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ダンジョン薬師の隠し秘術 〜世界初の錬金術師になった内気な僕は、正体を隠して最強へ至る〜  作者: 障子


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第六十話 消えた聖良と、名を思い出した糸

包みの上の糸はまだ伸びている。方角を示すように、細く、まっすぐに。北東である。


「北東だ」と湊は言った。


「旧第三ダンジョンの、搬入口の方だ」と雫が言った。「九番倉庫の、さらに北東」


女は立ち上がったまま動かなかった。着物の袖が少しだけ揺れている。消えたはずの名を思い出した女は、それでも次の言葉を待っていた。娘のことだけを。


「聖良は」と女は言った。「自分で出たのか」


「分かりません」と雫は答えた。「部屋は内側から施錠されていた。窓も鍵が下りていた。……出たなら、鍵が戻されている」


「鍵が戻るということは」


「誰かが、中へ入った跡がある」と雫は言った。


二


書斎で恒一が口を開いた。


「通達第四十七号だ」と彼は言った。「あの紙は押印されていない。ならば企画調整室は、今も一時保管の手続きを進めている。……聖良を迎えに行ったのは、設楽実か」


「設楽実なら記録を残す」と雫は首を振った。「あの男は記録が嫌いな側だ。けれど手続きの人間でもある。……手続きの人間は、鍵を戻さない」


「なら誰が」


「会議だ」と湊は言った。「点で開く会議。人が集まらずに開く会議。……集まらなくても、鍵は開くんですか」


三


その時、むすびが言った。喋り方を覚えていない声だった。


『――鍵は、開かない』


「じゃあ、どうやって」


『聖良は、呼ばれた』とむすびは言った。『名を呼ばれて、歩いて出た』『鍵は、外から開けて、中から閉めた』


「呼ばれた。聖良さんが」


『そうだ』『聖良の名は、回復魔法使いの名だ』『呼ばれると、答えてしまう性質がある』


四


天城聖良の名。国に二人か三人しかいない回復魔法使いの名。その名を呼ばれれば、少女は答える。それが回復魔法使いの性質だとしたら。湊は背筋が寒くなった。


「聖良さんは、応えてしまうんですね」


『応える』と守り手たちが言った。『回復魔法使いは、呼ばれた命に応える』『敵が呼んでも、応える』


「ならば、名を呼んだ者は」


「会議だ」と女は静かに言った。「そして、十三本を、全部、手に入れようとしている。……聖良は、十三本を集める鍵だ」


五


「鍵」とひまりが繰り返した。


「十三本は、聖良を守るために作られた」と女は言った。「冬吾はそう言っていた。……逆もまた、真です。聖良を手に入れた者は、十三本を全て引き寄せられる。回復魔法使いの名は、器の親になるからだ」


湊はハルの瓶を見た。三本の糸が丸くなっている。むすびと、名のない一本と、墨。三本は同じ方向へ寄っている。北東へ。


「……ハルも、引き寄せられている」と湊は言った。


『そうだ』と守り手たちが言った。『聖良が呼ばれた時から、引かれている』


六


湊は立ち上がった。瓶を抱えた。割れた瓶の縁が掌に食い込む。けれど、痛みは遠かった。


「行きます」と湊は言った。


「一人では行かせない」と雫が言った。


「三人で行きます」と湊は答えた。「俺と、一ノ瀬と、ひまりさんです」


「私は」と女が言った。


「あなたは」と湊は振り返った。それから言葉を選んだ。「……あなたの名は、消えている。会議の中で、あなたはまだ死んでいる。……だから、あなたが動けば、会議は気づく」


