第四十七話 名を忘れた看護師と、路地の男
夜の電話が切れてから四人はしばらく動けなかった。火鉢の炭が崩れ、雫の言葉だけが居間に残っている。柏木志乃が見つかった。新宿の路地で生きていた。名前も覚えている。そして若い男と一緒だった。
「今から行きます」と湊が言った。
「だめだ」と雫が受話器を置いたまま言った。「保護したのは巡回だ。本人は今ギルドの保護室にいる。面会の手続きは朝になる。……夜中に押しかければ記録が汚れる。あの男は記録を嫌う相手だ」
「でも」
「朝だ」と雫は言い切った。「六時にギルドの裏口に来い。それまで寝ろ。……寝られなくても横になれ」
一ノ瀬が障子を閉め、ひまりが布団を敷いた。湊は作業台の前に座ったまま瓶を二つ眺めていた。ハルとむすび。二つは同じ脈で光っているけれど、その光はいつもより少しだけ遠くを見ているようだった。
「……志乃さんは」と湊は瓶に訊いた。「もう抜かれたのか」
声はしばらく答えなかった。それから静かに重なった。
『抜かれた』 『だが消えてはいない』 『抜かれた者は抜いた者のそばにいる。……志乃はまだあの男のそばにいる』
二
朝の六時。ギルドの裏口には薄い霧がかかっていた。雫はもう来ていて、手に一枚の紙を持っている。
「面会は二十分」と彼女は湊に差し出した。「昨日の聖良さんの件がある。……だから今回は事務的に通した。薬師見習いの調査協力という形でな」
「分かりました」
一ノ瀬が横で、右手をポケットに入れたまま立っていた。しおじを持ってから、彼女はときどきこの右手を気にする。熱でも痛みでもない。ただ何かの気配を掌で拾っている。
「朝比奈」と一ノ瀬が低く言った。「保護室に着く前に一つ言っておく。……あの女の人はたぶんまともに喋らない」
「どうして」
「抜かれた者は抜いた者のそばにいる、って言ったろ」と彼女は前を向いたまま言った。「そばにいる者を悪く言う人間はいないんだよ」
雫が振り向いて一ノ瀬を一瞥し、それから何も言わずに歩き出した。
三
保護室はギルドの地下、medical wing の奥にあった。白い扉の前に巡回の職員が一人立っている。
「柏木志乃。六十四。身元は確認済みです。……ただ」と職員は声を落とした。「昨日保護してから一度も外に出ようとしません。飯も半分しか食べない。名前を訊けば答える。それだけです」
雫が頷き、扉を開けた。
室内は思っていたより明るかった。窓が一つ、高いところにある。ベッドの脇の椅子にその人は座っていた。痩せているけれど背筋はまっすぐで、看護師の背中だった。四十年、病棟を歩いてきた人の背中である。
「柏木さん」と雫が静かに呼びかけた。「御子柴です。……昨日はよく耐えました」
志乃は顔を上げた。白髪まじりの短い髪。目は思っていたより澄んでいたけれど、その澄み方は少し違う。濁りがないのではない。焦点がどこにも合っていないのだ。
「あなたが朝比奈さん」と志乃は湊を見て言った。
「はい。朝比奈湊です」
「冬吾さんのところの」と志乃は小さく笑った。「四十年、待った。……ずっと待ってたのに」
四
湊は志乃の右手を見た。ベッドの上に手のひらを上にして置かれている。掌はしわだらけで節くれだっていたけれど、糸はなかった。浮いてもいない。回ってもいない。
黒い粉もない。緑の筋もない。何もない。
「……ない」と湊は呟いた。
「ないでしょう」と志乃は言った。「取られたんだよ」
一ノ瀬の肩がわずかに強張った。
「いつ」と雫が訊く。
「分からない」と志乃は首を振った。「気づいたらなかった。……あの人が来て名を呼んで、それからしばらくして。……あたしは自分の部屋にいたはずなのに、気づいたら新宿の路地に立っていた」
「歩いて来たんですか」と湊が訊く。
「歩いたのか連れて来られたのか」と志乃は掌を見たまま言った。「分からない。……ただ、あたしはあの人から離れられない」
雫が紙に何かを書きつけ、志乃はその音を聞いていた。
五
「柏木さん」と湊は訊いた。「その若い男のことを教えてください」
志乃はしばらく黙り、それからゆっくりと口を開く。
「若い男と一緒だった」と彼女は言った。「それは覚えてる。……背が高くてコートを着てて。十一月になってもコートを着てた」
「顔は」
志乃は答えなかった。
「顔を思い出せませんか」
「思い出せない」と志乃は言った。それから少しだけ首をかしげる。「おかしいでしょう。一緒に一ヶ月もいたのに。……名前も声も覚えてるのに。顔だけが思い出せない」
湊は胸の奥で守り手たちがざわめくのを聞いた。
『——縛りだ』 『抜かれた者は抜いた者の顔を思い出せない』 『思い出せば誰かに言ってしまうから』 『だから抜いた者は名だけを残す』
「名は」と湊は訊いた。「何という名前ですか」
「呼ばれた名前は」と志乃はそこで初めて目をそらした。「……なかった。あたしはあの人を名前で呼んだことがない」
六
雫がペンを止めた。
「柏木さん。もう一度訊きます」と彼女は静かに言った。「あなたはその男を何と呼んでいたんですか」
志乃は答えなかった。代わりに無言で右手を動かし、掌を上にして指を開く。それは佐伯与作が、巌が、してきたのと同じ仕草だった。糸を呼ぶ者の仕草である。
