第六十二話 六本目の名と、来たる会議
一条は居間の畳に座り込んだまま動けなかった。左の肩を押さえた手が、血で濡れている。祖母が薬箱を持ち出し、祖父が布と水を持ってきた。
「動くな」と祖父が言った。「肩を見せろ」
「薬は、いらない」
「うちの薬だ」と祖母は言った。「うちの薬は、選ばない。……着ろ」
コートが剥がれた。肩の肉が裂けている。切り傷ではなかった。引かれた跡だった。皮膚の上を、白い線が三本、走っている。
「引き寄せの跡だ」と女が静かに言った。「会議が、彼から糸を引いたんだ」
二
包帯を巻きながら、一条は話した。
「昨夜、会議が開いた」と彼は言った。「私は、追い出された。追い出されると同時に、引かれた。……手のひらの糸が、二本、向こうへ戻った」
「戻ったのか」
「戻された」と一条は言った。「名を持たない糸は、引き寄せられる。会議は、私より強く引いた。……ただ、一本だけ、戻らなかった」
「どれだ」
「志乃さんの一本だ」と一条は言った。「てあて。……名を持っていた。名を持つ糸は、呼ぶ者の許可なく動けない。会議にも、引けなかった」
三
祖父が包帯を結んだ。祖母が茶を淹れた。一条は両手で湯呑みを包み、それから机の上の包みを見た。
「開けてください」と彼は言った。「中身を、見せる」
包みは泥に汚れていた。それでも結び目は丁寧だった。ひまりが結びを解いた。中に布が一枚。布を開くと、白い糸が一本、丸くなって入っていた。
脈を打っていない。光ってもいない。眠っているのではない。ただ、静かだった。
『――静かい』と守り手たちが言った。
「なぜ」
『あの一本は、誰のものでもなかったからだ』『冬吾が最初に作った一本だ』『誰にも預けなかった』
四
「最初の一本」と湊は繰り返した。
『そうだ』『冬吾は、まず一本を作った。それが、これだ』『十三本の、ひな形だ』『あとの十二本は、これを写して作られた』
「それを、なぜ隠したんですか」
『写しの元を、残しておけば、写しはまた作れる』『だから隠した』『だが、それだけではない』
守り手たちは少し黙ってから、言った。
『あの一本には、名がある』
「名がある? 名を持たない糸だと」
『持っていないのではない』『呼ばれていないのだ』『冬吾は、あの一本に、名をつけてやれなかった』
五
「なぜですか」と湊は訊いた。
『つける相手が、いなかったからだ』『冬吾は、最初の弟子に、渡すつもりだった』『弟子は、名を捨てた』『名を捨てた者に、糸は渡せない』『だから、冬吾は、あの一本を眠らせず、ただ置いた』
一条の湯呑みが、少しだけ揺れた。
「……先生は」と彼は言った。「私のために、残していたのか」
『そうだ』『十八年前、冬吾は、言っていた。あいつが名を取り戻す日には、これを渡す、と』
六
一条は湯呑みを置いた。両手を膝に置いて、長く黙った。
「名を、取り戻せない」と彼は言った。「捨てた名は、戻らない。私は、そう学んだ」
『学び方が、違う』と守り手たちが言った。『名を捨てる者が、自分で捨てた場合、名は消える』『だが、冬吾が、その名を、憶えていた場合、消えない』
「憶えていた?」
『冬吾は、弟子の名を、覚えていた』『憶えていた名は、死なない』『そして、あの一本は、その名を、憶えている』
七
机の上で、糸が動いた。
丸くなっていた糸が、少しだけ伸びた。一条の方へ。けれど触れたまま止まらず、指先を一周して、掌の真ん中で止まった。
そして、声を出した。
『――あかつき』
一条の肩が、震えた。
『あかつき』と糸はもう一度言った。『あなたの名だ』『あの人が、呼んでいた』
八
「……あかつき」とひまりが小さく復唱した。
「弟子時代の、名です」と一条は言った。声が掠れていた。「冬吾先生は、私を、そう呼んだ。……暁に出る研究者だったからだ。夜を徹して働いて、朝一番に結果を出す。……先生は、それを、笑っていた」
「捨てた名が」と女が言った。「残っていた」
『残っていた』と守り手たちが言った。『冬吾が憶えていた名は、死なない』『あの一本が、十八年、憶え続けていた』
九
一条は自分の掌を見た。糸はまだ掌の真ん中で止まっている。脈を打っていない。けれど、待っている。
「渡せない」と彼は言った。
「どうして」と湊が訊いた。
「名を受け取れば、私は器になる」と一条は言った。「器は、会議に狙われる。今夜、ここへ来る。……私が器になれば、この店は、もう一つ、狙われる場所になる」
「すでに狙われてる」と一ノ瀬が言った。「もう、いくつ狙われても同じだろ」
「違う」と一条は言った。「器の数が増えると、会議の引き寄せは、強くなる。線が、二本になる」
