第五十話 夜の保護室と、上書きされる名
夜の十一時を回っていた。三人はギルドの裏通りを歩いた。街灯の下に霜が降りている。十一月の夜は息が白い。
「巡回に話はつけた」と雫が前を向いたまま言った。「保護室には入れない。だが面会なら通せる。……夜間面会の記録は残る。仕方ない」
「構いません」と湊は言った。
「あんたは構わないだろう」と雫は言った。「だが私は構う。あの男は記録を嫌う。私も嫌いだ。……嫌いなものを二つ並べるのは、あまり好きじゃない」
一ノ瀬が右手をポケットに入れたまま黙って歩いている。ひまりも黙っている。四人の足音が三つに減って聞こえるのは、ひまりの歩幅が少し狭いからだった。
二
ギルドの裏口には当直の職員が立っていた。昼とは違う男である。四十前後で目が寝ていない。
「御子柴さん」と男は低く言った。「夜間面会は規定にない」
「知ってる」と雫は受付票を差し出した。「だから緊急受理にする。査定部の権限で通す。副署は明日つける」
「明日つくなら今日は無効です」
「無効でいい」と雫は言った。「記録に残ればいい。……あの女の人が消えたら、あなたが困る」
男はしばらく雫を見ていた。それから受付票に受理印を押した。
「二十分」と男は言った。「それと、中で何かあったらすぐ呼んでください。私はこの扉から動きません」
三
保護室の廊下は、昼よりずっと暗かった。高いところの窓が月明かりを拾っている。扉の前で雫が立ち止まり、鍵を外した。
志乃は起きていた。ベッドの脇の椅子ではなく、ベッドの端に座っている。背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いていた。掌を上にして、指を開いている。それは昼と同じ、糸を呼ぶ者の仕草だった。
「来ると思った」と志乃は、扉が開く前からこちらを見て言った。
「……どうして分かったんですか」と湊は訊いた。
「あたしの体が返事をしたから」と志乃は言った。「夕方に一度。夜にも一度。……あんたの方から呼んだでしょう」
四
「呼びました」と湊は正直に言った。「でも引けませんでした。結ぶ先がなかったからです」
「分かってる」と志乃は頷いた。「あたしも感じた。……糸が引かれて、戻りかけて、また手前で止まった。あの人が呼び直したんだよ」
一ノ瀬が扉の内側に立ち、ひまりが廊下に立った。四人と一人で、部屋が狭くなった。
「柏木さん」と湊は言った。「名をつけてください」
「冬吾さんはつけるなと言った」
「その条件はもう意味がありません」と湊は言った。「あなたの体は器じゃない。名をつけても受け取れない。……だから別の器に預けます」
「別の器」
「ハルです」と湊は言った。「冬吾さんが十三本を束ねるために作りかけだった器。……今は俺のところにあります」
五
志乃は、しばらく湊の顔を見ていた。それから少しだけ、うつむいた。
「四十年」と彼女は言った。「あたしは四十年、あれを持ってた。名前も知らずに。……どんな形かも分からないまま、大事にしてた」
「分かります」と湊は言った。
「分かるのかい」
「俺も最初はそうでした」と湊は言った。「ハルって名前をつけたのは、持ってから二日目でした。それまで何なのか分からなかった。……でも、大事だとは思っていました」
志乃は笑った。昼と同じ、看護師の笑い方だった。
「じゃあ、あたしの名前を言うよ」と彼女は言った。「四十年、思ってた名前だ」
「なんですか」
「てあて」と志乃は言った。「手当、って書いて。……看護師の言葉だよ。あたしにはそれしかなかった」
六
湊は両手を志乃の掌の上にかざした。志乃の掌はしわだらけで節くれだっている。けれど震えてはいなかった。
「呼びます」と湊は言った。「結ばないで、呼びます。……あなたの一本は遠くにあるからです」
「どうやって呼ぶ」
「名だけを呼びます」と湊は答えた。「すると向こうで名前が変わります。あの人がつけた仮の名が消えて、本当の名が入ります」
「それで戻るのか」
「戻りません」と湊は言った。「でも、向こうから戻ってこられるようになります。……あの人の手のひらから、こっちへ」
七
湊は目を閉じ、胸の奥の光に語りかけた。ハルを両掌のあいだに置いた。白い塊が脈を打っている。
――てあて。
呼んだ瞬間、部屋の中の空気が少しだけ重くなった。高い窓の外で何かが羽を鳴らした。近くではない。遠い音だった。
『入った』と守り手たちが言った。『仮の名を押している』『だが向こうも抵抗している』『あの男が、いま、四本を同時に呼んだ』
八
湊の胸の奥で、ハルが強く光った。今までと違う光り方である。波ではなく、糸が幾筋も外へ伸びている。
『――一本だけ、返事をした』 『青森の港の一本だ』 『志乃の一本ではない。……あの男が呼び直した時に、間違えた』
一ノ瀬が右手を強く握った。しおじの点が熱を持っている。
「間違えたってどういうことだ」と一ノ瀬が訊いた。
『四本を一晩に四回呼ぶのは、重い』と守り手たちは言った。『だからあの男も疲れる。……疲れると順番を間違える』
九
その時、廊下で足音がした。一つだけ。速くない。規則正しくもない。ゆっくりと、この扉に向かってくる音だった。
雫が携帯を握り、扉の方へ半歩出た。ひまりが右手をポケットから出した。志乃は椅子の上で動かなかった。
扉の向こうから声がした。昼と同じ声だった。柔らかくてやさしくて、まるで家族を呼ぶみたいな声である。
「朝比奈湊」
湊の足が半歩前に出かけた。一ノ瀬が横から腕を掴んだ。
「動くな」と彼女が低く言った。「今、違う名前が一つ入った。……それを返しに来たんだ」
湊は歯を食いしばった。掌の中のハルが、熱い。けれど声が聞こえた。まだ喋り方を覚えていない声が、初めて、はっきりと言った。
『――呼ばれるな』
それはハルの声だった。




