第四十九話 束ねる器と、名のない一本
薬店に戻ると祖父は店先で帳簿を閉じたまま待っていた。祖母は奥で茶を淹れている。四人が居間に入ると祖父は帳簿を置いて言った。
「男が来たそうだな」
「はい」と湊は座った。「コートの男です。志乃さんから一本を抜いた人です」
「顔は見たか」
「見ました」
「どんな顔だ」
湊はしばらく考えて首を振った。
「分かりません。見たのに覚えていないんです。穏やかで若くて、でも年齢が分からない。……そういうふうにしか言えません」
祖父は低く唸った。「抜く側の値段だな。抜かれた者は顔を忘れ、抜いた者は自分の顔を忘れる」
「祖父さん、知ってるんですか」
「知らん」と祖父は言った。「だが人が一人で四本も抱えて平気な顔をしているなら、どこかで帳尻を合わせている。……それが顔だ」
二
「それより湊」と祖母が湯呑みを置いた。「今の話、ハルが器だって」
「聞こえましたか」
「聞こえたよ」と祖母は頷いた。「あんたが玄関で言ったことだ。……ハルは十三本を束ねる器だってな」
一ノ瀬が障子を閉め、ひまりが机の上に手帳の写しを広げた。十三の行が並んでいる。第一本から第十三本まで。
「冬吾さんは十三本を各地に分けた」とひまりが言った。「そして束ねる器を作ろうとした。……それがハルだ」
「そうだ」と湊は頷いた。「守り手がそう言いました」
「じゃあ」と一ノ瀬が右手を出した。「この掌のものもハルを通せば戻せるのか」
「戻せる」と湊は言った。「抜かれた一本もハルを通せば戻せるそうです。……あの男を倒さなくてもいい。束ねればいい」
三
その時、机の上のハルが光った。今までと違う光り方だった。点滅でも波でもない。細い糸が外へ向かって伸びている。机を渡り、湊の指先へ届いていた。
「……なに、これ」
『呼んでいる』と守り手たちの声が重なった。『志乃の一本を呼んでいる』
「遠くにあるのに」
『遠くても呼べる』『ハルは器だ。器は名のないものを引き寄せる』『だが今は弱い』
湊はハルを両手で包んだ。掌の中で白い塊が脈打っている。糸が一本、机の表面を滑っていった。まるで何かを探しているみたいに。
「試してみます」と湊は言った。「志乃さんの一本を引いてみます」
「危ないぞ」と祖父が言った。
「分かっています。でも、あの男が来る前に、一度は通しておかないと」
四
湊は作業台の前に座り、ハルを台の真ん中に置いた。両手をその上にかざす。胸の奥の光に語りかける。
――志乃の一本を呼べ。
――名のない一本を。
光が動いた。湊の指先から白い糸が伸びる。震えているけれど、結ぶ先がない。どこにも繋がっていないのだ。
『――近い』と守り手たちが言った。『志乃の一本は近い』『この街の中だ』『だが呼べない。名がないからだ』
「名がないと引けないんですか」
『引ける』『だが戻らない』『あの男が仮の名を呼んでいる。……先に呼ばれるとそちらへ戻ってしまう』
湊は手を引いた。糸が指先から離れない。
「仮の名を消せばいいんですか」
『消せない』『あの男が握っている』『だが上書きはできる』『本当の名を先に呼べ』
五
「本当の名」と湊は呟いた。
祖母が前に出た。「その一本の名だね」
「はい」
「誰がつける」
「分かりません」と湊は正直に言った。「志乃さんの体はもう器じゃない。彼女がつけても受け取れない。……だから一時的にハルに預けるしかないです」
「ハルに預ける」とひまりが繰り返した。
「ハルは器です。名のないものを一時的に預けられる」と湊は言った。「志乃さんにそのことを伝えれば、彼女が名をつける。そしてハルに預ける。……そうすればあの男の仮の名が上書きされる」
一ノ瀬が腕を組んだ。「一時的に、か。その間ハルはどうなる」
「分かりません」と湊は答えた。「でも、むすびみたいになると思います」
「……喋らなくなる、と」