十
その時、むすびが言った。喋り方を覚えていない声だった。
『――ちがう』
「むすび?」
『ちがう』とむすびは言った。『器は、一つだ』『ハルが、器だ』『あの糸は、器を作るための、ひな形じゃない』『あの糸は、最初の、守り手だ』
十一
居間が静かになった。
『そうだ』と守り手たちが言った。『冬吾は、まず、守り手を一本作った』『それが、ひな形だ』『あの一本は、十三本の、最初だ』『そして、あの一本は、弟子のために作られた』
「弟子のために」と湊は繰り返した。
『あかつきは、回復魔法使いではない』『けれど、冬吾は、あの男に、一本を渡したかった』『回復魔法の代わりを、あの男に、持たせたかった』
十二
「なぜ、私に」と一条は言った。声が震えていた。「私は、回復魔法を使えない。治せない。……先生の研究に、何も貢献できなかった」
『あんたは、先生のそばにいた』とむすびは言った。『先生が死んだ夜、あんたは、そばにいた』『それで、いい』
十三
女が口を開いた。
「受けなさい」と彼女は言った。
「できない」
「あの人が、十八年、待っていたのよ」と女は言った。「あなたが名を捨てたあと、あの人は、研究を続けながら、ずっと言っていた。あいつが戻ったら、渡す、と。……私は、それを、十八年、聞いてきた」
一条は黙った。
「受けなさい」と女はもう一度言った。「そして、あの糸に名をつけなさい。あなたが、つけるんだ」
十四
一条は長く黙っていた。それから、掌を上に向けた。糸はまだ掌の真ん中で止まっている。
「名は」と彼は言った。「なんと」
『あんたが、決める』と守り手たちが言った。
一条は考えた。机の上の壺を見た。眠った種を見た。ハルの瓶を見た。四本の糸が寄り添っている瓶を見た。
「――はじめ」と彼は言った。「最初の一本。……そう、呼ぶ」
十五
糸が動いた。伸びて、丸くなって、また伸びた。返事の形だった。
『――はじめ』と糸は言った。『その名を、もらう』
湊は両手を糸の上にかざした。白い光が指先から伸びる。細い糸が、一条の掌の真ん中で、結ばれた。
『結べ』と守り手たちが言った。『十八年の、端を』
「――はじめ」と湊は呼んだ。
糸が一条の掌に吸い込まれていった。皮膚の下を白い光が走り、手首へ、腕へ。一条は歯を食いしばった。声は出さなかった。
光が止まった。一条の右手の掌の真ん中に、小さな白い点が一つ、残った。
十六
「……重い」と一条は言った。「十八年分の、重さだ」
「慣れます」と湊は言った。
「慣れるものか」と一条は笑った。泣いているのに、笑った。「……先生。もらったぞ」
その時、一条の肩の傷が、少しだけ薄くなった。引かれた白い線が、二本、消えた。一本だけが残った。
「傷が」とひまりが言った。
『はじめが、治している』と守り手たちが言った。『守り手は、宿主を、守る』
十七
その夜、九時前。雫が戻ってきた。ギルドで巡回の配置を終えてきたのだ。
「南西は静かだ」と彼女は言った。「だが、静かすぎる。……巡回が三組、入れ替わっても、誰も通らなかった。昨夜のこの時間は、四人通った」
「来る」と祖父が言った。「戸を閉めろ」
「閉めません」と祖父は自分で言った。「閉めても無駄だ。……開けておく。うちの戸は、開けておくのが流儀だ」
十八
九時ちょうど。灯りが揺れた。
一度だけ。火鉢の火が低くなって、また戻った。
女が立ち上がった。右手を胸の前に置いた。
「五つ。……いや」と彼女は言った。声が変わった。「七つだ。点が、七つ」
「七つ」と雫が訊いた。
「戻された二本が、点になった」と女は言った。「会議は、七つの勢力になった。……七本で、引き寄せる」
十九
七つの脈が、遠くから返ってきた。一拍、また一拍。机の上のハルが鳴った。割れた瓶が、机の上でがらりと動いた。
「呼べ」と祖父が言った。
六人が掌を出した。湊が最初に呼んだ。
「湊」
「ともしび」とひまりが呼んだ。
「しおじ」と一ノ瀬が呼んだ。
「むすび。墨。しの」と湊は瓶に向かって呼んだ。
「てあて」と一条が呼んだ。
六つの名が、重なった。居間の空気が、一度だけ強くなって、それから静かになった。引き寄せの線が、六本とも途切れた。
『――防いだ』と守り手たちが言った。『だが』
「だが?」
『七本目の線が、残っている』
二十
七本目の線は、途切れなかった。細く、どこからともなく、居間の床を這ってくる。
女が顔を上げた。「七本目は、点じゃない」
「じゃあ、なんだ」
「点は、六つだった」と女は言った。「七本目の線は……種だ」