「——あの人は」と志乃は低い声で言った。「名を呼ぶのがうまかった」
湊の背筋が寒くなった。
「うまい、というのは」
「あたしの体のものを」と志乃は掌を見たまま言った。「あたしがそれを大事だと思ってることを知ってるみたいに。……やさしく呼ぶんだよ。『返して』じゃない。『おいで』って」
一ノ瀬が右手をポケットから出した。掌の白い点が少し熱を帯びている。
「その男は」と一ノ瀬が訊く。「今どこに」
「分からない」と志乃は首を振った。「でもあたしは分かる」
「どうして」
「近くにいるから」と志乃は言った。「あたしはあの人から離れられない。……だからあたしがここにいる間は、あの人もこの街のどこかにいる」
七
部屋が静かになり、高い窓の外で鳩が一羽、羽を鳴らした。
「柏木さん」と湊は訊いた。「あなたのその一本は。……取り返せますか」
志乃は初めて、まっすぐに湊を見た。焦点の合わなかった目が一瞬だけ合った。
「あんた、名をつけたことがあるね」と彼女は言った。
「……あります」
「何人に」
「四人に」と湊は答えた。「ハルとむすびとともしびとしおじです」
志乃はその言葉を一つずつ噛みしめるように聞いていた。それから静かに言った。
「あたしの一本。……あたしは名をつけてなかった」
「四十年、ですか」
「四十年」と志乃は頷いた。「冬吾さんは『名をつけるな』と言った。……つけたらあなたが受け取ることになる。あなたの体はもう器じゃない。……だからあたしはつけなかった。四十年、ただ持ってた」
一ノ瀬が唇を噛んだ。
「じゃあ、その一本は」と湊は訊く。「名を持ってなかったんですか」
「持ってなかった」と志乃は言った。「……でもあの人は呼んだ。あたしが呼べなかった名を」
八
湊は目を閉じ、胸の奥で守り手たちの声が重なるのを聞く。
『——志乃の一本は名を持っていない』 『だから抜いても消えない』 『抜いた者が仮の名を与えた。……そう作った』 『十三本のうち三本があの男の手のひらにある』 『志乃の一本で四本目だ』
湊は目を開けた。「……四本、ですか」
「四本なんだね」と志乃は、湊の呟きを聞きとがめた。「あんた、数えられるんだね」
「守り手が教えてくれます」
「いいね」と志乃は初めて笑った。看護師の笑い方だった。「あたしは四十年、数えられなかった。……何を持ってるのかも知らずに」
彼女は右手を膝の上に戻した。
「朝比奈さん」と志乃は言った。「あたしは返してもらわなくていい」
「でも」
「あたしの体はもう器じゃない」と志乃は湊の言葉を遮った。「佐伯さんと同じだ。持てない。……返してもらってもすぐに抜かれる」
「じゃあ、どうするんですか」
志乃はしばらく考え、それから静かに言った。
「あんたがつけて」
「いま、ですか」
「いま」と志乃は頷いた。「あたしがまだあの人から離れられないうちに。……あたしの手のひらに名を戻して。あたしが自分で取り返す」
九
雫が時計を見た。「四分」と彼女は言った。「決めるなら早く」
湊は両手を志乃の掌の上にかざした。掌はしわだらけで節くれだっている。四十年、一本を握っていた手である。
「痛みが出るかもしれません」と湊は言った。
「看護師だよ」と志乃は笑った。「痛みは慣れてる」
「途中でやめられません」
「やめる気はない」
湊は息を吸い、胸の奥の光に語りかける。
――出ろ。 ――四十年、名を持たなかった一本の端を。
光が動き、湊の指先から白い糸が一本伸びる。それは志乃の掌の真ん中で止まったけれど、結ぶ先がない。志乃の体にもう一本はいない。抜かれてあの男の掌にある。結ぶ相手がここにいないのだ。
「……だめだ」と湊は言った。「結ぶ先がない。……志乃さんの一本は、もう遠くにある」
志乃は目を閉じた。
「そうか」と彼女は静かに言った。「……じゃあ、あんたがあの人に会うしかないね」
湊は拳を握った。掌の上で白い糸がまだ揺れている。
「会います」と湊は言った。「志乃さんの一本を。……必ず取り返します」
志乃は目を開けた。焦点はまだ合っていなかったけれど、その声ははっきりとしていた。
「朝比奈さん」と彼女は言った。「あの人は名を呼ぶのがうまい。……だから気をつけて。あんたは名を呼ぶ側だろ。……呼ぶ者が呼ばれると負ける」
部屋の扉が開き、巡回の職員が二分前だと告げに来た。湊は糸を引っ込めた。胸の奥で守り手たちの声が重なる。
『——四本目は遠い』 『だが志乃はまだ離れられていない』 『だからあの男はこの街にいる』
外に出た通路で一ノ瀬が足を止めた。
「朝比奈」
「なに」
「さっき、あの女の人が言ってたこと」と一ノ瀬は右手の掌を見た。「呼ぶ者が呼ばれると負ける。……それ、お前に言ってるんだ」
「分かってる」
「分かってない」と一ノ瀬は言った。「あの男は四本持ってる。お前は四本持ってる。……数は同じだ」
その時雫の携帯が震えた。彼女は画面を見て顔を上げる。
「篠宮から」と雫は言った。「学校に男が来たらしい。……三十くらいのコートの男が、朝比奈湊の名前を探している」
廊下の空気が少し変わった。湊の胸の奥で守り手たちの声が一つに重なる。
『——来た』 『あの男が動いた』




