第五十六話 消される名と、呼ぶ者
夜明け。屋上に光が満ちていく。四人と二人。フェンスのそばはもう空いている。設楽実は白い紙を突き出したまま動かない。湊は受け取らなかった。
「名を置いて来い、というのは」と湊は訊いた。
「字のとおりだ」と設楽実は答えた。「会議は名を呼ばない。……呼ばれた名は器になる。だから来る者は名を置いていく」
設楽巧が笑った。掌の点が脈を打っている。
「兄さん。それ、案内じゃない」と巧は言った。「脅しだ」
「脅しではない」
「会議に入った者は名を捨てる」と巧は湊を見た。「捨てた名は戻らない。……兄さんは三年、それを知らずに待っていた」
二
その時、三つ目の脈が返ってきた。篠宮の方角からである。一拍おいて、また一拍。ひまりの右手が熱を持った。掌のともしびが自分で光っている。
「誰だ」と雫が訊いた。
「分からない」とひまりは言った。「でもうちの家の者だ」
設楽実は紙を引っ込めた。折り目を直して内ポケットに入れる。
「三つ、答えるつもりはないか」と彼は言った。「ならば会議で聞く」
「会議は開かない」と湊は言った。「あなたが呼んだだけだ」
「点が三つ揃ったから開く」と設楽実は答えた。「会議は点で開く。……人が集まる必要はない」
三
ハルが光った。割れた瓶の中で二本の糸が動いている。むすびと、名のない一本である。設楽巧の掌の点が強く光り、それから手前に引かれるように揺れた。
「……なんだ、これ」と巧は手を見た。
『――引き寄せている』と守り手たちが言った。『ハルは器だ』『名のないものを引き寄せる』
巧の掌の点が指先へ向かって動き出した。
「兄さん」と巧の声が上がった。「これ、止めろ」
「止められない」と設楽実は言った。「それは君のものではない。……だから引かれる」
巧は右手を握った。握っても点は動く。指の付け根まで来て止まった。
四
湊はハルを抱え直した。割れた瓶の縁が掌に少しだけ痛い。
「一つ、分かった」と湊は言った。「あの点は名を持っていない。……だからハルに引かれる」
「そうだ」と雫が言った。「あなたの言っていた名のない会議と、同じ仕組みだ」
雫は携帯を開いた。画面に何かを打っている。
「記録する」と彼女は言った。「会議は点で開く。点は名を持たない。……これで二行増えた」
五
その時、湊の耳の奥で音が消えた。屋上の風の音が遠くなる。ひまりの声も一ノ瀬の声も、届いてはいる。けれど形がない。
『――始まった』と守り手たちが言った。
「なにが」
『会議だ』『お前の名を数えている』
湊は自分の名を思おうとした。朝比奈湊。四文字と一字。……四文字までは浮かぶ。最後の一字が浮かばない。
「湊」と湊は声に出した。自分の名を呼んだ。けれどそれは他人の名のように少しだけ遠かった。
六
ひまりが湊の顔を見た。「どうした」
「名が、遠い」と湊は言った。
一ノ瀬が右手を握った。しおじが熱くなり、それから静かになる。呼んでもいないのに熱を持ったのだ。
「呼ばれてる」と一ノ瀬は低く言った。「お前の名じゃない。……私の点が呼ばれてる」
設楽実が一歩下がった。それから雫を見る。
「君は記録する側だ」と彼は言った。「だから生き残る。……会議は記録を殺さない。記録は名を持たないからだ」
「殺すのか」と雫は訊いた。「会議は人を」
「殺さない」と設楽実は答えた。「名を消すだけだ」
七
雫は携帯を閉じた。それからはっきりと声を出した。
「朝比奈湊」
屋上の空気が一度だけ止まった。
「朝比奈湊」と雫はもう一度言った。「探索者登録。薬師見習い。朝比奈薬店。……記録に残す」
遠かった名が戻ってきた。四文字と一字。それは自分の名だった。
設楽巧の掌の点が、指先から手のひらへ戻っていく。三つの脈が一つずつ止まった。
八
設楽実は屋上の端を見た。非常階段の方である。一条が消えた方角だ。
「……記録者は強いな」と設楽実は言った。それから踵を返した。
「待って」と湊は言った。
「会議は閉じた」と設楽実は振り返らずに答えた。「だが議題は消えない。……君の名はまだ会議の中にある」
扉が閉まった。設楽巧も続く。足音が二つ、階段を下りていく。けれど音は三つあった。もう一つは、鳴っていない点の音だった。
九
四人は屋上に残った。空はもう白い。ひまりの掌の点が静かに脈を打っている。
「雫さん」と湊は言った。「今の、なぜ効いたんですか」
「分からない」と雫は正直に答えた。「でもあなたに名前があったからだ。……私が呼んだら、あなたが答えた」
一ノ瀬が右手を見た。しおじはもう熱を持っていない。
「うちの家の方角から出た脈は」とひまりが言った。「まだ消えない」
その時、むすびが言った。喋り方を覚えていない声だった。
『――あの脈は』
『あなたの家の、書斎からだ』
ひまりは右手を強く握った。
——第五十七話「書斎の脈と、戻らない一本」へ続く。




