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ダンジョン薬師の隠し秘術 〜世界初の錬金術師になった内気な僕は、正体を隠して最強へ至る〜  作者: 障子


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第五十九話 冬吾の妻と、四十年の一本

祖母は門の前に立ったまま動かなかった。女は着物の袖の内で包みを持ち直している。五十くらい。背筋はまっすぐで、しわひとつない。けれど足元の霜を踏んだ跡がなくて、湊は気づいた。歩いて来たのではない。音もなく来たのだ。


「さっきも」と祖母は言った。「同じ台詞の男が来たよ。薬草を少し分けてもらえますか、と」


女は少しだけ目を伏せた。「知っています」


「知ってる、というのは」


「あの人と、同じ言い方をしたのは」と女は言った。「私の言い方だからです。あの人は、私の言い方で頼む人だった」


雫が祖母の前に出た。「待って。中に入れる前に名を名乗ってほしい」


女は口を開いた。声が出なかった。もう一度開いた。それでも出なかった。


「……言えない」と女は言った。「名を、持っていないんです」


二


書斎に通された。畳の上に巌が座ったままで、恒一が障子の脇に立っている。ひまりが女の向かいに座り、雫が横に、一ノ瀬が扉の内側に立った。湊はハルの瓶を腹の前に抱えた。


「名を持たない」と恒一が言った。「……消したのか」


「消しました」と女は答えた。「十八年前に」


「自分で」


「自分で」


部屋が静かになった。巌が初めて女をまっすぐに見た。


「消した名は戻らんぞ」老人は言った。「わしは四十年、名をつけずに過ごした。……つけなかったのと、消したのとでは、重さが違う」


「重さは知っています」と女は言った。「それでも、消すしかなかった」


三


女は包みを机の上に置いた。包みを開く。白い糸が一本、丸くなって入っていた。脈を打っていない。むすびのように光ってもいない。ただ、そこにある。


湊は胸の奥の声を聞いた。


『――十二本目だ』


「十二本目」と湊は繰り返した。


『そうだ』『冬吾の十三本のうちの一本』『だが、預け先の欄が消えている』


ひまりが台帳を出して第十二本の行を開いた。欄には消し跡があった。墨で書いた文字を、湿った布で拭った跡である。その跡の隣に、書き足された字が一行だけある。


『第十二本・預けた。内緒だ』


「あの人の字です」と女は言った。「内緒だと書いた。……正しくは逆です。あの人は私に内緒で預けたのではない。私が、内緒で預かった」


四


「十八年前」と女は話し始めた。「研究が危険だと決まった時、私たちは別れることにした。あの人は残って器を作り続ける。私は一本を持って消える。……そうすれば、十三本の地図は、あの人しか描けなくなる。私が消えれば、地図は一枚で済む」


「消える、というのは」


「国には死んだことにしてもらった」と女は言った。「戸籍も、生存記録も、全部。十八年前に、私は死んだ」


雫が顔を上げた。「保護行政の記録に……天城聖良さんの母は、十八年前に他界した。そうなっている」


「ええ」


「あなたは」


「聖良の母です」と女は言った。声は静かだった。けれど、その一言で部屋の空気が変わった。ひまりが息を呑み、恒一が障子の脇で背を伸ばした。


「聖良は」と女は続けた。「母が死んだと、聞いて育った。……本当は、生きている。十八年、生きている」


五


「なぜ名を消したんですか」と湊は訊いた。


「私が繋ぎ役だったからです」と女は言った。「冬吾は一本ずつ預けた。けれど預け先同士は、互いを知らない。誰がどこにいるのかも知らない。……そこを繋いだのが、私だ」


「繋いだ、とは」


「私は一本ずつ、預け先を回った」と女は言った。「十三本のうち、三本は私が運んだ。昭和の終わり、私は青森の港へ行った。札幌の病院へ行った。……そして、危険を伝える方法を作った」


女は右手を出した。掌を上にして。点はなかった。けれど指先が少しだけ動いた。脈を打つ真似である。


「点を、脈で打ち合わせる」と女は言った。「名を呼ばずに、危険だけを伝える。名を呼べば相手が器になる。だから呼ばない。脈だけで繋がる輪。……それが、会議のはじまりです」


六


湊の背筋が寒くなった。名のない会議。点で開く会議。名を持たない者たちの輪。その始まりを作ったのが、目の前の女だった。


「その輪が」と湊は言った。「変わったんですか」


「変わりました」と女は答えた。「十年ほど前からだと思う。国の人が輪に入り込んだ。脈の打ち方を覚えた。……輪は守るために作ったのに、いつからか、集める輪になった。集めた者が、輪の主になった」