全員が机の上の壺を見た。素焼きの壺。布で塞がれた口。二十年、火にも水にも触れずに眠っていた種。
壺が、鳴った。
がらり。布の口が、内側から押された。
『――種が』とむすびが言った。喋り方を覚えていない声だった。
『――目を、覚ました』
二十一
壺の口の布が、ずれた。中の糸が、丸まり方を変えている。眠った丸まり方ではなく、起きている丸まり方だった。そして、脈を打ち始めた。遅い、重い脈だった。
『――会議が、種を見つけた』と守り手たちが言った。『七本目の線は、種を引く線だ』
「起こしてはいけないと言ったのは」と湊が言った。「お前たちだろう」
『起こしたのは、会議だ』『遠くから、引き寄せた』『種は、名を持たない』『だから、引かれる』
二十二
「どうすれば」とひまりが言った。
「種を、名で守る」と女が言った。「名をつけられた糸は、呼ぶ者の許可なく動けない。……種に、名をつける」
「種の名は」と祖父が訊いた。「誰が、つける」
女は湊を見た。「あなたでしょう」
「俺が、つけたら、俺の六本目になる」と湊は言った。「……それで、いいんですか。種を、抱えるのは」
「抱えられるなら、抱えなさい」と女は言った。「ほかに、抱えられる者は、いない」
二十三
壺の脈が、速くなった。引き寄せの線が、強くなっている。
「急いで」と祖母が言った。
湊は壺の口に手を入れた。眠っていた糸は、冷たかった。けれど、今は、熱い。引き寄せられる側の熱だった。
湊は糸を掌に載せた。そして、考えた。名を。種の名を。
「――たね、じゃ、だめだな」と祖父が言った。
「だめです」と湊は言った。それから、ひらめいた。「……あの夜、冬吾さんが、店に置いていった言葉。『壊さず、洗わず、火にかけず。ただ、置いておいてくれ』」
「そうだった」
「置いておく、というのは」と湊は言った。「待つ、ということです。……二十年、待った種だ」
二十四
「――まつ」と湊は呼んだ。
糸が答えた。伸びて、丸くなって、また伸びた。
『――まつ』と種が言った。声は低くて、重かった。二十年眠っていた声だった。
『その名は、もらう』
湊は両手で糸を包み、胸の奥の光に結ばせた。白い光が指先から伸び、糸の端を結ぶ。
『結べ』と守り手たちが言った。『二十年の、端を』
「――まつ」と湊はもう一度呼んだ。
糸が湊の掌に吸い込まれていった。皮膚の下を白い光が走り、手首へ、腕へ。重かった。二十年分の重さだった。湊は膝をついた。けれど、声は出さなかった。
二十五
光が止まった。湊の右手の掌の真ん中に、小さな白い点が一つ、残った。
七本目の線が、途切れた。
『――切れた』と守り手たちが言った。『種は、名を得た』『引き寄せられない』
壺は、静かになった。種は、もう壺にいない。湊の腕の中にいる。
「これで」と一ノ瀬は数えた。「掌に、四本。ともしび、しおじ、てあて、まつ。瓶に、四本。むすび、名のない一本、墨、しの」
「八本だ」と湊は言った。「会議に戻った二本。あの男が、隠していた場所を、まだ知らない一本。……それと、十一本目の甲府の一本」
「十一本目は」とひまりが言った。「甲府に、戻れない。……どこに、ある」
「ハルの中だ」と湊は言った。「……いや」
その時、ハルの中の暗い糸が動いた。十一本目の糸が、方向を変えた。甲府の方角ではなく、店の中。玄関の方角へ。
『――玄関に、糸がある』とむすびが言った。
『――帰ってきた糸が、いる』
二十六
店先の戸が、鳴った。
三回。静かな音だった。
「誰だ」と祖父が言った。
「開けます」と祖母が言った。祖父が止める間もなく、祖母は戸を開けた。
戸口に、人が立っていた。着物の女だった。しの……ではない。違う女だった。五十くらいで、髪を短く切り、手に何も持っていない。
「朝比奈薬店」と女は言った。「……薬を、分けてもらえますか」
その声を、湊は知っていた。ギルドの保護室で、一度だけ聞いた声だった。
「柏木……志乃さん?」
女は首を振った。
「志乃は、施設にいる」と女は言った。「私は、志乃の、妹です。……姉から、預かったものがある」
女は右手を出した。掌の真ん中に、白い点が一つあった。
「今朝、姉の手のひらから、消えました」と女は言った。「そして、私の手に、現れた。……姉は、言いました。『朝比奈薬店へ、持っていけ』と」
『――九本目だ』と守り手たちが言った。
『――十三本のうち、九本が、この店に、集まってきた』
その時、店の外の通りで、灯りが消えた。
一つ、また一つ。街灯が、順に、消えていった。
『――来た』とむすびが言った。
『――会議が、来た』
――第六十三話「九本の糸と、消えた街灯」へ続く。




