第六十一話 動いた二本と、集める会議
夜は明けなかった。明けたと思ったら、もう朝だった。湊は居間の机に突っ伏したまま目を覚ました。ハルの瓶は机の真ん中にある。四本の糸が丸くなっている。むすびと、名のない一本と、墨と、しの。
祖母はもう起きていた。釜に火を入れている。祖父は店先で帳簿を開いたまま、ただ座っていた。
「寝ろと言ったのに」と祖母が言った。
「寝られませんでした」
「無理もない」と祖母は湯呑みを置いた。「あの糸が、あんたの掌で初めて名を覚えたんだ。……夜中に、二度ほど動いただろう。気づいたか」
「気づきませんでした」
「しのが、あんたの名を呼んだんだよ」と祖母は言った。「呼んで、返事を待って、また呼んで。……四十年ぶりの朝だからな」
二
七時半に雫が来た。私服のままで、鞄に紙が挟んである。
「南西を詰めた」と彼女は座るなり言った。「昨夜の糸が示した方角だ。旧搬入口から南西へ線を引くと、一つだけ当てはまる場所がある」
「どこですか」
「保護行政、第一施設だ」と雫は言った。「聖良が保護されている施設。そして戸塚さんの倉庫がある、南側旧素材倉庫街の一角でもある」
「……戸塚さんの倉庫」
「そう」と雫は頷いた。「十八年前から、あの倉庫は南西の位置にある。糸が南西を示したなら、動いた一本は、あの地域のどこかだ」
三
その時、店の戸が鳴った。控えめな三回の音である。
祖母が出て、すぐに戻ってきた。後ろに、昨夜の女が立っていた。着物のままだった。顔色は昨夜より悪い。
「すみません」と女は頭を下げた。「帰ったはずなのに。……戻ってしまいました」
「どうして」
「脈が、鳴ったからです」と女は言った。「今朝の六時。点が三つ、揃った。……会議が、開きました」
四
女は畳に座った。湯呑みを両手で包む。指先が白い。
「何の会議ですか」と湊は訊いた。
「集める会議です」と女は答えた。「守る会議は、もうない。今の会議は、集めるためだけに開く。……十三本を、全部、一手に集める。それが今の会議の目的です」
「一手に、というのは」
「抜くのではありません」と女は言った。「抜くのは、一本ずつ、宿主から取り出す作業です。時間がかかる。宿主が壊れる。……今の会議は、抜かない。引き寄せる」
五
「引き寄せる」とひまりが繰り返した。彼女は昨夜のうちに篠宮家へ戻るつもりだったが、朝の連絡で足が止まったままだった。一ノ瀬も来ている。六人が居間に並んで座った。
「糸は、預け先の血に馴染むように作られた」と女は言った。「冬吾がそう設計した。……ということは、逆に言える。血を辿れば、糸は自ら動く。名を呼ぶ必要さえない」
「血を辿る」と一ノ瀬が言った。
「ええ」と女は頷いた。「佐伯さんの血筋。篠宮家の血筋。朝比奈家の血筋。会議は、預け先の名簿を持っている。名簿の血縁を辿って、糸を引く。……宿主の同意も、名の呼びかけも、要らない」
祖父が初めて口を開いた。
「うちの店も、血を辿られるのか」
「辿られます」と女は静かに言った。「冬吾は、あなたの店の青葉草でしか糸を造れなかった。……朝比奈家は、名簿の筆頭です」
六
居間が静かになった。火鉢の炭が一つ崩れた。
「ならば、どう防ぐ」と雫が訊いた。
「二つあります」と女は答えた。「一つは、名。血は辿れても、名は辿れません。名をつけられた糸は、呼ぶ者の許可なく動けない。……あなたたちが毎晩、自分の名を呼ぶのは、それで効いている」
「もう一つは」
「器です」と女は言った。それから、ハルの瓶を見た。「器は、名のない糸を引き寄せる。……引き寄せる合戦になった時、器の強さが、そのまま線になる」
七
その時、ハルの瓶が光った。四本の糸が同時に瓶の内側を叩いた。外へ出たがっているのではない。内側へ、固まろうとしている。守り手たちの声が重なった。
『――引かれている』