「集めた者というのは」


「名は言えません」と女は言った。「私の知っている名は、十八年前までの名です。今の彼らは、別の名かもしれない」


七


「昨日の夜」と女は言った。「点が三つ、揃った。会議が開いた。……議題を聞いた。あなたの名を消す、と」


「消す、というのは」と湊は訊いた。「殺す、ということですか」


「殺さない」と女は首を振った。「もっと静かです。名を消された者は、誰にも呼ばれなくなる。呼ばれない者は、だんだん、輪から薄くなる。記録からも、記憶からも。……気づいた時には、誰もあなたの名を思い出せない」


「では、どうすれば」


「二つあります」と女は言った。「呼ぶ者がいること。それと、記録に残っていること。名は、呼ぶ者と記録があれば消えない。……昨日の朝、あなたの名を呼んだ人は、記録する人でしょう」


雫が顔を上げた。「屋上で、私が呼んだ……あれが効いたのは」


「そのためです」と女は頷いた。「記録は、名を持たない。だから名を消す輪は、記録を消せない。……記録が、名を守る」


八


四人と女は篠宮家を出て、薬店へ戻った。祖父は店先で待っていた。帳簿を開いたまま。女を見て、祖父はしばらく動かなかった。


「……四十年前」と祖父は言った。「店に来た男がいた。青葉草を、季節が変わるたびに買いに来た。名は、天城といった」


「夫です」と女は言った。


「あの糸は」と祖父は帳簿を閉じた。「うちの薬草で、作られていたのか」


「ええ」と女は言った。「十三本、全部。あの人は、うちの青葉草でしか糸を造れなかった。だから、季節が変わるたびに来た。……あなたの店の匂いを、あの糸は全部覚えている」


九


その言葉が終わる前に、包みの中の糸が動いた。


丸まったままの糸が、少しだけ伸びた。包みの上からでも分かる、わずかな伸びだった。四十年間、一度も動かなかった糸が、初めて動いた。


『――動いた』と守り手たちが言った。


「なぜ」


『匂いだ』『この店の匂いを、あの一本は覚えている』『作られた場所の匂いだ』


十


女は包みを湊の前に置いた。


「持っていってほしい」と彼女は言った。「名をつけて、預かってほしい。……ただし、一つだけ約束して」


「なんですか」


「この糸たちを、戦いに使わないと約束して」と女は言った。「十三本は、治すために作られた。回復魔法の代わりに、治すために。聖良を守るために。……それ以外に使わないと」


「約束します」と湊は言った。


「軽いな」


「重いです」と湊は言った。「五本、抱えています。重さは、知っています」


女は初めて笑った。疲れた、けれど年月を経た、柔らかい笑いだった。


「……そう」


「それと、一つ」と湊は言った。「この糸の名を、つけたいんです。けれど、呼ぶ者が要る。あなたが呼びたい名が、あれば」


女は黙った。長く黙った。それから首を振った。


「あの人は、私を名で呼ばなかった」と女は言った。「呼べば、私が器になると知っていたから。……だから、ない。名は、ない」


十一


その時、包みの中の糸が、また動いた。


今度は伸びただけではなかった。包みから滑り出て、湊の指先に触れた。細くて、軽くて、四十年の重みを感じさせない糸だった。それは湊の指を一周して、それから、止まった。


そして、声を出した。四十年、誰にも呼ばれず、誰の名も知らなかった糸が、初めて声を出した。


『――しの』


女の顔が凍った。


「……いま」と女は言った。「いま、何と言った」


『しの』と糸はもう一度言った。『あなたの名だ』『あの人が、呼んでいた』


女は立ち上がらなかった。座ったまま、両手で口元を押さえた。消したはずの名。思い出せないはずの名。それが、自分が四十年抱えていた糸の中に、残っていた。


「……しずかに」と祖母が言った。「思い出すには、時間が要る」


十二


雫の携帯が鳴った。鳴り方いつもと違う。緊急の着信だった。彼女は出て、二言、三言聞いて、それから顔を上げた。


「戸塚玲子からだ」と雫は言った。声が低かった。


「なにか」


「保護施設からだ」と雫は言った。「今朝、点呼の時間に、天城聖良が部屋にいなかった。……窓は内側から施錠されていて、部屋の中には誰もいない。ただ」


雫はそこで一度、口を閉じた。


「ただ、机の上に、白い紙が一枚残されていた。……印は、押されていない」


女が立ち上がった。十八年、聖良に会えずに生きてきた女が、初めて声を荒らげた。


「聖良が、消えた」


包みの上で、糸が強く光った。そして、方角を示すように、まっすぐに伸びた。


『――知っている』と糸は言った。『聖良の、いる場所』


——第六十話「消えた聖良と、名を思い出した糸」へ続く。

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