第六話 救助、黒濁スライム、そして初めての決断
「……た、す……け……」
かすれた声だった。
けれど聞き間違いじゃない。間違いなく、人の声だ。
一ノ瀬さんが槍を握る手に力を込める。
御子柴さんはすぐに片手を上げて、僕たちをその場で止めた。
「先に状況確認。飛び込まないで」
声は小さいのに、有無を言わせない強さがある。
僕たちは息を潜めたまま、小部屋の奥を見つめる。
薄暗い空間の先に、さらに細い通路が伸びていた。声はその向こうから聞こえてくるらしい。床には黒ずんだ粘液が帯のように続いている。さっき見た黒い大柄の牙兎だけじゃない。この先に、異変の中心がある。
「朝比奈くん」
「は、はい」
「治療液と中和液、すぐ出せる位置に」
「うん」
僕は革袋の口を緩め、指が届く位置に瓶を並べ直す。
心臓がうるさい。怖い。だけど今ここで震えているだけじゃ駄目だ。
「一ノ瀬さん、先頭は私が見る。あなたは二番手。敵影が出たら迎撃じゃなく、まず足止めを意識」
「了解」
「朝比奈くんは三番手。絶対に孤立しないこと。いいわね?」
「……はい」
御子柴さんは最後に一度だけ僕の目を見た。
それだけで少しだけ落ち着く。今は考えるより、やることをやるしかない。
僕たちはゆっくりと奥の通路へ進んだ。
石壁の隙間から湿った空気が流れてくる。
鉄臭さ。腐った水みたいな匂い。
そして、何かが這いずる、ぬめった音。
数歩進んだ先で、通路は少し開けた空間に繋がっていた。そこを覗き込んだ瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
「……っ」
壁際に、若い男性探索者が一人、座り込むように倒れていた。
足を負傷している。太腿のあたりから血が滲み、片腕には黒い粘液がまとわりついていた。顔色は悪く、意識も飛びかけているように見える。
そして、その前。
部屋の中央で、黒く濁った巨大なスライムがうごめいていた。
普通のスライムの倍以上はある。半透明ではない。泥水みたいに濁った体内で、何か赤黒い筋が脈打っている。表面はぶくぶくと泡立ち、ときおり酸のような液を床へ垂らしていた。
「黒濁スライム?」
一ノ瀬さんが小声で呟く。
「知ってるの?」
僕が尋ねると、彼女は嫌そうに顔をしかめた。
「上の階層に出ることがある変異種って授業で少しだけ。普通のスライムより粘性も毒性も高くて、装備を溶かすこともあるって」
「浅層にいていい相手じゃないわね」
御子柴さんの声も硬い。
その時、負傷した探索者がかすかに顔を上げた。
「だ、れ……」
「静かに」
御子柴さんが短く制する。
だがその声に反応したのか、黒濁スライムの表面がぶるりと揺れた。
「来るわ!」
次の瞬間、黒濁スライムの体表から黒い塊が弾けるように飛んだ。
「粘液弾!」
一ノ瀬さんが前へ出る。槍の柄で受け流したが、石畳へ落ちた粘液がじゅっと煙を上げた。
「うわ、腐食っ!?」
「まともに触らない!」
御子柴さんが叫ぶ。
黒濁スライムがずるりと前進する。速くはない。けれど通路を塞ぐには十分な巨体だった。しかも表面からじわじわと黒い粘液が広がっていて、近づき方を誤れば足を取られる。
「朝比奈くん、足止めできる!?」
「粘着液は――たぶん効くけど、相手が大すぎる!」
「十分よ、まず動きを鈍らせて!」
「やってみる!」
僕は透明瓶を取り出し、狙いを定めた。
怖い。外したら……。
黒濁スライムがまた体を震わせる。
「今!」
瓶を投げる。
粘着液はスライムの進路前方へ叩きつけられ、床一面へ広がった。次の瞬間、黒濁スライムの外縁がそれに乗り、ぬるりとした動きが目に見えて鈍くなる。
「効いた!」
「完全には止まらないけど十分!」
一ノ瀬さんが横へ回り込むように動く。
