しばらく食べられずにいた。
そして夜、家が寝静まってから、俺の本業が始まる。
千尋のスマホは、結局あれきり誰にも開けない。母親が「連絡が取れないと心配だから」と、回線だけ移した新しいスマホを持たせてくれた。それが俺の唯一の作戦室だった。
* * *
作戦目標はひとつ。村瀬亘に戻ること。
まず、オカルト路線から潰した。
入れ替わり。憑依。転生。検索窓に打ち込んで出てくるのは、創作と、体験談の体裁をした創作と、石を売りたい人のサイトだった。二週間かけて、それなりに真面目に読んだ。再現手順の書かれたものは一件もなかった。当然だ。再現できるなら、とっくにニュースになっている。
近所の神社にも行った。お祓いの由緒があるという寺にも行った。効果は観測されなかった。賽銭の費用対効果を計算し始めたあたりで、この路線は凍結した。
問題を分解しよう。「戻る」には二つの意味がある。
一、村瀬亘の身体に戻る。これは無理だ。あの身体はもう存在しない。
二、男に戻る。……こっちは、どうだ。
身体の入れ替えはオカルトの管轄だが、性別なら。性別なら、現代医学が扱っていなかったか。
その夜、俺は検索窓に「性同一性障害」と打ち込んだ。
出てきた。出てきてしまった。
今は「性別不合」と呼ぶらしい。心の性と身体の性が一致しない状態。診断があり、治療がある。ホルモン療法で声が低くなり、髭が生え、筋肉がつく。手術がある。戸籍だって、条件を満たせば男に変えられる。特例法という法律まで整備されている。
つまり――制度がある。レールが敷いてある。
俺は膝の上のスマホを取り落としそうになった。オカルトに頼る必要はなかった。「心は男なのに身体が女」という俺の現状は、医学の言葉で記述可能で、保険医療の窓口があり、法律の手続きまで用意されている。この国の制度は、俺のようなケースを想定していた。
……いや。正確に言おう。想定されているのは、俺のようなケースではない。だが、入口の要件は満たしている。心は男。身体は女。一致していない。ここに嘘はどこにもない。
その晩は、夜が白むまで読んだ。診断のガイドライン。学会の定める手順。当事者の手記。ジェンダークリニックの受診案内。読むほどに、これは長い工程だった。精神科医の診断がふたり分。ホルモンは診断の後。手術はさらにその先。戸籍の変更は十八歳以上――これは満たしている。ありがとう千尋さん、と思ってから、何に感謝しているのか自分でもわからなくなった。
読みながら、一箇所だけ、画面を繰る指が止まった。ホルモン療法の説明に、繰り返し出てくる語があった。不可逆。声の変化は戻らない。生じた変化の一部は、中止しても元に戻らない。
不可逆な変更を加える。この身体に。……俺のものではない、この身体に。
もし、いつか千尋さんが帰ってくるのだとしたら。あの三つの仮説の、三つ目が正解だったなら。俺は他人の身体を、持ち主に無断で、取り返しのつかない形に作り替えたことになる。
……その工程は、まだずっと先だ。診断だけでも、半年や一年はかかるだろう。答えを出すのは今じゃなくていい。俺はその問いを、例の「考えない」の箱に入れた。最近、この箱ばかりが埋まっていく。
ノートを作った。紙のノートだ。デジタルは母親に見られる事故がありうる。表紙には何も書かず、一ページ目にこう書いた。
計画:男に戻る。
方針:制度のレールに乗る。
課題:「この春まで普通の娘だった患者」に、性別不合の診断は下りない。
そう。ここが最大の障害だった。読んだ限り、診断には持続性が要る。物心ついた頃からの違和感。生活史。一貫したエピソード。
最初に考えたのは、定番の筋書きを演じることだった。「物心ついたときから自分を男だと感じていたが、ずっと隠して我慢してきた早坂千尋」。教科書どおりの病歴だ。
三分で棄却した。穴だらけだ。
第一に、俺は公式には記憶喪失である。物心ついた頃の話を語った瞬間、記憶が戻ったことになってしまう。第二に、医者は家族からも話を聞く。両親の記憶の中の千尋は、たぶん普通に女の子をやっていた。証言が食い違う。第三に、これがいちばん厄介だが――頭を打った直後に「自分は男だ」と言い出した患者を、医者はまず、頭のせいだと考える。診断には他の原因の除外が要ると書いてある。俺のケースは、その「他の原因」の見本市みたいなものだ。
つまり、盛った病歴は作れない。作れるだけの材料が無い。
……いや、待て。逆に考えよう。
俺に語れる真実が、ひとつだけある。「記憶を失って、まっさらで目覚めたその日から、今日まで一日も欠かさず、自分を男だとしか感じられない」。これは嘘ではない。過去は語れなくても、現在ならいくらでも語れる。持続性が要るなら、これから実時間で積めばいい。通院を重ねて、ぶれない記録を作る。
方針を修正する。演技は最小限。「物心ついた頃から」は捨てる。隠すのは転生のことだけ。あとは全部、本当のことを言う。
使える札は、時間と一貫性。地味だが、要件は満たせる。要件定義は得意なんだ。
……ペンが、一瞬だけ止まった。
夜通し読んだ中に、当事者の手記があった。小学校の制服のスカートが吐くほど嫌だった話。二十年かけて、やっと自分の名前で呼ばれるようになった話。俺がこれから乗ろうとしているのは、ああいう人たちの二十年が敷いたレールだ。この春まで、性別について一秒も悩んだことのなかった俺が。
「……すまん。間借りする」
誰にともなく、また心の中で断った。最近こればかりだ。他人の部屋に住み、他人の身体を借り、今度は他人の苦労が整えた制度に乗る。せめて丁寧に使わせてもらう。それしか、できることがない。
* * *
決行は、日曜の夕食にした。
母親の手料理は、今夜も俺の四十年の食生活より水準が高い。肉じゃがの糸こんにゃくを眺めながら、俺は準備しておいた台詞を出した。
「あのね。……心療内科に、行ってみたいんだけど」
箸の止まる音が、二人分した。
「事故のあとから、その……自分のことで、いろいろ引っかかってることがあって。頭の検査とは別に、心のほうの専門の先生と、話してみたい」
嘘は言っていない。引っかかっていることは山ほどある。主に、俺は誰で、なぜここにいて、どうやって男に戻るかについてだが。
母親の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「そうよね。……そうよね、あんな事故だったんだもの。千尋、ずっと頑張ってたものね」
違う。頑張っていたのは別件だ。そう言えるはずもなく、俺は曖昧に頷いた。
「お母さん、ちゃんと調べておくから。いいところ探そうね」
「金の心配はするな」と父親が言った。今夜は疎通確認より一往復多い。大盤振る舞いである。
食後、二階に上がって、ノートに一行書き足した。
進捗:家族の合意、取得。摩擦、ゼロ。
ペンを置いて、少し天井を見た。
摩擦がゼロだったのは、こちらの申請書類に、あの人たちが涙で判を押してくれたからだ。娘の心の傷を案じる親の善意を、俺は「男に戻る計画」の稟議に流用している。
……業務だ。これも業務に分類する。
分類したはずの何かが、その夜はいつまでも、胸の隅で処理待ちのまま残っていた。




