第四十五話 青森の漁師と、先に動いた者
薬店に戻ったのは、午前一時を回っていた。
四人は、奥の居間で、座り込んだ。湯呑みが、四つ。祖母が、黙って、茶を淹れ直した。祖父は、火鉢のそばで、手帳を、開いていた。
「第二本」 老人は、指で、行をなぞった。「青森の、漁師だ。……名前が、ない」
『第二本・預けた。本人の了承済み』
その一行だけが、書いてある。土地と、職だけ。冬吾は、名前を、書かなかった。書けなかった、と湊は思った。書けば、そこから、辿られる。あの人は、最後まで、先を、読んでいた。
「本人の、了承済み」 ひまりが、右手を、膝の上で、開いた。「……つまり、断らなかった人、だ」
「そうだ」 祖父は、うなずいた。「巌さんは、断った。真壁さんも、断った。……だが、この漁師は、受け取った。自分の意思で」
一ノ瀬が、腕を組んだ。
「受け取った人間が、今、どうしてるか」
「それが、分からん」 祖父は、手帳を、閉じた。
その時、湊の胸の奥で、守り手たちの声が、した。
『——あの漁師は、まだ、生きている』
『だが、あの一本は、もう、眠っていない』
『誰かが、先に、名を、呼んだ』
湊は、息を、呑んだ。
「……名を、呼ばれた」
「どういうことだ」 一ノ瀬が、訊いた。
「分かりません」 湊は、首を振った。「ただ——十一本のうち、二本が、もう、名を呼ばれている。誰かが、先に、動いてる」
居間が、静かになった。
火鉢の、炭が、一つ、崩れた。
二
眠れなかった。
湊は、作業台の前に、座っていた。ハルの瓶と、むすびの瓶を、並べてある。二つは、同じ脈で、光っている。
ひまりは、客間に、泊まった。一ノ瀬も、隣の部屋に。雫は、帰った。書面を、作ると、言っていた。
「……なあ」
湊は、瓶に、話しかけた。
「先に、動いてるのは、誰なんだ」
瓶は、光った。けれど、答えは、なかった。
代わりに、胸の奥から、声が、した。
『——分からん』
『だが、あの者は、十三本の、並びを、知っている』
『冬吾の、手帳を、読んだ者だ』
「……冬吾さんの、手帳を」
湊は、まぶたの、裏を、見た。
冬吾の手帳は、戸塚玲子から、受け取った。他の写しは——台帳の写しは、篠宮家にあった。恒一が、三年前に、設楽実から、話を、聞いた。
設楽実は、十三本の、並びを、知っていた。土地も、職も、知っていた。三年前の時点で。
「……設楽さん、なのか」
声は、答えなかった。
その沈黙が、答えでは、なかった。何か、違う。設楽実は、知っている。けれど、動いているのは——別の、誰か。
『三年前に、動いた者は、複数、いる』
『設楽実は、その一人だ』
『だが、名を、呼べる者は、限られる』
『名を呼ぶには、その一本に、触れねば、ならない。……冬吾の、手で、預けられた、一本に』
三
朝、七時。
携帯が、鳴った。雫からだった。
「青森の漁師、分かった」
「早いですね」
「手帳の、土地と職だけじゃない。うちの、古い記録に、あった」 雫の声は、早かった。「昭和の終わり、冬吾が、出張した、記録。行き先は、青森県、深浦町。……漁協の、名簿が、残ってた。当時、四十前後の、漁師。一人だけ、該当する」
「誰ですか」
「佐伯与作。……今年で、七十二だ」
湊は、手帳を、開いた。
『第二本・預けた。本人の了承済み』
「連絡は」
「取った」 雫は、少し、間を、置いた。「……向こうも、待ってた」
「待ってた?」
「そう、言った」 雫の声が、低くなった。「『冬吾さんの、ところの者か』と、第一声が、それだった。……あんたに、代わってほしい、と。今、隣に、いる」
受話器が、ざらついた。遠くで、波の音が、した。
それから、老いた、太い声が、した。
「——もしもし。朝比奈、さんか」
「はい。朝比奈湊です」
「わしは、佐伯与作。……冬吾さんには、世話に、なった」
声は、静かだった。けれど、どこか、急いでいた。
「あんたに、渡したいものが、ある。……いや、渡したいんじゃ、ない。返したい、んだ」
四
佐伯与作は、深浦の、漁師だった。今は、引退して、息子に、船を、譲っている。
「冬吾さんが、来たのは、昭和の、終わりだ」 老人は、電話の向こうで、言った。「わしは、四十だった。……船を、買った、年だ。金が、なくてな。冬吾さんは、港の、茶屋で、わしに、こう、言った。『体に、一つ、預かってくれないか。金の話は、しない。ただ、四十年、持っていてくれ』と」
「……なんて、答えました」
「持つ、と、言った」 佐伯は、低く、笑った。「馬鹿な、漁師だ。得体の、知れないものを、体に、入れると、言われて。……だがな、あんた。四十年、わしの、網は、一度も、破れなかった。海が、荒れても、船は、沈まなかった。……それが、あの一本の、おかげかは、分からん。だが、わしは、そう、思って、いた」
一ノ瀬が、横で、腕を、組んだ。ひまりが、息を、呑む音が、した。