だが槍先を向けながらも、すぐには踏み込まない。相手の粘液が危険すぎる。
「核、見える?」
「濁ってて分かりにくいわ」
御子柴さんが素早く観察する。
「中央やや上、赤黒く脈打ってる部分が怪しい。でも表層が厚い」
普通のスライムなら突けば終わる。
でもこいつは違う。雑に刺せば槍が腐食するかもしれない。
黒濁スライムが低く泡立ちながら、今度は床に粘液を撒き散らした。
退路側へまで黒いしみが伸びていく。
「まずい、足場がなくなる!」
一ノ瀬さんが舌打ちした。
「朝比奈くん、煙は!?」
「刺激煙はたぶん――」
言いかけて、はっとする。
煙。刺激。粘液。
頭の奥で、《錬金術》の感覚がざわりと反応した。
「……待って。もしかしたら」
「何か思いついたの?」
御子柴さんの問いに、僕は革袋を探る。昨夜の試作で残した小粒の刺激煙と、中和液の小瓶。それに、採取途中で拾った青葉草の切れ端。
「刺激煙だけだと、あれの表面を乱せるだけかもしれない。でも――中和液と混ぜたら、粘液の性質を崩せるかも」
「即興で?」
「わからない。でも、感覚がそう言ってる」
一ノ瀬さんがちらりと黒濁スライムを見る。
相手は粘着液に動きを削られつつも、じわじわこちらへ迫ってきていた。時間はない。
「やるなら今しかないよ!」
「……朝比奈くん、できる?」
御子柴さんの声は落ち着いていた。
でもそれは丸投げじゃない。失敗した時の危険も含めて、僕に選ばせている。
僕は黒濁スライムを見る。
壁際の負傷者はもうほとんど動けない。
ここで撤退すれば、たぶんあの人は助からない。
胸の奥が、冷たく、熱く、きつく締まる。
「……やる」
「分かった。十秒作るわ」
御子柴さんが即断する。
「一ノ瀬さん、牽制!」
「任せて!」
一ノ瀬さんが前へ踏み込み、槍を石床すれすれに滑らせるように突き出した。狙いは核じゃない。黒濁スライムの表面を削り、注意をこちらへ向けるための一撃だ。粘液が飛び散る。槍の穂先がじゅっと音を立てた。
「ほんとに腐食する!」
「無理に深追いしないで!」
その声を背に、僕はしゃがみ込む。
革袋の中で小皿代わりの金属蓋を取り出し、刺激煙の粒を砕く。そこへ中和液を数滴。青葉草を指先で潰して混ぜ込む。普通ならこんな雑な調合はありえない。けれど今は、手順がはっきり見えていた。
――混ぜろ。
――刺激性を散らさず、粘液だけを崩せ。
――火ではなく、衝撃で広げる。
掌の中で、粉と液が淡く濁る。
昨夜ほどの光はない。けれど、確かな手応えがあった。
「朝比奈くん!」
御子柴さんの声に顔を上げる。
黒濁スライムが一ノ瀬さんへ大きく体を伸ばしていた。もう猶予はない。
「いきます!」
僕は即席調合した小瓶を、黒濁スライムの体表へ向けて投げた。
ぱりん、と砕ける。
一拍遅れて、黒濁スライムの表面が大きく泡立った。
「ギュアァァァッ!?」
スライムのくせに悲鳴みたいな音を上げる。
黒い体表がぶくぶくと崩れ、粘液の層が薄く剥がれていく。赤黒い脈動部が、さっきよりはっきり露出した。
「核が見えた!」
「一ノ瀬さん、今よ!」
「了解!」
一ノ瀬さんが床を蹴った。
最短距離。迷いのない踏み込み。
突き出された槍が、露出した核へ一直線に走る。
ぐしゃ、と鈍い感触。
黒濁スライムの巨体がびくんと跳ねた。
けれど仕留め切れていない。核の奥まで届いたはずなのに、まだ脈打っている。
「硬っい!」
「退いて!」
次は御子柴さんだった。
彼女は横から踏み込み、一ノ瀬さんの槍が穿った穴へ向けて、警棒ではなく短い投擲ナイフを突き込んだ。いつの間にそんなものを持っていたのかと思う間もなく、刃が核の中心へ深く沈む。
次の瞬間、黒濁スライムの脈動が止まった。
ずるり、と巨体が崩れる。