『南西から、線が伸びている』
『会議は、もう、引いている』
「今ですか」と湊は瓶を抱えた。
『今だ』『包みが、施設の倉庫から出た』『包みの中に、一本ある』『それが、南西へ動いている』
八
「包みの中に、糸が入っていたんですか」と湊は訊いた。
「入っていたに違いない」と女は言った。「十八年前、冬吾は最後の二本を隠した。行き先の知らない二本。……一本は、あの人の遺した資料の包みに、忍ばせていたはずです。国の手に渡っても、誰も気づかない場所に」
「そして、その包みが今朝、消えた」
「ええ」と女は言った。「会議が、取った。……二本のうち、一本は、もう会議の手にある」
九
雫が携帯を開いた。戸塚への照会履歴を示す。
「包みの行方を、戸塚さんに訊きました」と彼女は言った。「倉庫の記録では、昨夜の十一時四十分に、封が開いている。開けた者の記録はない。……ただ、一つだけ分かったことがある」
「なんですか」
「包みは、倉庫から南西へ運ばれた」と雫は言った。「倉庫街の外の監視カメラに、コートの人物が写っている。包みを抱えて、南西へ歩いていた。……南西の先にあるのは、第一施設だ」
「施設へ持って行った」
「いや」と雫は首を振った。「施設の前で、人物は止まらなかった。通り過ぎた。……その先は、何もない。線路と、畑と、そして」
彼女は画面を指で押さえた。
「朝比奈薬店だ」
十
居間の空気が、一度だけ止まった。
「うちに」と祖父が言った。
「うちへ」と湊は言った。「……会議は、包みを、この店へ運んでいる」
「運ぶ、というより」と女は低い声で言った。「引かれているのよ。……包みの中の糸は、名を持たない。名のない糸は、器を探す。器が、この店にある。……糸が、帰りたがっている」
十一
昼前、携帯が鳴った。設楽巧からだった。雫が出て、短く聞き、それから受話器を湊へ向けた。
「査定部の設楽巧です」と巧の声がした。「二つ、伝えます。一つ。兄が、今朝、職員表から消えた。……退職手続きも異動手続きもない。ただ、消えた」
「二つは」
「二つ。兄は昨夜、南西へ歩いた」と巧は言った。「監視カメラに写っていたコートの人物は、兄だ。……包みを抱えて、南西へ。あの男は、会議の使いだ。会議が、包みを取らせた」
「兄さんは、知っていたんですか。包みの中身を」
「知っていたと思う」と巧は言った。「十三本の並びを全部知っている男だ。……では、もう一本の隠し場所も、知っているはずだ」
十二
電話が切れた。雫は携帯を閉じ、それから湊を見た。
「設楽実は、会議の使いとして包みを運んだ」と彼女は言った。「だが、運ぶ方向が、施設ではない。この店だ。……会議は、器を知った。昨日のうちに。ならば会議の考えは、一つしかない」
「引き寄せの、中心地にする」
「そうだ」と雫は頷いた。「器を手に入れた会議は、そこへ集める。名のない糸は、器へ集まる。……この店は、これから、集められる場所になる」
十三
夕方、祖父は店の奥へ入った。しばらくして戻ってきた。手に、古い壺を一つ持っていた。素焼きの、薬缶より一回り小さい壺である。口は布で塞がれている。布の色は、四十年前の色だった。
「冬吾が、置いていったものだ」と祖父は机の上に置いた。「あの人は、最後に来た時、これを台所の隅に置いて言った。『壊さず、洗わず、火にかけず。ただ、置いておいてくれ』と。……二十年、置いてきた」
「開けても」
「開けろ」と祖父は言った。「そういう時期だ」
十四
布をほどいた。壺の口を覗くと、中に白い糸が一本、丸くなっていた。脈を打っていない。けれど、暗くもない。十二本目と同じ、眠ったままの丸まり方だった。
『――十三本目の、隠し糸だ』と守り手たちが言った。
「十三本目」と湊は繰り返した。