女は唇を噛んだ。十八年、死んだままで生きてきた女である。今、娘が消えた。けれど、自分が動けば娘がさらに危うくなる。その理屈を、女は十八年前から知っていた。


「……分かった」と女は言った。それから、声を落とした。「代わりに、一つだけ教えて」


「なんですか」


「聖良に会ったら」と女は言った。「母の名を、教えて。……あの子は、名を知らない。死んだと聞いて育った。名を知らなければ、会っても分からない」


湊は頷いた。名を教える、と。


七


三人は店を出た。雫はギルドへ戻る。北東の旧搬入口周辺を、ギルドの巡回と調査班で囲む手配をするという。


「包囲は張るな」と出がけに祖父が言った。


「なぜですか」


「包囲は記録に残る」と祖父は言った。「あの男たちは、記録が増えると動く。ならば、静かに行け。……あの糸が示す方角へ、静かに行け」


祖母は三人に薬草の袋を一つずつ持たせた。青葉草の袋である。湊の袋には、乾燥した葉が三束入っていた。


「匂い」と祖母は言った。「あの糸は、うちの匂いを覚えているそうだな。……持っていけ」


八


十一月の朝の通りは霜で白い。三人は旧搬入口の方へ歩いた。ハルの瓶は腹の前に抱えている。三本の糸が、瓶の中で同じ方向へ寄っている。


「ひまりさん」と湊は歩きながら訊いた。「今朝の脈、まだ続いてますか」


「消えた」とひまりは答えた。「書斎の脈は、墨が名を得た時に止まった。……新しい脈は、北東から来てる」


「北東から」


「聖良の脈だ」とひまりは言った。「回復魔法使いの脈は、あたたかい。ともしびと同じ温度だ。……私の点が、それに呼びかけられてる」


九


旧搬入口の近くまで来ると、通りは変わった。三十年前の工場地帯である。錆びた看板が並び、道には草が伸びている。探索者たちが使わなくなった道だった。


「ここは」と一ノ瀬が言った。「昔、資材を運んだ搬送路だ。……第二十二話で、崩れた道だ」


「崩れた道の、上だ」と湊は言った。「糸が示しているのは、その上」


ひまりが右手を出した。掌の点が強く光っている。あたたかい。ともしびと同じ温度の脈が、北東から返ってくる。


「近い」とひまりは言った。


十


道の突き当たりに、倉庫が一つあった。錆びた鉄扉が二枚。屋根は一部が落ちている。けれど、扉は新しかった。錆のない、新しい鍵が二つ付いている。


「この倉庫は」と一ノ瀬が言った。「昨夜まで、なかった鍵だ」


湊は扉の前に立った。ハルの瓶が強く光った。三本の糸が瓶の内側を叩いている。外へ出たがっている。


「開けますか」と一ノ瀬が訊いた。


「開けます」と湊は答えた。それから、声を落とした。「……でも、呼ばれたら、答えないでください」


十一


扉を開けた。中は暗かった。窓はない。天井に穴が一つ開いていて、そこから朝の光が一本、斜めに落ちている。


光の当たる場所に、少女が座っていた。


白いカーディガン。長い黒髪。膝の上で、両手をそろえて重ねている。目を閉じていた。呼吸はある。ただ、眠っているのではない。呼ばれたまま、応えている状態だった。


「聖良さん」と湊は呼んだ。


少女は答えなかった。


十二


「呼ばれてる」とひまりが言った。「今も、呼ばれてる。……別の場所から、名を呼んでる」


「誰が」


「会議だ」と一ノ瀬が言った。「点で開く会議。……会議は、ここにいない。でも、聖良の名を呼んでる」


湊はハルを両手で包んだ。三本の糸が同じ方向へ寄っている。北東ではない。倉庫の中、聖良のいる場所へ。


「呼べるんですか」と一ノ瀬が訊いた。「聖良さんの名を」


「呼べません」と湊は正直に答えた。「名を持たない回復魔法使いの名は、呼ぶ者が要る。……私は、呼ぶ資格がない」


十三


その時、倉庫の奥から声がした。


「資格なら、ある」


湊が振り返った。奥の暗がりに、人が立っていた。コートの男。一条である。背が高く、穏やかで、年齢の分からない顔。けれど今日のコートは、少しだけ薄汚れていた。


「あなたは」と湊は言った。「会議の側では、ないんですか」


「会議は、私を追い出した」と一条は言った。「名を捨てた者は、集める側にもなれない。……私は、冬吾先生の弟子のままだ」


彼は聖良のそばに歩いていった。それから、膝をついた。


「聖良」と一条は言った。「天城聖良」


十四


少女のまぶたが、少しだけ動いた。


「天城聖良」と一条はもう一度言った。それから、声を変えた。穏やかな声ではなく、教師が生徒を呼ぶ声だった。