黒い泥のような残骸が床へ広がり、じゅうじゅうと音を立てながら動きを失っていく。
静かになった。
僕はその場に立ち尽くしたまま、数秒、呼吸の仕方を忘れていた。
「……倒した」
一ノ瀬さんが槍を引き抜き、荒く息を吐く。
穂先の一部が少し黒ずんでいた。
「武器の洗浄、あとで必要ね」
御子柴さんも息を整えながら言う。
彼女の額にも珍しく汗が浮いていた。
「朝比奈くん」
「は、はい」
「救助が先よ」
「あっ、はい!」
我に返って負傷した探索者のもとへ駆け寄る。
近くで見ると、想像以上にひどい。太腿の裂傷も深いが、問題は腕にべったり付着した黒い粘液だった。皮膚が赤黒くただれ始めている。
「大丈夫ですか!?」
「ぁ……まだ……生きてる、か……」
無理に笑おうとして、顔が歪む。
若い。僕たちとそう歳は変わらないか、少し上くらいだ。
「名前、言える?」
御子柴さんが膝をつく。
「か、神谷……陸人……」
「仲間は?」
その問いに、神谷さんの目が見開いた。
「妹……っ、先に、逃がした……でも、通路の……奥で……」
「まだいるの!?」
一ノ瀬さんが振り向く。
僕の背中に嫌な汗が走った。
まだ終わっていない。
「落ち着いて、順番にいくわ」
御子柴さんは即座に判断する。
「朝比奈くん、この人に中和液は使える?」
「たぶん……でも、まず粘液を拭ってからじゃないと」
「治療液は?」
「傷には効く。でも黒濁の腐食毒が残ってたら、そっちを抑えないと効果が薄い」
「分かった」
彼女は一ノ瀬さんを見る。
「一ノ瀬さん、単独で奥を見に行くのは禁止」
「でも、妹さんが!」
「だから二十歩までの確認に制限する。視界が通る範囲だけ見て、敵影があれば即戻る。絶対に追わない」
「……了解!」
一ノ瀬さんは悔しそうに頷き、奥の通路へ駆ける。
その間に僕は水筒の水と布を使い、神谷さんの腕に付着した黒粘液を慎重に落としていく。完全には除けない。けれど、中和液を少しずつ垂らすと、黒い粘液がしゅわっと泡立って剥がれやすくなった。
「効いてる!」
「量は最小限で。まだ検証不足よ」
「はい」
震える手を押さえながら、僕は処置を続ける。
神谷さんは苦悶な表所を浮かべていたが、さっきより和らいでいる。
「傷口、深いな」
祖母ならまずどうするだろう。
いや、考えろ。いつも見てきたはずだ。
出血点。裂けた皮膚。筋肉の露出。
僕は呼吸を整え、小瓶の治療液を少量だけ傷へ垂らした。
じわり、と傷口の赤みが変わる。
流血が明らかに弱まった。
「止血が早い……」
御子柴さんがそれを見て、小さく目を細める。
やっぱり、外から見ても異常な効き目なんだ。
「朝比奈くん、その薬はあと何本あるの?」
「高品質のが二本、簡易が三本」
「神谷さんの脚に高品質を使う?」
問われて、僕は一瞬ためらった。
ここで使えば助かる可能性は高い。
でも見られる。しかも相手は部外者だ。
頭の中で、昨夜の祖父の言葉と今日の黒濁スライムの姿がせめぎ合う。
――出し方を考えろ。
――守るためにも、助けるためにも。
神谷さんはかすれた声で言った。
「たの、む……妹を……」
その一言で、迷いが晴れた。
「使う」
僕は高品質治療液の瓶を取り出す。
御子柴さんが僕の顔を見た。
止めない。代わりに、その目だけが静かに問うていた。本当にそれでいいのか、と。
僕は小さく頷く。
「この人を動ける状態にしないと、妹さんの情報も曖昧なままになる。歩けるようになれば自力退避もできるし、救助の確率が上がる」
「……合理的な判断ね」
それは許可だった。
僕は瓶の栓を抜き、神谷さんへ飲ませる。
翡翠色の液体が喉を通る。
数秒後、神谷さんの体が震えた。
「な、に……これ……」
裂傷の周囲から、目に見えて出血が引いていく。
