第五十八話 十一本目の返事と、ハルの声
書斎の空気が止まった。むすびの声が消えたあと、ハルの中の暗い糸がまた動いた。光りはしない。ただ丸まり方が変わる。それは返事の形だった。
『あたしが、返事をする』
湊は瓶を机に置いた。三本の糸が並んでいる。むすびと名のない一本と、十一本目。光っているのは二本だけだ。
「返事をする、とは」と湊は訊いた。
『呼んでいる糸に答える』と守り手たちが言った。『呼ぶ者はいない。だが呼ばれる先は、まだある』
二
「呼ばれる先」とひまりが繰り返した。
『甲府だ』と守り手たちは言った。『望月佐吉の家だった場所だ』『糸は十年、そこへ帰ろうとしてきた』『帰る場所が消えても、方向だけは残る』
巌が低い声で言った。「灯りの消えた糸には、方向があるのか」
『ある』『それが名だ』『名は場所を作る。預け先が死んでも名が残る』
三
雫は台帳の第十一本の行をもう一度読んだ。『第十一本 預け先 甲府 望月佐吉』。左官。十年前に死んだ。
「冬吾さんは知らない」と雫は言った。「だからこの一本は預け先がないまま、十三年、あの硯箱にいた」
「硯箱にいたのか」と湊は訊いた。
「そうだ」と恒一は答えた。「私は三年前、これを箱から出して掌に乗せた。三年、そこにあった。……あの男に預かったと言われたが、正しくはあの男が箱から出した」
「あの男は甲府の糸を知っていたのか」
「知っていた」と恒一は言った。「十三本の並びを全部知っていた。……知っていたから、行き先のない一本をうちへ持ってきた」
四
巌が右手を見た。四十年握った手である。今は自由に動く。けれど老人は右手を膝に置いたままだった。
「恒一」と巌は言った。「あの男が箱の糸を取って、お前に渡した時。……お前は、なぜ受け取った」
「知らなかったからです」と恒一は答えた。「何なのか、どこから来たのか、全部知らないまま受け取った。……後悔しています」
「後悔か」
「後悔です」と恒一は言った。「一本を抱える重さを、知らずに引き受けた」
五
『重さの話は後にして』とむすびが言った。喋り方を覚えていない声である。それでも短い言葉なら通じる。『十一本目が呼んでいる』
湊は瓶を覗き込んだ。十一本目の糸は丸まったままで、ただ方向だけが変わっている。甲府の方角へ。硯箱があった机の引き出しの方へ。
「あの糸は、どこへ向かって呼んでいるんですか」
『預け先の名だ』と守り手たちが言った。『望月佐吉』『十年前、死んだ男の名だ』『死んだ名は呼ばれても返事をしない』
「返事をする先がない、と」
『そうだ』『だからあの糸は灯りを消した』
六
「でも、むすびは返事をします」と湊は言った。
『むすびは別だ』と守り手たちは言った。『むすびは十八年、行き場のないまま残った。それでも呼ぶ者がいた。お前だ』
「返事をするには、呼ぶ者が要るのか」
『要る』『名をつけた者が呼ぶ。呼ばれた糸が答える』『それが冬吾の決まりだ』
七
その時、ひまりが一歩前に出た。
「私が呼ぶ」とひまりは言った。
「ひまりさん」
「ともしびは、うちの家の灯りだ」とひまりは右手を出した。掌の点が熱い。「第十一本は、うちに十三年、硯箱で眠っていた。……うちの家の者に、呼ばれる資格がある」
巌は長いこと黙っていた。それから右手を上げて、畳に手をついた。
「ひまり。その一本に名をつけるのか」
「つけます」とひまりは言った。「呼ばれても答えられない名は、ない方がいい。……だから、答えられる名をつける」
八
「名は」と湊は訊いた。
ひまりはしばらく考えた。机の上の硯箱を見た。黒漆が磨り減っている。四十年、書斎に置かれていた。書道の家の硯である。
「墨」とひまりは言った。……四十年、硯の下で眠っていた糸。墨は書を残す。書いたものは人の目に残る。消えるものじゃない。
