第五十三話 集める男と、守る者の夜
夜の十時。薬店の戸を閉め、四人と祖父母が居間へ集まった。机の上にハルの瓶を置く。中に糸が二本。むすびと名のない一本である。
「今日から夜番だ」と祖父は言った。「交代で寝ろ。店を空にするな」
「あの男は体で来ません」と湊は言った。「声だけで来ます」
「なら尚更だ」と祖父は言った。「声は戸を叩かない。……鍵をいくつかけても無駄だ」
祖母が膳に湯呑みを六つ置いた。誰の分かは言わなかった。
二
十一時を過ぎて雫が来た。私服で、鞄に紙が挟んである。
「通達が動いた」と彼女は座った。「三本になった。一本は薬店。一本は篠宮家。一本は一ノ瀬家だ」
「うちもか」と一ノ瀬が言った。
「あんたの家はうちに借りがある」と雫は言った。「あの家は借りを使ってくる。……記録より先に人を動かす」
ひまりが右手を出した。掌の点が光っている。
「あの男もうちの周りにいた」とひまりは言った。「今朝、使用人が見た。コートの人だ、と」
三
その時ハルが光った。細い糸が一本、瓶の外へ伸びる。机を渡り、湊の指先に触れた。
『――守り方を教える』と守り手たちが言った。
「守り方」
『あの男は名を呼ぶ。呼ばれた者は答える』『だから答える前に自分の名を呼べ』
「自分の名を」
『糸に名を呼ばせるな。お前が名を呼べ』『呼ぶ者が先ならあの男は後になる』
一ノ瀬が右手を握った。「しおじ、と」
『そうだ』と守り手たちは言った。『一日に何度も呼べ。声に出さなくていい』『掌に名を戻せ。あの男より先に』
四
四人は机を囲んで座った。それぞれ掌を上にして指を開く。
ひまりが最初に言った。「ともしび」
掌の点が一度だけ光り、それから静かになった。
一ノ瀬が続いた。「しおじ」
点が光った。二つは同じ脈で打っている。
「むすび」と湊は言った。瓶の中で糸が丸くなったまま動いた。
「てあて」と湊はもう一度言った。ハルの中の名のない一本が少しだけ明るくなる。
祖母がそれを見て言った。「名は、呼ぶと答えるんだね」
「はい」
「ならあんたは四人分の名前を毎晩呼ぶのかい」
「毎晩です」と湊は答えた。「あの男も毎晩呼んでいる。……数を増やした方が負けます」
五
夜の二時。最初に来たのは音ではなかった。空気だった。
居間の灯りが一度だけ揺れた。火鉢の火が低くなり、また戻る。
『――来た』と守り手たちが言った。
「朝比奈湊」
声は戸の外からでも窓からでもなかった。机の上で鳴っていた。ハルの瓶の中で鳴っていた。
湊の指が半歩動いた。名を呼ばれただけなのに指が勝手に動く。
「呼べ」と祖父が言った。「今だ」
湊は息を吸った。「湊」
自分の名を呼んだ。
声が止まった。机の上の音が一度だけ途切れ、それから低くなった。
「……先に呼んだな」と声は言った。男の声だった。けれど怒ってはいなかった。少しだけ面白がっていた。
六
次に来たのは二つの音だった。ともしびと、しおじである。ひまりの掌と一ノ瀬の掌が同時に光った。
「来る」とひまりが言った。
「呼べ」と一ノ瀬が言った。
二人は同時に掌の名を呼んだ。「ともしび」「しおじ」
二つの光が引き戻された。机の上で二本の糸が同時に震え、それから静かになる。
『――防いだ』と守り手たちが言った。『あの男は三本しか持っていない』『三本で四本を呼ぶのは重い』
「でもあの男は呼ぶのをやめない」と湊は言った。「……分かってます」
七
三度目に来たのは声ではなかった。
むすびの瓶が割れた。
小さな音だった。ひびが一本、底から上へ走る。中の糸が丸くなったまま瓶の内側を叩いている。
「むすび」と湊は呼んだ。
糸は止まらなかった。もっと強く叩く。まるで外へ出たがっているみたいに。
『――あの男が呼んでいる』と守り手たちが言った。『名のない一本だ』『だから引き寄せられる』『むすびは名を持たない。同じだからだ』
「どうすれば」
『名をつけろ』『今すぐ』『つければあの男の仮の名を押せる』
八
湊は瓶を両手で包んだ。ひびの入った瓶ごと抱える。
「つけます」と湊は言った。「むすび」
すでに一度つけた名である。けれどむすびは答えなかった。喋り方を覚えていない一本だからだ。
「もう一度つけます」と湊は言った。「お前の名は、むすびだ」
その時ハルが光った。二本の糸が同時に光っている。むすびと、名のない一本である。名のない一本が言った。まだ喋り方を覚えていない声だった。
『――わかる』
「なにが」
『あの男の呼び方だ』『あたしも四十年、待っていたから』『名を呼ばれないと、返事ができない』
糸が一本、ハルから出てむすびの瓶に触れた。瓶の中の糸が止まった。
九
夜の四時。火鉢の火はもう低い。四人とも眠っていない。
雫の携帯が鳴った。彼女は画面を見て、それから顔を上げた。
「篠宮から」と雫は言った。「学校の屋上に、コートの男がいる。……生徒が三人、見ている」
「なぜ屋上に」とひまりが訊く。
「あんたを待っている」と雫は言った。「篠宮ひまりの名を、呼ぶために」
ひまりが立ち上がった。右手の点が強く光っている。
「行く」とひまりは言った。
「だめだ」と湊は言った。
「私の名だ」とひまりは言った。「呼ばれる前に、呼びに行く」
その時むすびの瓶が光った。喋り方を覚えていない一本が、初めて二言を言った。
『――あぶない』
『――あの人も、名を持っていない』
——第五十四話「屋上の男と、名を持たない者」へ続く。




