第四十八話 名を呼ぶ男と、数えられた四本
「学校に男が来た」と雫が言ったのは、ギルドの裏口を出て信号を二つ渡ったところだった。携帯の画面には篠宮からの短い文面が並んでいる。三十くらいの男。コート。校門の前に立っている。守衛が三度止めたが動かなかった。そして一度だけ言った。
「朝比奈湊に会いたい」
「今、学校にいるのか」と湊は訊いた。
「いる」と雫は歩きながら答えた。「篠宮と一ノ瀬が先に戻ってる。……男は門の外だ。中には入っていない。だから警察は動けない」
「行きます」
「行くのは決まりだ」と雫は言った。「ただしお前は喋るな。呼ばれるな。……いいな」
湊は頷いた。
二
学校の前の並木道は十一月の午後の光でまだらに染まっていた。落ち葉が風に押されて側溝に溜まっている。
男は門の脇の街路樹の根元に立っていた。薄いコートを着ている。背が高い。顔は穏やかで若いというより年齢の分からない顔だった。笑っているわけではないけれど怒ってもいない。湊を見つけるとわずかに首を傾けた。
「朝比奈湊」
その一言で湊の胸の奥が揺れた。名前を呼ばれただけなのに体の芯がそちらへ向こうとする。足の裏が地面から離れそうになる。一ノ瀬が横から腕を掴んだ。
「動くな」と彼女が低く言った。「呼ばれてる」
湊は歯を食いしばった。志乃の言葉が耳の奥で響く。呼ぶ者が呼ばれると負ける。
三
「よく来たね」と男は言った。「呼んでもいないのに」
「あなたが呼んだから」
「そう」と男は笑った。「それ、正しいよ」
ひまりが校門の内側から出てきて湊の隣に並んだ。右手をポケットに入れている。掌の白い点を隠している。
「あなたが志乃さんから抜いた人」とひまりが言った。
「志乃さん」と男は繰り返した。「その名前を聞くのは久しぶりだ」
「あなたは名前を呼ばれるのが嫌いなの」
「呼ばれないんだよ」と男は言った。「誰も私の名前を知らない。……私ももう忘れた」
四
男は右手を出した。掌を上にしてこちらへ向ける。白い点が四つあった。
湊は自分の胸に手を当てた。ハルとむすびとともしびとしおじ。四つの名。数は同じだ。そして守り手たちが一ヶ月前に言ったことを思い出す。あの男はその時三本を持っていた。志乃さんの一本で四本目になったのだ。
「四本」と男は言った。「君も四つだろう」
「……どうして分かる」
「数えられるからだ」と男は静かに言った。「四つ持っている者は四つに見える。……それが私と君の唯一の共通点だ」
一ノ瀬の右手がポケットの中で握られた。しおじの点が熱を持っている。
「君の四つは名を持っている」と男は続けた。「私の四つは名を持っていない。……だから私は毎晩呼ばなければならない」
五
「呼ぶ」と湊は繰り返した。
「四つ分の名を一晩に四回」と男は言った。「呼ぶのをやめると抜いた糸が元へ帰ろうとする。……宿主の元へな。だから私は寝られない。四本を抱えて毎晩名前を呼び続けている」
彼は自分の掌をじっと見た。
「志乃さんはいい人だった」と男は言った。「呼ぶのがいちばん楽だった。……返してと言ってもおいでと言っても同じ声で答えてくれた」
湊は拳を握った。
「あなたは」と湊は訊いた。「四人の顔を思い出せるか」
男は黙った。それから低い声で言った。
「思い出せない」と彼は言った。「名前も声も覚えている。……顔だけが抜け落ちる。それが抜くという仕事の値段だ」
六
「なぜそれをやるんだ」と湊は訊いた。
「冬吾さんのためだ」と男は言った。
並木道の空気が少し止まった。
「私は天城冬吾の最後の弟子だった」と男は言った。「先生が資料を三通に分けて送った時、私には何も残さなかった。……だから自分で集めることにした。十三本を。国に渡さないために」
「集めてどうする」
「器を作る」と男は言った。「十三本を束ねる器を。……先生はそれを作りかけで死んだ。私はその続きをやっている」
湊の胸の奥でハルが強く脈打った。
七
守り手たちの声が重なった。
『——あれは知らない』
『ハルのことを知らない』
『だから抜いて集めている』
『だがハルはここにある』
『束ねる器はもうできている』
湊は息を止めた。
『そうだ。ハルは十三本を束ねるために作られた』
『抜かれた一本もハルを通せば戻せる』
『だが、あの男にそれを言うな』
『言えば、あの男はハルを奪う』
一ノ瀬が湊の腕を強く掴んだ。
八
「朝比奈湊」
男がもう一度名前を呼んだ。今度はさっきより近い声だった。柔らかくてやさしくてまるで家族を呼ぶみたいだった。湊の足が半歩前に出た。
「やめろ」と雫が間に立った。彼女は男と湊のあいだに立ちはだかり、手に携帯を握っている。画面が光っている。通話中だ。
「探索者ギルド査定部、御子柴」と雫は言った。「あなたの名前を訊いている。……名乗らないならこちらでつける。『無名の抜き手』と」
男は雫を見た。それから笑った。
「いい名前だ」と男は言った。「つけてくれてありがとう。……でも私は名乗れない。名乗ったら君たちに呼ばれてしまうから」
九
男はコートの襟を直した。
「今日は数えに来ただけだ」と彼は言った。「君が四つかどうか。……確かめられてよかった」
「待て」と湊は言った。
「また会う」と男は背を向けた。「次は君の四つを数えに来る。……その時、君が呼ばれたら終わりだ」
落ち葉が風に舞った。男の背中は並木の向こうへ消えていった。雫が通話を切る。
「今の、全部録音してある」と彼女は言った。「……あの男、記録を嫌うわりに喋りすぎた」
ひまりが右手をポケットから出した。掌の白い点が光っている。
「朝比奈くん」とひまりは言った。「今の、聞こえた。……ハルが器って」
「聞こえた」と湊は頷いた。
その時、胸の奥で守り手たちが静かに言った。
『——志乃の一本はまだ名を持っていない』
『だからハルを通せば戻せる』
『あの男を倒さなくてもいい』
『束ねればいい』
湊は拳を開いた。掌には何もない。けれど熱はあった。