皮膚が完全に塞がるほどではない。けれど、さっきまで動かせる状態じゃなかった脚に、明らかに力が戻り始めていた。
「後で説明します。今はまだ動かないで」
「お、おう……」
目を丸くしている。当然だ。
でも今は驚いている場合じゃない。
その時、奥へ向かった一ノ瀬さんが戻ってきた。
「いた! 女の子が一人、奥の壁際に隠れてる。でも足を捻ってるみたいで動けない。モンスターは今のところ見えない!」
「距離は?」
「三十メートルくらい。曲がり角ひとつ先!」
御子柴さんは即座に立ち上がる。
「朝比奈くん、神谷さんを歩かせるのはまだ危険?」
「短距離なら、支えれば」
「なら先に妹さんを回収して、まとめて撤退する」
「了解!」
「私が先頭、一ノ瀬さんが保護、朝比奈くんは中間でカバー。神谷さんはここで動かず待機――と言いたいところだけど、万一また湧いたら詰むわね」
彼女は一瞬で考えを切り替えた。
「神谷さん、立てる?」
「……なんとか」
「なら朝比奈くんの後ろについて。絶対に単独行動しないこと」
「わ、わかった」
こうして、僕たちは再び奥の通路へ進むことになった。
さっき黒濁スライムを倒したばかりなのに、気はまったく抜けない。
むしろ本番はここからかもしれない。
曲がり角をひとつ抜けた先、壁際に小さくうずくまる人影が見えた。
茶色のショートカットの少女。神谷さんより少し年下に見える。足首を抱え、真っ青な顔でこちらを見た。
「お兄、ちゃん……!」
「美琴!」
神谷さんが一歩前へ出かけてよろめく。
僕と一ノ瀬さんが慌てて支える。
「動かないで!」
「でも……!」
「兄妹再会は後!」
御子柴さんのぴしゃりとした声に、二人とも一瞬だけ固まった。
そのまま彼女は周囲を素早く確認し、少女――美琴さんの足元へしゃがみ込む。
「捻挫、軽度。でも恐慌で動けなくなってるわね。朝比奈くん、簡易治療液」
「はい」
僕は小瓶を渡す。
高品質を使うまでもない。簡易でも十分なはずだ。
御子柴さんがそれを美琴さんの足首へ少量かけると、少女はびくりと肩を震わせた。
「あ、あったかい……」
「痛みは?」
「さっきより……まし、です」
「なら立てるわね。一ノ瀬さん、肩を貸して」
「うん!」
これで全員揃った。
あとは撤退するだけ。
そう思った、次の瞬間だった。
通路の先、僕たちが来た方向とは逆側の暗がりから、ぬるりとした音が響いた。
全員の動きが止まる。
いやな予感が、背筋を這い上がる。
「嘘でしょ」
一ノ瀬さんが顔を引きつらせた。
暗がりの奥で、複数の赤黒い光が揺れている。
ひとつじゃない。二つ、三つ――もっとだ。
普通のスライムより大きな影が、いくつもこちらへにじり寄ってくる。
「黒濁スライムの群れ!」
御子柴さんの声に、僕は血の気が引いた。
こんなの、浅層の異変どころじゃない。
明らかに何かがおかしい。
「撤退経路は!?」
「来た道だけ。でも神谷兄妹を抱えて突破は――」
御子柴さんが言い終える前に、僕の頭の奥で《錬金術》の感覚がまた大きく脈打った。
黒濁スライム。
粘液。中和。刺激。
そして、昨夜の使い道が解らない失敗作のひとつ。薬効がまとまらず熱だけを持った液。
あれを、もし。
「……御子柴さん」
「何?」
「時間を、五秒ください」
「何をする気?」
「退路を作る」
自分でも無茶だと思う。
でも、今の僕に見えている手はそれしかない。
一ノ瀬さんがぎょっとした顔でこっちを向く。
「朝比奈くん、また無茶を――」
「無茶じゃない。たぶん、できる」
そう言った瞬間、不思議なくらい腹が据わった。
助けたい。
隠したい。
怖い。
でも今は、その全部より先にやることがある。
僕は革袋へ手を突っ込んだ。
この選択が、あとでどれだけ大きなものになるのか。
その時の僕は、まだ知らなかった。




