第五十五話 二つの影と、名のない会議
夜明けの屋上。空の端が白から金へ変わっていく。フェンスのそばに一条。階段の前に設楽実。四人はその間に立っている。
「返事は」と設楽実が言った。「三つあると言ったはずだ」
「器の所在」と雫が答えた。「十三本の集約。それから名を捨てた者を戻すこと」
「覚えているね」
「記録する側だから」
一条は動かなかった。コートの裾が風で少しだけ揺れている。
二
「朝比奈さん」と設楽実は湊を見た。「あなたに一つ訊きたい」
「なんですか」
「名のない会議という言葉を聞いたことがあるか」
「あります」と湊は答えた。「設楽さんからです。三年前、真壁さんに言った言葉です」
「そう」と設楽実は頷いた。「では中身は知らないな」
三
設楽実は右手を出した。掌を上にしてこちらへ向ける。点はなかった。
「私は使いだ」と彼は言った。「名前のある側の手だ。通達を出し押印をし記録を作る。会議そのものにはいない」
「会議はどこに」
「どこにもない」と設楽実は答えた。「集まるときだけある」
「意味が分かりません」
「会議には名前がない」と設楽実は言った。「席順もない。議事録もない。点呼もない」
四
「点呼がないというのは」と雫が訊いた。
「名前を呼ばないからだ」と設楽実は答えた。「出席は掌で答える。点が脈を打つ。それを数える」
湊は一ノ瀬とひまりを見た。二人の掌の点は今は静かである。
「それが名のない会議か」
「そうだ」と設楽実は頷いた。「名を呼べば相手が器になる。だから会議は誰の名も呼ばない。存在するのは脈だけだ」
五
階段の下から足音がした。一つだけ。ゆっくりと上がってくる規則正しい重い音である。
四人が身構えた。設楽実は振り返らなかった。知っていたのだ。
扉が開いた。スーツの男が立っている。眼鏡はかけていない。設楽実より少しだけ若い。
設楽巧。弟の方である。
「兄さん」と巧は言った。「抜け駆けはよくない」
六
「止まっていたはずだ」と雫が言った。「査定部で」
「止まって見えるようにした」と巧は答えた。「三年前から私はそうやって生きてきた。二つの場所に同時にいる」
「影が二つだな」と雫は言った。
「そのとおりだ」と巧は笑った。「うちの家は影を二人出した。表に一人。裏に一人。……それがこの会議の使い方だ」
七
巧は右手を出した。掌を上にしてこちらへ向ける。
点があった。一つだけ。
ひまりの息が止まった。一ノ瀬が右手を強く握る。
「お前も持っているのか」と湊は訊いた。
「持っている」と巧は頷いた。「三年前にもらった。どこからかは言わない。私も知らない」
「数えられないのか」
「数えられない」と巧は言った。「だから私は数える側にはなれない。……兄さんはなりたがっている」
湊は胸の奥の声を聞いた。
『――あの点は数えられない』
『名を持っていないからだ』
『むすびと同じだ』
八
設楽実は答えなかった。その沈黙が答えだった。
「実さん」と湊は言った。「あなたは会議に入りたいんですか」
「入りたい」と設楽実は答えた。「三年、そのために動いた。会議に入れば夜に呼ばなくて済む。名を捨てれば器になれない。だから私も捨てたい」
「捨てて、どうする」
「十三本を抱える」と設楽実は言った。「国策にする。回復魔法を使わずに治せる国を作る。……冬吾さんが言いたかったのはそれだ」
九
一条が初めて口を開いた。
「違う」と彼は言った。
「どこが」
「冬吾先生は国を作りたくなかった」と一条は静かに言った。「娘を助けたかっただけだ。……お前たちはいつもそうだ。一人の話を、国にする」
設楽実は答えなかった。
一條はフェンスから離れた。四人の前を通り過ぎるとき、湊にだけ低い声で言った。
「器を守れ」と一条は言った。「私はもう遅い。……お前はまだ、名がある」
彼は屋上の端へ歩いていった。扉からではなく、非常階段の方へ。音もなく消えた。設楽実は追わなかった。
十
その時、実と巧の掌が同時に脈を打った。
点が二つ、同じ間隔で光る。一つ、二つ、三つ。……遠くからもう一つ、脈が返ってきた。
ひまりが顔を上げた。掌の点が熱を持っている。
「今の」とひまりは言った。「うちの方角からだ」
「篠宮家か」と雫が訊く。
「違う」とひまりは首を振った。声が少し掠れていた。「もっと近い。……私の家の、誰かだ」
巧が低い声で言った。
「会議が開く」と彼は言った。「十六年ぶりだ」
「なぜ今」
「決まったからだ」と巧は湊を見た。「議題は一つ。……朝比奈湊の名を消すことだ」
湊の胸の奥でハルが強く光った。むすびが言った。まだ喋り方を覚えていない声だった。
『――名を消すというのは』
『呼ばれないようにする、ということだ』
設楽実は内ポケットから白い紙を出した。折り目のない紙である。彼はそれを湊に差し出した。印は押されていない。
「これは通達ではない」と設楽実は言った。「案内だ。……会議は記録を残さない。だから私が作った」
紙には一行だけ書いてあった。
『来るなら、名を置いて来い』
——第五十六話「消される名と、呼ぶ者」へ続く。




