第1話 目覚め
本作はフィクションですが、着想の根には、作者自身が病気で身体の自由を失い、リハビリで取り戻した実体験があります(実録エッセイ「1年前に脳梗塞になった話」を同じアカウントで公開しています)。
性別不合の医療・制度の描写は、可能な範囲で現実に沿うよう努めましたが、物語上の脚色を含みます。現実の当事者の経験は一人ひとり異なり、この物語は誰の経験も代表しません。
天井が白い。見覚えのない白だった。
まず名前を確認する。村瀬亘、四十歳、独身。職業はソフトウェアエンジニア。最後の記憶は月曜の朝、青信号の横断歩道と、右折で突っ込んでくるトラックのグリル。よし、記憶は生きている。
次に状況だ。白い天井、点滴のスタンド、消毒液の匂い。どこかで規則正しい電子音が鳴っている。病院だろう。あのトラックから生きて拾われたらしい。悪運が強い。
ただ、妙だった。トラックと正面から挨拶した割に、どこも痛くない。四十年かけて溜め込んだ肩と腰の澱みも、どこにもない。寝たまま感じる限りでは、身体が妙に軽い。
なのに、右手を持ち上げようとして驚いた。重い。腕一本が、砂袋みたいに重い。ようやく持ち上がったそれは、噓みたいに細かった。
細くて、白い。爪が小さくて、桜色をしている。手首なんて、俺の知っている俺の手首の三分の二もない。人差し指には洗濯ばさみめいたクリップが挟まれ、コードがどこかへ伸びている。
「……あ」
出た声で、二度目に驚いた。高い。掠れてはいるが、明らかに高い。少女の声だ。
そこから先は、確認の連続だった。鼻には細い管が貼りつけてあり、寝間着の胸元には電極が何枚も貼られ、左腕には点滴。さっきから鳴っている電子音は、どうやら俺の心拍らしい。そして下半身に、ひとつ、あまり考えたくない感触の管。なるほど。これは「事故で運ばれた」どころの装備ではない。長期戦の装備だ。
夢にしては細部が本格的すぎる。俺は枕元を手探りしてナースコールを押した。押そうとして、狙いより五センチ手前の空をつかんだ。二度目で押せた。
駆けつけた看護師は、俺と目が合うなり泣きそうな顔になった。
「早坂さん……! 千尋ちゃん、わかる? ここ、どこかわかる?」
はやさかさん。ちひろちゃん。どちらも初耳である。わかるかと訊かれれば、病院だということ以外は何もわからない。ただ、四十年ばかり社会人をやっていると、こういうとき反射で出る答えは決まっている。
「……病院、ですよね」
看護師は何度も頷き、目元を拭って、それからペンライトで俺の目を照らしたり、指を何本立てているか訊いたりした。枕元の機械を確かめ、「すぐ先生が来ますからね、ご家族にも連絡しますね」と言って、廊下へ顔を出して誰かを呼ぶ。
ばたばたと足音が交錯する、そのわずかな隙に、俺は身体を起こそうとした。腹に力を込める。上体が数センチ浮いて、震えて、落ちた。もう一度、今度は肘で支えようとして、肘のほうが先に音を上げた。砂袋なのは腕だけではないらしい。
観念して周りを見回すと、ベッドの柵にリモコンがぶら下がっていた。ボタンは三つ。絵柄からして電動ベッドの背上げだ。よし、このインターフェースなら読める。
モーターが唸って、視界がゆっくり起き上がる。文明に感謝するほかない。
起き上がった視界の先で、日が落ちかけた窓ガラスが、半分だけ鏡になっていた。
ベッドの上に、知らない女の子がいた。
十代後半。長めの黒髪はやや傷んで、頬は入院患者らしく削げている。俺が重い右手を上げると、女の子も右手を上げた。首をかしげると、向こうもかしげた。当たり前だ。反射像というのはそういう仕様である。
さて。
俺は桜色の爪を見下ろして、深呼吸をひとつした。パニックというのは対処を知らないから起きる。まず事実を並べよう。
一、俺の記憶は村瀬亘の四十年ぶんで途切れなく続いている。
二、この身体は俺のものではなく、早坂千尋という少女のものらしい。
三、装備から見て、この身体はかなり長いことここで眠っていた。
四、周囲は俺をその千尋ちゃんとして扱っている。
結論。何が起きたのかはさっぱりわからないが、とんでもないバグが起きている。
そして四十年の経験上、バグは報告しなければ直らない。
――先生が来たら、正直に全部話そう。
このときの俺は、まだそう思っていた。
