第五十四話 屋上の男と、名を持たない者
夜明け前の四時半。四人は学校へ向かった。通りには誰もいない。霜が歩道を白くしている。
「屋上は施錠されてるはずだ」とひまりが言った。
「あの男は鍵を使わない」と雫が答えた。「呼べば開く。……記録に残らない」
学校の裏門は開いていた。守衛室の灯りは消えている。守衛は寝ているのではなく、いないのだった。
「移動させられたな」と一ノ瀬が低く言った。「あの男は人を消さない。どかせるだけだ」
二
校舎の階段は暗かった。四人の足音が四つ、同じ速さで上がる。三階の踊り場で湊は立ち止まった。
「今からあがります」と湊は言った。「呼ばれたら答えるな。……答える前に自分の名を呼べ」
「分かってる」とひまりが言った。
「hiまりさんは先に呼ぶんでしょう」と一ノ瀬が訊く。
「そう」とひまりは右手を出した。「私の名だ。私が先だ」
扉が開いていた。屋上の扉である。外はまだ薄暗く、空の端だけが白くなっている。
三
男はフェンスのそばに立っていた。コートを着ている。顔は穏やかで若くて年齢が分からない。ひまりを見つけると少しだけ首を傾けた。
「篠宮ひまり」
その一言でひまりの右足が半歩前に出た。掌の点が熱を持っている。
「ともしび」とひまりは言った。
自分の本の名である。声に出した。先に呼んだ。
男の口が少しだけ開き、それから閉じた。呼びかけが途中で切れたのだ。
「……先に呼んだな」と男は言った。「君も知っているのか。この防ぎ方を」
「教わった」とひまりは答えた。「昨夜、守り手に」
四
男はフェンスに手をかけた。指は強くない。ただ置いているだけである。
「君たちは、私のことを悪者だと思っている」と男は言った。
「違うの」とひまりが訊く。
「違わない」と男は答えた。「私は悪者だ。四人から抜いた。一人は寝られなくなり、一人は名前を忘れかけている。……分かっている」
「なら、なぜやる」
男はしばらく黙った。それから言った。
「器が、なかったからだ」
五
湊が前に出た。ハルの瓶を腹の前に抱えている。白い塊は静かだった。
「器は、俺のところにあります」と湊は言った。「冬吾さんが作りかけたものだ」
「知っている」と男は言った。「私も探していた。……十六年、探した」
「あなたは、何者ですか」と湊は訊いた。
男はフェンスから手を離した。空の端が、もう少し白くなっている。
「私は名を持たない」と男は言った。「冬吾先生の最初の弟子だった。……名前もあった。けれど捨てた」
「なぜ」
「名を持つと、器になるからだ」と男は言った。「先生の研究では、名は器だ。預け先の家の血に名が馴染む。……ならば名を捨てれば器にならない。私は、器にならずに十三本を守ろうとした」
六
その時むすびの瓶が光った。喋り方を覚えていない一本である。ハルの中から静かに言った。
『――あたしも、名を持たなかった』
『四十年、誰にも呼ばれなかった』
『あなたと、同じだ』
男の顔が初めて動いた。ほとんど分からないほど小さな動きだった。
「その一本は」と男は言った。「私が呼んだものか」
「違います」と湊は答えた。「あなたが間違えた時に入った一本です。……青森の港のものです」
男はしばらく瓶を見ていた。それから低い声で言った。
「私の呼び方は、四本で乱れる」と男は言った。「名前がないからだ。自分の名を先に呼べない。……だから順番が狂う」
七
雫が横から割って入った。手に携帯を握っている。画面が光っている。
「録音はした」と彼女は言った。「あなたの言葉を全部。……名を捨てたこと。器を探していたこと。十三本を守ろうとしたこと」
「記録か」と男は言った。
「記録だ」と雫は頷いた。「あなたは記録を嫌う。……だから増やす」
男は雫を見た。それから肩を少しだけ揺らした。笑ったのだと思う。
「君は強い」と男は言った。「名前があるからな」
「そうだ」と雫は言った。「私は御子柴雫だ。……あなたが名前を捨てたなら、私が呼んでやる」
八
その言葉に、男の動きが止まった。
空の端が白から淡い金になった。夜明けである。屋上に光が差し、四人と一人の影が長く伸びた。
「呼ぶ、のか」と男は言った。「私を」
「呼ぶ」と雫は言った。「名前がなくても呼べる。……『名のない者』と。それは、お前の名だ」
男は答えなかった。フェンスのそばで、長いこと動かなかった。
その時、階段の下から足音がした。一つだけ。ゆっくりと上がってくる。規則正しく、重い音である。
ひまりの右手が強く光った。一ノ瀬も右手を握った。湊はハルを強く抱えた。
「誰だ」と雫が訊いた。
男は階段の方を見た。それから静かに言った。
「上だ」と男は言った。「私を、終わらせに来た」
九
階段から出てきたのはスーツの男だった。背が高い。眼鏡をかけ、眼鏡にひびが一本入っている。
設楽実。三年前、真壁宗一に接触した、兄の方である。
「一条さん」と設楽実は男へ言った。「よく喋りましたね」
一条。それが、男の、最初の名だった。
男はフェンスのそばで動かなかった。設楽実は屋上に二歩入り、四人と一条を順に見た。
「保護行政、企画調整室」と設楽実は言った。「通達を三つ出しました。返事がありません。……ならば、こちらから来ます」
「用件は」と雫が訊いた。
「三つある」と設楽実は答えた。「器の所在。十三本の集約。それから」
彼は一条を見た。
「名を捨てた者を、名のない会議へ戻すことだ」
その瞬間、湊の胸の奥で、守り手たちの声が一つに重なった。
『――来た』
『もっと上の手が、来た』
——第五十五話「二つの影と、名のない会議」へ続く。