『いや』『十三本目は、お前が持っている』『これは、別の数え方だ』『冬吾は、十三本を十三人に預けた。その上で、最後の一本を、糸の数に入れずに隠した』『十四本目ではない。予備だ』
「予備」
『器が壊れた時に、器を作り直すための、種だ』
十五
壺の中の糸は、動かなかった。ハルの瓶を近づけても、寄ってこなかった。名を持たないはずの糸が、引き寄せられない。
「……なぜ」と湊は訊いた。
『眠っているからだ』と守り手たちは言った。『冬吾が、深く眠らせた』『起こすには、名が要る』『だが、起こしてはいけない』
「どうして」
『起こした瞬間、会議に分かる』『種の場所が、分かる』
十六
女が壺を覗き込んだ。長く見ていた。それから、静かに言った。
「……あの人は、最後まで、こういう人だった」
「どういうことですか」
「十三本を預けたあとで、十四本目を隠した」と女は言った。「誰にも言わずに。私にさえ言わずに。……あの人が死んだあと、私は、この壺のことを十年間、探した。見つからなかった。……あなたのお祖父様の台所に、二十年前からあった」
祖母が茶を注ぎ直した。女は両手で湯呑みを包み、しばらく動かなかった。
「……置いておいたのだわ」と女は言った。「私が見つけられない場所に。私が死んだことにされていたから。……あの人は、そういう人だった」
十七
その夜、九時。会議が開いた。
点が揃う音は、音ではなかった。居間の灯りが一度だけ揺れ、火鉢の火が低くなって、また戻った。女が立ち上がった。畳の上で、右手を胸の前に置いた。
「三つではない」と女は言った。「今夜は、五つだ。……点が、五つ」
「五つ」と雫が訊いた。
「包みの糸が、点になった」と女は答えた。「集められた糸は、会議の点になる。……会議は、今、五つの勢力になった」
十八
五つの脈が、遠くから返ってきた。一拍、また一拍。机の上のハルが鳴った。割れた瓶が、机の上でがらりと動いた。
「呼べ」と祖父が言った。
湊は息を吸った。「湊」
ひまりが続いた。「ともしび」
一ノ瀬が続いた。「しおじ」
湊は瓶に向かって、もう一度呼んだ。「むすび。墨。しの」
三本の糸が、一度だけ強く光って、それから静かになった。引き寄せの線が、途切れた。
『――防いだ』と守り手たちが言った。『だが、今夜のは、呼びかけではない』『引き寄せの、地ならしだ』
十九
「地ならし」と湊は繰り返した。
『会議は、引き寄せの線を、一本ずつ確かめている』『どの家の血が、糸を引けるのか。……明日から、血を辿る』
「誰の血から」
『一番近い血からだ』と守り手たちは言った。『佐伯与作の、血筋』
祖母が受話器を取った。佐伯翔太の番号である。呼び出し音が五回続いた。出ない。七回。八回。……
祖母は受話器を置いた。
「出ません」
二十
その時、店の裏口を叩く音がした。弱くて、速い音だった。一ノ瀬が立った。ひまりが右手を出した。雫が携帯を握った。
祖父が戸を開けた。
戸口に立っていたのは、一条だった。コートは泥に汚れ、袖が破れている。左の肩を押さえている。彼は包みを、机の上に置いた。
「……追われた」と一条は言った。「会議に、追われて」
「包みを、取り返したのか」と湊は訊いた。
「取り返した」と一条は言った。それから、机の上の壺を見た。壺の中の眠った糸を、一条は見て、静かに息を吐いた。
「……先生は、ここに置いていたのか」
そして彼は顔を上げた。声を落として、言った。
「朝比奈。もう一本は、取り返せた。だが、会議は、残りを数えた」と一条は言った。「掌の二本と、器の中の四本。そして、この壺の種。……会議は、もう、全部の場所を知っている。明日の夜、ここへ来る」
その時、机の上のハルが強く光った。四本の糸が、同じ方向へ寄った。南西ではなく、もう一本の、近い方向へ。
『――来る』とむすびが言った。
『会議が、来る』
――第六十二話「六本目の名と、来たる会議」へ続く。