先生は、五分もしないうちに現れた。白衣の上からでもわかる小走りで駆けつけて、俺の顔を見るなり、看護師と同じ顔をした。泣きそうな顔というのは、どうやらこの病棟の標準装備らしい。
主治医だと名乗った。名前も言っていたはずだが、こっちはそれどころではなかった。
「早坂さん、いくつか質問しますね。ゆっくりでいいですよ」
見当識の確認というやつだろう。ここがどこか。今がいつか。そして。
「お名前を、教えてもらえますか」
来た。真実を告げる、これ以上ないチャンスだ。
「村瀬亘です」
部屋の空気が、一段だけ冷えた。
医師は表情を変えなかった。「はい」と短く受けて、そのまま続けた。今日が何月何日かわかりますか。ここはどこでしょう。
こちらは人生最大の告白をしたつもりなのに、質問リストは一行も飛ばずに進んでいく。俺の名乗りは、どうやらチェック項目のひとつとして処理されたらしい。だから俺は、リストの隙間に押し込んだ。
「先生。俺は村瀬亘という、四十歳の男なんです。住所も、勤め先も、免許証の番号だって言えます。調べてもらえれば、全部裏が取れるはずです」
我ながら、これ以上ないほど検証可能なバグ報告だった。再現手順つき、環境情報つき。あとは受け取った側が調べてくれれば済む。
医師は、否定も肯定もしなかった。
「――そういう記憶がある、ということですね」
記憶がある、ではない。事実だ。そう言い返しかけて、俺は医師の手元を見た。カルテの上をペンが走っている。文字までは読めなかったが、あの速度は知っている。事実を記録する速度ではなく、「患者の訴え」を記録する速度だ。それから医師は看護師のほうを向いて、低い声で二言三言。「せん妄」という単語だけが聞き取れた。
なるほど。そういうことか。
頭を強く打って三週間眠っていた患者が、目を覚ますなり「自分は四十歳の男だ」と主張している。この状況に対して医学が用意している棚は、転生でも憑依でもない。せん妄。作話。記憶の混乱。丁寧に扱ってはもらえるが、信じてはもらえない。そして押せば押すほど、俺は「まだ回復していない患者」になっていく。この主張の先にあるのは退院ではなく、たぶん精神科への紹介状だ。
検証可能なのに誰も検証してくれない主張は、存在しない主張と同じである。
「……すみません」と俺は言った。「頭がまだぼんやりしていて。長い夢を見ていたので、混ざってしまったみたいです」
医師の肩から、目に見えて力が抜けた。
「事故のあとは、記憶が混乱することはよくあるんですよ。焦らずに、ゆっくりいきましょう」
よくあることらしい。よかった。何もよくないが。
こうして、俺の人生で最初で最大のバグ報告は、起票から五分で「再現せず」としてクローズされた。
* * *
両親――早坂千尋の両親は、日がとっぷり暮れた頃に駆け込んできた。
病室の入口で、小柄な女の人が立ち止まった。口に手を当てて、俺を見て、それから顔がくしゃりと潰れた。
「千尋……」
ベッドに駆け寄ってきて、俺の手を両手で包んで、あとはもう言葉にならなかった。ごめんね、よかった、ごめんねと、順番のめちゃくちゃな言葉が嗚咽の隙間からこぼれてくる。その後ろでは大柄な男の人が突っ立ったまま、何度も何度も頷いていた。頷く以外の動作を全部忘れてしまったみたいだった。
俺は、どうしていいかわからなかった。
四十年生きてきて、人の親にこんなふうに泣かれた経験はない。まして、その涙が一滴残らず宛先違いだと知っているのは、この部屋で俺だけときている。あなたの娘さんはここにいません、と言うべき相手には、さっき「そう感じるんですね」と返されたばかりだ。真実の在庫は、もうこの世界のどこにも持って行き場がない。
「……ごめんなさい」
気がついたら、そう言っていた。
「その、思い出せなくて。……おかあさん、ですよね。たぶん」
嘘は言っていない。思い出せないのは本当だ。思い出せる記憶が、最初から一秒ぶんも無いというだけで。
千尋の母親は、首を横に振った。ちぎれそうなほど振った。
「いいの。いいのよ、そんなの。生きててくれたんだから」
それから彼女は俺の手を握ったまま、医師の説明を聞いた。命に別状はないこと。記憶に混乱があること。事故のあとにはよくあることで、時間をかけて見ていきましょうということ。「よくあること」は今日二度目だ。この病院では、娘の中身が入れ替わることもよくあるのかもしれない。