「天城聖良。父の名を、思い出せ」


少女の目が、少しだけ開いた。琥珀色の目である。焦点が合っていない。けれど、開いた。


「……先生」と少女は言った。掠れた声だった。「先生、ですか」


「ああ」と一条は言った。「先生だ。……君の名を、呼んだのは、十八年ぶりだ」


十五


少女の目から涙が落ちた。声は出さなかった。けれど、涙だけが落ちた。


「母は」と少女は言った。「母は、どこ」


「生きている」と湊が言った。「今、朝比奈薬店にいます。……あなたの母です」


少女の目が、初めて焦点を結んだ。湊を見た。それから、ひまりを見て、一ノ瀬を見た。そして、ハルの瓶を見た。


「……あれは」と少女は言った。「父の、器」


「はい」と湊は答えた。「冬吾さんが作りかけた器です。今は、俺が預かっています」


十六


少女は立ち上がろうとした。立たなかった。膝が折れた。呼ばれたままの体は、まだ誰かの呼びかけに応えている。応え続けている。


「まだ呼ばれてる」とひまりが言った。「今も」


「会議は、止められない」と一条は言った。「呼びかけは、会議が止めるか、呼ばれた本人が切るか。……聖良は、切れなくなっている」


「切るには」と湊は訊いた。


「自分の名を、自分で呼ぶ」と一条は言った。「呼ばれた名を、自分の声で呼べば、呼びかけは切れる。……だが、聖良は、まだ、声が出ない」


十七


一ノ瀬が前に出た。


「私が呼べば」と彼女は言った。


「だめだ」と一条は言った。「他人が呼んでも、呼びかけは切れない。……聖良自身が、呼ばなければ」


「じゃあ、どうすれば」


一条は答えなかった。代わりに、少女が口を開いた。掠れた声だった。


「……朝比奈、さん」


「はい」


「あなたの、掌には」と少女は言った。「父の器がある。……父の、声も、あるでしょう」


「あります」


「それなら」と少女は言った。「父の声を、私に聞かせて。……父は、私の名を、呼んでくれたことが、一度も、なかった」


十八


湊はハルを抱えた。割れた瓶の縁が掌に食い込む。三本の糸が、瓶の中で寄り添っている。むすびと、名のない一本と、墨。三本は同じ方向へ寄っている。


湊は目を閉じた。胸の奥の声に語りかける。


――冬吾さんの声を、貸してくれ。


守り手たちが静かになった。長い静かさだった。それから、一つの声が、前に出た。ずっと奥にあった声。むすびの声だった。


『――冬吾の声は、私が知っている』

『十八年、彼と、いた』


むすびは言った。それから、初めて、長い言葉を言った。喋り方を覚えていない一本が、冬吾の声の形を借りて、言った。


『――聖良』


その声は、冬吾の声だった。


『――聖良。名を、呼べ』


少女の唇が、動いた。掠れた声で、小さく、震えながら、少女は自分の名を呼んだ。


「……天城、聖良」


呼びかけが、切れた。


十九


少女は崩れ落ちた。一ノ瀬が支えた。ひまりが外を見た。北東の空は、もう明るい。会議の脈は、止まっていた。


「切れた」とひまりが言った。


「切れた」と一条は頷いた。「……先生の声だったか」


「むすびの声です」と湊は言った。「冬吾さんの形を、借りたんです」


少女は一ノ瀬の腕の中で、少しだけ息を整えた。それから、湊を見た。


「朝比奈さん」と少女は言った。「あなたの名を、覚えた」


「はい」


「……私も、覚えられた」と少女は言った。「呼ばれていた間、私の名は、会議の中にあった。けれど、今、自分で呼べた。……だから、覚えられた」


二十


倉庫の外で、車の音がした。一台ではない。三台。扉の外に灯りが近づいてくる。


「巡回だ」とひまりが言った。「雫さんの手配だ」


「なら、聖良は保護される」と一ノ瀬は言った。「……だが、保護されても、また消えるぞ」


「消えない」と一条が言った。「今度は、名が覚えられた。……呼ばれても、切れる。それが分かった少女は、もう呼ばれない」


彼は聖良を見た。それから、湊を見た。


「朝比奈」と一条は言った。「私は、追われる側に戻る。会議に、追われる側に」


「なぜ」


「先生の器を、持っているからだ」と一条は言った。「器は、十三本を束ねる。……私は、それを、守る側に戻る」


彼は扉へ歩いていった。それから一度だけ振り返った。


「朝比奈。十三本は、まだ、五本だ」と一条は言った。「残りは、八本。……あの女が、運んだ三本は、まだ外にある。そして、あの男の手のひらに、三本。……残りは、二本。行き先の知らない二本だ」