「墨」とひまりはもう一度言った。「十一本目の名は、墨です」
九
その瞬間、ハルの中の暗い糸が動いた。
丸まり方が変わった。けれど光は出なかった。灯りはまだ戻らない。それでも方向が変わった。硯箱の方角ではなく、ひまりの右手の方へ。
『――入った』と守り手たちが言った。『名が入った』
「返事は」と湊は訊く。
『まだだ』『返事は呼ぶ者が、もう一度呼んで初めて返る』
ひまりは右手を出して、声に出した。
「墨」
十
十一本目が返事をした。
光りは出ない。けれど動いた。丸まった糸が少しだけ伸びて、また丸くなった。それは返事の形だった。灯りの消えた糸の、初めての返事だった。
『――墨』と十一本目が言った。声はまだ低かった。
『その名は、もらう』
『だが、私は甲府へ帰れない』
『帰る場所はないからだ』
「帰れないなら」と湊は言った。「ハルにいるといい。名前はつけた。あとは預け先を決めるだけです」
『預け先』と十一本目は言った。『お前か』
「俺です」と湊は答えた。
『重いか』
「重いです」と湊は正直に言った。
『……そうか』と十一本目は言った。それから少しだけ光った。灯りを取り戻したわけではない。けれど、少しだけ明るくなった。
『十年、呼ばれなかった』
『呼ばれるのは、悪くない』
十一
巌はそれを見ていた。老人の目に光が戻っていた。
「冬吾」と巌は天井に向かって言った。「お前の糸は、うちの硯で十年寝ていた。……ようやく起きたぞ」
「祖父さん」とひまりは言った。「あの糸、うちに置いてください。……湊くんの五本目じゃなくて、私の二本目に」
「ひまり」
「だめです」とひまりは首を振った。「墨はうちの硯から出た。うちの家の名だ。……私が抱える」
巌は長いこと黙っていた。それからゆっくりと首を振った。
「だめだ」と巌は言った。
「どうして」
「名をつけた者は、次を持つ。それはうちの習いだ」と巌は言った。「だが、墨の預け先は、うちじゃない。……冬吾の決まりだ。十三本は同じ家に二本、置かない」
ひまりは言葉を失った。掌の点が強く光った。
「では、どうする」
「冬吾の決まりに従う」と巌は言った。「墨は、朝比奈へ行く」
十二
湊はハルの瓶を出した。三本の糸が並んでいる。むすびと名のない一本と、墨。名のない一本がむすびに寄りかかっている。墨だけが少し離れて丸くなっている。
「墨」と湊は呼んだ。
糸が答えた。伸びて、丸くなった。
「……これで、五本だ」と湊は言った。「ハル、むすび、墨。それから、ともしびと、しおじ」
十三
その時、書斎の障子の外に影が立った。庄司が障子の外で声を落とした。
「ひまりお嬢様。門の前に、お客が」
「誰だ」
「一人です」と庄司は答えた。「女の方で、五十くらい。……ギルドの、査定官だそうです。でも御子柴さんではありません」
雫が立ち上がった。顔が変わっていた。
「査定部は私だけだ」と彼女は言った。「ギルドの査定官を名乗る女が他にいるなら、それは査定官じゃない」
「誰なんですか」と湊は訊いた。
雫は答えなかった。代わりに祖母が、湯呑みを一つ持って、店先へ出ていった。
十四
祖母は門を開けた。門の前に女が立っていた。五十くらい。着物を着ている。手に小さな包みを持っている。
「朝比奈薬店」と女は言った。「薬草を、少し分けてもらえますか」
祖母は女の顔を見た。それから長いこと黙っていた。
「……あんた」と祖母は言った。「その顔、知ってるね」
湊は店先から出た。女は湊を見た。そして初めて、名を名乗った。
「天城冬吾の、妻です」
包みを差し出した。包みの中に白い糸が一本、丸くなって入っていた。四十年、妻の名で預けられた、第三本の糸だった。
「柏木志乃のものではない」と女は言った。「私のです。……四十年、名をつけずに、ただ持っていました」
——第五十九話「冬吾の妻と、四十年の一本」へ続く。