……いや、よくない。八つ当たりだ。やめよう。
父親は最後まで、ほとんど何も言わなかった。帰り際に一度だけ、ベッドの柵に手を置いて、「ゆっくりでいいからな」と言った。それだけ言うのに、たぶん面会時間の全部を使って言葉を探していた。
二人が帰った後の病室は、来る前よりずっと静かに感じられた。
俺は天井を見上げて、今日並べた事実に、五つ目を書き足した。
五、早坂千尋には、娘の目覚めを三週間待ち続けた親がいる。
技術的には何の新情報もない。だがこの五つ目だけは、他の四つと重さの単位が違った。
* * *
入院しているあいだに、この身体の事情も少しずつ揃ってきた。早坂千尋、十八歳。この春に高校を出たばかりで、受験がうまくいかず、四月からは浪人生になるはずだったらしい。三月の夕方、自転車で車と接触して頭を打ち、それから三週間眠っていた。手首のリストバンドと、聞こえてくる会話と、母親の繰り言。情報源はそれだけだが、要点は掴める。俺はいつもの癖で、それを頭の中の台帳に書き込んだ。書き込みながら、他人の個人情報を淡々と暗記している自分に、少し薄ら寒いものを感じた。
それからの二週間は、リハビリに費やされた。
三週間の寝たきりで、この身体の筋肉はごっそり目減りしていた。立つ練習、歩く練習。ただ、やってみるとこれが妙な体験だった。
考えて動かそうとすると、駄目なのだ。右足を出して、重心を移して、と頭で手順を組み立てた途端、身体はぎくしゃくと他人になる。逆に、理学療法士と喋りながら何も考えずにいると、身体は勝手に歩いた。歩き方を覚えているのは俺ではなく、この身体のほうだった。四十年かけて書かれた俺の歩行プログラムは、この筐体では動かない。動くのは、早坂千尋が十八年かけて書いたやつだけだ。
つまり俺にできる仕事は、口を出さないこと。エンジニア人生でいちばん難しい仕事かもしれない。
理学療法士は「若いから戻りが早いですね」と笑った。若いから。なるほど。俺は曖昧に笑い返した。
退院の前日、返却された荷物の中にスマホがあった。三週間の放置で電源は落ちていて、借りた充電器で起動すると、画面はパスコードを要求してきた。再起動のあとは、指紋も顔も受け付けない仕様になっている。つまりこのスマホを開ける数字は、早坂千尋の頭の中にしかない。
……この世のどこにも無い、ということだ。
スマホは諦めた。だが病棟の談話室には、誰でも使える古いタブレットがあった。
俺は、村瀬亘を検索した。
すぐに見つかった。地方版ニュースの、小さな記事だった。交差点を右折したトラックが横断歩道の歩行者と衝突、四十歳の会社員が搬送先で死亡。名前の漢字も、年齢も、現場の交差点も、全部合っていた。日付は三週間前。この身体が眠っていたのと、同じ三週間だ。
搬送先で死亡。
つまり、あっちに戻ろうにも、もう空き家すら残っていない。俺の身体は焼かれて、骨になって、たぶんもう墓の中にいる。
タブレットを持つ手が震えているのに気づいて、膝に置いた。震えているのは千尋の手で、震えさせているのは俺だ。なんだか、この身体に悪いことをしている気分になった。
そこで遅れて、もうひとつの問いが来た。
俺がこの身体にいるのなら――早坂千尋は、今どこにいる。
入れ替わりなら、彼女は俺の身体にいたことになる。俺の身体は、三週間前に死んだ。そうでないなら、自転車の事故のときに、もう。……あるいは、どこか俺の知らない場所で、無事でいるのか。仮説は三つ。検証手段はゼロ。そして上のふたつは、考えたくもない中身をしている。
考えてもどうにもならないことは、考えない。四十年で身についた処世術だ。ただ、この問いだけは「考えない」の箱に入れても、蓋の隙間からこちらを見ている気がした。娘の目覚めを三週間待った、あの二人の顔とセットで。
……戻る先が、無い。
いや。落ち着け。結論を急ぐな。身体が無いことと、方法が無いことは、別の命題だ。中身の入れ替わりなんて出鱈目が現に一度起きたのだから、この世界の仕様には、俺の知らない隠し機能がある。それを探せばいい。探すしかない。
四十にもなって、人生二周目の攻略情報を何ひとつ持っていない。確かなことはひとつだけ。この件のバグ報告を受け付けてくれる窓口は、この世のどこにも無いということだ。
――だったら、自力でどうにかするまでだ。




