第五十二話 三本になった男と、器を探す影
薬店に戻ったのは夜の一時を回っていた。四人は奥の居間に入った。祖母は起きていた。火鉢の火は落ちていない。
「二本になったな」と祖父が言った。台の上にはハルの瓶がある。中に糸が二本、丸くなって落ちている。
「ハルの中に二本です」と湊は座った。「むすびと、名のない一本です」
「あの男は三本だ」と祖父は指を折った。「お前たちは五本。……だがその五本のうち一本は名を持っていない」
「はい」
「なら四本半だ」と祖父は言った。「半端な数は戦にならん」
むすびの瓶が光った。喋り方を覚えていない一本である。それが昼のように、また言った。
『あぶない』
湊は瓶を手に取った。むすびは丸くなったまま動かない。けれど光だけが、窓の方を向いている。
二
朝、雫が来た。手に三枚の紙を持っている。
「三つある」と彼女は座るなり言った。「一つ、柏木志乃は今朝、落ち着いている。飯を全部食べた。名前を自分から言った。……『てあて』と」
「あの男から離れられそうですか」
「分からない」と雫は言った。「だが昨日よりましだ。あの男の仮の名が押されて、本人の名が入った。……それが効いている」
「二つは」
「青森の港の女だ」と雫は二枚目を机に置いた。「五十八。港の売店をやっている。昨日の夜、交番に来て『急に静かになった』と言った。手のひらに糸が浮いていたらしい。……今朝は消えている」
「三つは」
雫は三枚目を置いた。写真だった。薬店の前の通りである。向かいの電柱の陰に、コートの男が立っている。顔は写っていない。写っていても覚えられないからだ。
「今朝の六時だ」と雫は言った。「うちの巡回が撮った。……あの男は、この店を見ている」
三
居間が静かになった。ひまりが右手をポケットから出した。掌の点が光っている。一ノ瀬も右手を出した。二つの点が同じ脈で打っていた。
「器を探してるんだ」と一ノ瀬が言った。「昨日、あの男はよその一本が消えるのを見た。……自分の手から出て、どこかへ入った。それを探してる」
「探されて困るのか」と祖母が訊いた。
「困ります」と湊は答えた。「ハルは器です。十三本を束ねるために作られた。……あの男がハルを奪ったら、抜いた糸を全部そこへ入れられます。名のないまま」
「名のないまま」と祖母は繰り返した。
「そうです」と湊は頷いた。「だからあの男は毎晩呼ばなくて済む。……四本でも五本でも、器に入れれば呼ばなくていい」
祖父が低く唸った。「寝なくていい、というわけか」
「はい」
四
その時、店先の戸が鳴った。朝の九時である。祖母が出て、すぐに戻ってきた。手に一枚の紙を持っている。
「届いたよ」と祖母は湊に渡した。「押印は、ないけどね」
紙には保護行政の印が刷ってあった。本文は二行だけだった。
『朝比奈薬店が保管する研究試料体について、所在確認を要す。企画調整室。』
「設楽か」と一ノ瀬が言った。
「兄の方だ」と雫は紙を見た。「弟の設楽巧は今、査定部で止まっている。……動いているのは兄だ」
「なぜ今」
「昨日の一件だ」と雫は言った。「港の女が交番に行った。志乃が自分から名を言った。……記録が二つ増えた。あの家は、記録が増えると動く」
五
祖父が火鉢のそばから立ち上がった。店の奥へ入り、しばらくして戻ってきた。手に古い帳面を持っている。
「湊」と祖父は帳面を机に置いた。「うちの店の記録だ。薬草の出入りが二十年分ある」
「どうして今」
「所在確認、と書いてある」と祖父は紙を指した。「あの男たちは店に来る。中を見る。……ならば、見せていいものと悪いものを分けておけ」
祖母が奥から箱を二つ持ってきた。薬草の箱と、調合具の箱である。
「ハルはどこに置く」と祖母が訊いた。
湊は瓶を両手で包んだ。白い塊はまだ熱い。
「俺が持ちます」と湊は言った。「離しません」
六
昼、湊は学校へ行かなかった。雫が届けを出した。祖母が理由を書いた。祖父は店の戸を半分だけ開けて、いつもどおり箒で通りを掃いた。
十時を回ったころ、ハルが光った。今までと違う光り方である。糸が一本、瓶の外へ伸びた。湊の指先へ届く。
『――呼んでいる』と守り手たちが言った。『あの男が呼んでいる』『三本を一度に呼んだ』
「三本を一度に」
『そうだ』『昨日は四本を呼んだ。だから間違えた』『今日は三本だ。……だから正確だ』
湊は瓶を胸に抱えた。糸が指先で震えている。
『呼ばれているのは、残りの三本だ』『青森の港の一本は、もうこちらにある』『だからあの男は残りを呼び寄せている』
「どこへ」
『自分の手のひらへだ』『三本そろえて、器を探すつもりだ』
七
夕方、戸を叩く音がした。静かな音だった。三回だけ。
一ノ瀬が立った。ひまりが右手をポケットに入れた。雫はもう帰っていた。祖父は店先にいた。
祖父が戸を開けた。そこに男が立っていた。コートの男である。背が高い。顔は穏やかで若くて年齢が分からない。
「朝比奈薬店」と男は言った。「薬草を、少し分けてもらえますか」
祖父は動じなかった。「何が要る」
「青葉草を」と男は言った。「三束」
祖父はしばらく男を見た。それから店の奥を振り返った。
「湊」と祖父は言った。「青葉草、三束」
八
湊は台の前で立ち上がった。ハルの瓶は腹の前に抱えている。店先へ出た。男はそこに立っていた。
「あなたが」と男は言った。
「はい」
「青葉草を頼んだ」と男は言った。「……本物の青葉草だ。君の店のものは、いい」
湊は束を三つ取った。包み紙へ包みながら手が震えた。男はそれを見ていた。
「昨日、一本が消えた」と男は静かに言った。「私の手のひらから出て、どこかへ入った。……君のところだろう」
「分かりません」
「君は知っている」と男は言った。「数えられる者は、数えられる。……君も、私も、同じだ」
祖父が間に入った。「代金は」
「これで」と男は紙幣を置いた。それから湊を見た。
「器を返してほしい」と男は言った。「冬吾さんのものだ。君のものじゃない」
湊は包みを差し出した。男は受け取った。そして低い声で言った。
「返さないなら、集める」と男は言った。「十三本、全部。……器がなくても、私は集められる」
九
男は店を出た。戸が閉まった。通りを歩いて行く背中は、すぐに見えなくなった。
湊は台へ戻った。瓶を置いて、両手を見た。手はまだ震えている。
ハルが光った。今までより強く、長く、光った。そして守り手たちが重なった。
『――あの男は、集めると言った』
『十三本を、全部』
『ならば順番が変わる』
『あの男は、こちらを先に取る』
むすびの瓶が光った。喋り方を覚えていない一本が、また言った。
『あぶない』
その夜、湊の胸の奥で、声が一つ増えていた。新しい声ではなかった。ずっと奥にあった声である。まだ喋り方を覚えていない、あの一本の声だった。
『――来る』
——第五十三話「集める男と、守る者の夜」へ続く。