「二本」


「手帳に書いてない」と一条は言った。「冬吾先生が、最後に隠した二本だ。……その場所を知っている者は、もう、一人しかいない」


彼は扉を出て、車の灯りの向こうへ消えた。


二十一


倉庫の外には、巡回の車が三台停まっていた。雫が先頭で歩いてきた。保護行政の職員が二名、続く。


「聖良は」と雫は言った。「保護下に戻す。ただし、面会の権利は、今日から変わる」


「変わるんですか」


「記録だ」と雫は携帯を見せた。「今朝の救出記録を、全部、ギルドの公簿に残した。……記録がある名は、消えない。あなたの母も、もう、会える」


湊は聖良に近づいた。少女はまだ一ノ瀬の腕の中にいた。けれど、自分の足で立てるようになっていた。


「朝比奈さん」と聖良は言った。「母の名を、教えて」


「……しの」と湊は言った。「あなたの母の名は、しのです」


少女の目が、大きく見開かれた。それから、ゆっくりと、繰り返した。


「……しの。しの」


二十二


倉庫を出て、三人は薬店へ戻った。戻ると、店先に祖母が立っていた。着物の女はもういなかった。


「帰ったよ」と祖母は言った。「娘が呼ばれたって聞いて、静かに帰った。……でも、糸は、ここに残っていった」


祖母は湊の掌に、包みを渡した。十二本目の糸である。四十年、誰にも呼ばれなかった糸。そして、今、自分の名を思い出した糸。


『――しの』と糸は言った。『……私の名だ』


「あの糸は」と祖母は言った。「しのっていう名を、あんたに教えてくれた。……つけてやれ。名を持たない女の代わりに」


湊は包みを開いた。白い糸が、丸くなって入っていた。けれど、今は違った。糸は少しだけ伸びて、湊の指を一周して、止まった。


「しの」と湊は呼んだ。


糸が答えた。伸びて、丸くなった。


『――しの』と糸は言った。『その名を、もらう』


二十三


その夜、居間に六人が集まった。祖父母と、湊と、ひまりと、一ノ瀬と、雫である。机の上にハルの瓶が置いてある。四本の糸が丸くなっている。むすびと、名のない一本と、墨と、しの。


「十三本のうち、四本がハルの中にいる」と湊は数えた。「ハルを除けば、十二本のうち、四本だ」


「五本は、俺たちの掌にいる」とひまりが右手を出した。「ともしびと、しおじ」


「四本が、あの男の手のひらにいる」と一ノ瀬が言った。


「一本は、戻らない」と雫は言った。「第十一本。……甲府の、望月佐吉」


「一本が、行き先の知らない二本」と湊は数えた。「冬吾さんが、最後に隠した二本。……その場所を知っている者は、一人しかいない」


「誰だ」と一ノ瀬が訊いた。


「設楽実だ」と雫は言った。「三年前、篠宮恒一に第十一本を預けた男だ。……あの男は、十三本の並びを全部知っている。知っているから、隠した二本の場所も、知っている」


「でも、あの男は、会議の側だ」とひまりが言った。


「会議の側だった」と雫は訂正した。「今朝の会議は、閉じた。……あの男は、十三本を、国策にすると言った。ならば、隠した二本を、彼は知っている。そして、会議は、その二本を、取り上げようとする」


その時、ハルの瓶が強く光った。四本の糸が同じ方向へ寄った。北東ではなく、南西だった。


『――南西』と守り手たちが言った。『隠された二本のうち、一本が、動いた』


「動いた」と湊は繰り返した。


『誰かが、それを、取った』


二十四


机の上の携帯が、鳴った。祖母が取った。二言、三言。それから、受話器を湊へ差し出した。


「もしもし」


「朝比奈さん」と男の声がした。落ち着いていて、どこか疲れている声だった。「戸塚です。保護行政の。……聖良は、無事に保護されました。今、施設に戻っています」


「よかった」


「それと、一つだけ」と戸塚は言った。「今朝、施設の倉庫から、一つの包みが、消えました。十八年前、冬吾さんが遺した、資料の包みです。鍵は、外から開けて、中から閉められていた」


「誰が」


「分かりません」と戸塚は言った。「ただ、倉庫の床に、白い紙が一枚残されていた。……印は、押されていない」


紙には、一行だけ書いてあった。


『十三本は、全部、集める』


湊は受話器を握ったまま、机の上のハルを見た。四本の糸が、丸くなって寄り添っている。けれど、その光は、少しだけ弱っていた。


会議が、動き出した。


——第六十一話「動いた二本と、集める会議」へ続く。

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