「まだ喋り方を覚えていないだけです」と湊は言った。「ハルは喋ります。……育てれば」
六
その時、卓上の携帯が震えた。雫からである。
『男の正体、詰めた』
『天城冬吾の最後の弟子。名は、天城研究室の在籍名簿にあった。最後の一人だけ空白だった。……本人が消したらしい』
『そして一つ分かった。あの男は毎晩四本を呼んでいる。四本とも名を持っていない。だから寝られない。……だから場所を移るしかない。東京に一ヶ月いるのは、志乃の一本がここにあるからだ』
湊は画面を読んでから雫に返事を打った。
『志乃さんに、もう一度会えますか』
返信はすぐ来た。
『明日、朝。同じ時間。……ただし一つ条件がある。向こうが動いたら、あなたは呼ばれる。いや、呼ばれかけてる。だから、行くのは私と一ノ瀬だけでいい』
湊はしばらく画面を見つめてから返事を打った。
『いいえ、俺が行きます。志乃さんに名をつけるのは俺です』
七
夜、湊は作業台の前に座り続けた。ハルと、むすびの瓶を並べてある。二つは同じ脈で光っている。けれどその光は今、少しだけ互いに寄りかかるように揺れた。
『言っただろう』と守り手たちが言った。『ハルは器だ』『名のないものを引き寄せる』『だからあの男の四本も、いずれは引き寄せられる』
「あの男の四本も」
『そうだ』『だが順番がある』『近いものからだ』『一番近いのは志乃の一本だ』『次は、佐伯の隣の一本だ』
「佐伯さんの隣」
『青森の港の一本だ』『あの男がすでに触れている』『だから呼べる』『だが志乃の一本の方が近い』『だから志乃からだ』
湊は手帳を開いた。十三の行が並んでいる。第一本から第十三本まで。そのうち四本が向こうにあり、四本がこちらにある。残りは五本。けれど今動いているのは志乃の一本だけだ。
八
戸が鳴った。祖母が二階から降りてきて廊下を歩いている。祖父は店先の戸締まりをしている。その音が妙に静かだった。
「湊」と祖父が店先から声をかけた。
「はい」
「明日、志乃さんに名をつけさせるんだな」
「はい」
「つけたらどうなる」
「ハルに預けます」
「そして」
「あの男の仮の名を上書きします」
祖父は店先でしばらく黙っていた。それから低い声で言った。
「お前、あの男に宣戦布告する気か」
「するつもりはありません」と湊は答えた。「ただ、志乃さんを解放したいだけです」
「あの男の立場から見れば同じだ」と祖父は言った。「お前があの男の四本のうち一本を取る。……取られたほうは残り三本の名をもっと強く呼ぶしかない。そうなれば他の宿主が危ない」
湊は言葉に詰まった。ハルが、机の上で一度だけ強く光った。
九
その時、卓上で瓶が鳴った。がらり、という小さな音だった。ふたが一つ、勝手にずれたのだ。
ハルが光っている。波のように寄せて返している。そして湊の胸の奥で守り手たちの声が重なった。
『――志乃の一本が返事をした』
『あの男の名を一度だけ捨てた』
『だから今のうちに呼べ』
『朝を待つな』
湊は立ち上がった。窓の外を見た。十一月の夜はもう冬の色をしている。街の明かりが遠くで細く揺れていた。
「雫さんに電話します」と湊は言った。「今から、志乃さんに会いに行きます」
「朝まで待て」と祖父が言った。
「待てません」と湊はコートを取った。「今しかありません。……あの男が仮の名を呼び直す前に」
一ノ瀬がすでにコートを手に取っていた。ひまりも右手をポケットから出している。掌の白い点が光っていた。
三人が出て行く背中に、祖父が声を落とした。
「湊」
「はい」
「覚えておけ。名をつけるというのは、相手を抱えるということだ。……志乃さんの一本はお前の五本目になる」
「分かっています」
「本当に、な」
戸が閉まった。夜の空気が頬を刺した。湊の胸の奥で守り手たちの声が静かに重なった。
『――あの男が動いた』
『志乃の一本が、こちらへ、動いている』