「佐伯さん」 湊は、訊いた。「その一本、今、どう、なってますか」
電話の、向こうが、静かに、なった。
波の音だけが、続いた。
やがて、老人が、言った。
「——動いて、いる」
五
「一ヶ月、前だ」 佐伯は、言った。「男が、来た」
「男」
「若い、男だ。三十、そこそこ。……コートを、着て、おった。十一月に、なって、なかったから、妙だと、思った。……名は、言わなかった」
湊は、手帳を、握った。
「何を、言われました」
「『あなたの、体のものを、返してほしい』と」 佐伯は、静かに、言った。「わしは、断った。冬吾さんに、預かった。四十年、持ってきた。……よそ者に、渡す、筋合いは、ない」
「それで」
「それで、男は、言った」 佐伯の声が、少し、震えた。「『では、名を、呼びます。……いつか、あなたが、自分から、持って、来るように』と」
湊は、立ち上がった。
「……名を、呼んだんですか」
「呼んだ」 佐伯は、言った。「わしの、右手の、上で。……わしは、それを、止められなかった。四十年、眠っておったものが、目を、覚ました」
電話の向こうで、老人が、息を、吐いた。
「あんた。わしの、右手の、上に、白い糸が、浮いて、おる。……もう、一ヶ月だ。夜に、なると、脈を、打つ。わしの、脈より、早い」
六
湊は、目を、閉じた。
巌の、右手を、思い出した。四十年、開かなかった手。浮いた、糸。ゆっくりと、回る、糸車。
同じ、だった。
「佐伯さん」 湊は、言った。「その、若い男。……他に、何か」
「一つ、あった」 佐伯は、思い出すように、言った。「わしは、断った。男は、帰り際に、手を、出した。……手のひらを、わしに、見せた」
「手のひら」
「白い、点が、あった」 佐伯は、言った。「手のひらの、真ん中に。……わしは、ぞっと、した。あれは、一つじゃ、なかった」
湊の、胸の奥で、守り手たちの声が、重なった。
『——三本だ』
『あの男は、その時、三本を、持っていた』
『だから、佐伯の一本を、呼べた。……持っている者が、名を、呼ぶ。冬吾の、決まりだ』
「三本」 湊は、呟いた。
電話の向こうで、佐伯が、訊いた。
「あんた。……その、三本というのは、何のことだ」
「佐伯さん」 湊は、はっきりと、言った。「その一本は、体から、抜けます。……俺が、行きます。青森へ」
「いや」 佐伯は、首を、振る音を、立てた。「あんたは、来るな。……わしが、行く」
「でも——」
「船は、息子に、譲った。体は、もう、動かん」 老人は、低く、笑った。「だがな、孫が、いる。東京で、働いておる。……そいつに、送らせる。わしと、その、一本を」
「そんな、無理を」
「無理じゃ、ない」 佐伯は、断言した。「四十年、預かった。……返すのも、わしの、仕事だ」
七
電話が、切れた。
湊は、しばらく、受話器を、持ったまま、立っていた。
「行くの」 ひまりが、訊いた。
「佐伯さんが、来る」
「一人で」
「孫が、いる」 湊は、受話器を、置いた。「……東京で、働いてる、と」
一ノ瀬が、障子の、外を、見た。
「一ヶ月、前か」 彼女は、低く、言った。「その、若い男。……うちが、倉庫で、会った、連中と、同じか」
「分からない」 湊は、首を、振った。「でも、一つ、分かった」
「なに」
「先に、動いてるのは、一人じゃ、ない」 湊は、言った。「設楽実は、三年前から、動いてる。……その、若い男は、一ヶ月、前から、動いてる。別の、筋だ」
ひまりが、右手を、見た。掌の、白い点を。
「……うちの、父が、会ったのも、設楽実だ」 彼女は、言った。「真壁さんも。……三年前、動いたのは、一人の、筋だ。だが、今、動いてるのは、別だ」
「そう」 湊は、うなずいた。「あの、若い男は、冬吾さんの、手帳を、読んでる。十三本の、並びを、知ってる。……そして、三本、持ってる」
「三本を、持ってる者が、いる」 ひまりは、右手を、握った。「……うちの、一本と。真壁さんの、一本。それと、あんたの——」
「違う」 湊は、首を、振った。「俺の、むすびは、十三本目だ。あの男が、持ってる、三本は、別だ。……残りの、十一本の、うち、三本」
十一本。
うち、佐伯の、一本が、名を、呼ばれた。
三本が、あの男の、手のひらに、ある。
残るは——七本。
その時、卓上で、携帯が、震えた。
雫からの、短い、メッセージだった。
『第三本。札幌の看護師。……連絡が、取れない。電話も、家も、もぬけの殻だ。一ヶ月前から、行方不明』
湊は、画面を、見つめた。
胸の奥で、守り手たちの声が、重なった。
『——先に、動いた者は』
『一本を、呼ぶ。次に、一本を、呼ぶ。……だが、待たずに、抜く』
『抜かれた者は、どう、なる』
声は、しばらく、答えなかった。
それから、静かに、言った。
『……抜かれた者は、抜いた者の、そばに、いる』




