第四十六話 札幌の看護師と抜かれた者の行方
朝比奈薬店の朝はひまりが居ついてから少しだけ音が増えた。六時半に祖母が起きて釜を火にかけ七時に祖父が店先の戸を半分だけ開けて通りの埃を箒で掃きそのあいだにひまりは客間の布団を畳み一ノ瀬は勝手口から入ってきて勝手に茶を淹れる。湊が作業台の灯りを点けるのはいつも最後だった。
「朝早いですね」とひまりが湯呑みを両手で包みながら言った。掌の白い点はもう服の下に隠れている。
「うちは薬屋だからな」と祖父が帳簿を開いたまま答えた。「病人は朝に来る……夜に来る病人はもっと厄介な病人だ」
その言葉に一ノ瀬が小さく笑った。「朝比奈の爺さんそれ私たちのことだろ」
「お前たちのことだ」と祖父は顔も上げずに言いそれから帳簿の上で指を止めた。電話が鳴ったのはその直後七時を十分ほど回ったころである。
二
受話器を取ったのは祖母で二言三言やり取りしたあと黙って湊に差し出した。向こうから聞こえてきたのは若い男の声で落ち着いているようでいてところどころ息が浅い。
「朝比奈湊さんですか……佐伯翔太といいます。与作の孫です」
湊は手帳を開き第二本の行を指で押さえた。「お祖父さんが来るって」
「はい。今日の昼過ぎの便で東京に着きます。祖父がどうしても自分で行くと言い張りまして私が付き添うことになりました」と翔太は言いそこで少しだけ言葉を切った。「それと先に伝えておきたいことがあります……祖父の右手の上に白い糸が浮いているのはもう一ヶ月になります。それが昨夜から少しだけ動き出したんです。回り始めたというか」
湊は瓶を並べた作業台に目をやりハルとむすびの二つがいつもと同じ脈で光っているのを見た。「分かりました……気をつけて来てください」
電話を切って振り返るとひまりが右手を握って立っていた。
「動き出したって」
「うん」と湊はうなずいた。「佐伯さんの一本は呼ばれてから一ヶ月……うちのともしびと同じだ。巌さんのときも浮いて回ってそれから動かなくなった」
「動かなくなる前に名を呼ばないと」
「消える」と湊は言った。「だから昼までに準備をする」
三
準備というほどのことはなかった。湊がしたのは手帳を読み返すことと瓶を二つ清潔な布で包み直すことだけである。それでも昼までの三時間は妙に長かった。
十時を回ったころ雫が来た。珍しく私服で肩に薄い鞄を掛けている。
「札幌の件詰めた」と彼女は座るなり言った。「看護師の名は柏木志乃。昭和の終わりの時点で三十四歳今は六十四だ。札幌の市立病院に長く勤めていた」
「行方不明になったのは」
「一ヶ月前」と雫は鞄から一枚の紙を出した。「十月の二十日ごろから連絡が取れずアパートはもぬけの殻だった。ただ——」
彼女は指で紙の下の方を押さえた。「大家の証言がある。九月の終わりごろから若い男が時々訪ねて来ていた。背の高いコートの男だ」
一ノ瀬が障子の脇で腕を組んだ。「コートか」
「十一月になってもコートを着ていたと」と雫は言った。「青森の佐伯さんのところに来た男と同じだな」
四
「冬吾さんの手帳には」と湊は開いたページをなぞった。「第三本・預けた。妻の名でと書いてある……この妻の名でというのがずっと引っかかっていたんです」
「分かった」と雫はうなずいた。「冬吾の妻だ……柏木志乃は天城冬吾の妻の同僚だった。同じ病院の看護師だ」
居間が静かになり祖母が火鉢に炭を一つ足した。
「冬吾さんはなぜ自分の名前で預けなかったんだ」と祖父が低い声で訊く。
「預けられなかったからだ」と雫は答えた。「当時冬吾はもう研究の内部で名前を追われ始めていた。自分が動けば預け先が辿られる……だから妻の名前で預けた。柏木志乃は冬吾の研究を何も知らなかった。ただ同僚の夫が一本置いていったそれだけだ」
「志乃さんは四十年それを」とひまりが呟くように言った。
「持っていた」と雫は頷いた。「そして一ヶ月前に男が来た……同じ手順だ。断られて名を呼ばれて動き出した。違うのは一つだけだ」
「なに」
「志乃は家にいなかった」と雫ははっきりと言った。「佐伯さんは断って家にいた。巌さんもいた。だが志乃はいない……抜かれたあとだ」
五
「抜かれた者は抜いた者のそばにいる」
湊は昨夜胸の奥で聞いた声をそのまま口に出した。ひまりが顔を上げる。
「どういう意味」
「分からない」と湊は首を振った。「守り手がそう言った……抜かれた者は抜いた者のそばにいると」
雫はしばらく黙ってそれから鞄の中の紙をもう一枚机の上に出した。写真だった。アパートの室内で物が少なく机の上に湯呑みが一つその脇に一枚の紙が置かれている。
「志乃のメモだ」と雫は言った。「大家が撮って送ってきた……読めるか」
湊は写真を覗き込み細い字で書かれた一行を声に出して読んだ。
「名を呼ばないで」
一ノ瀬が息を呑んだ。「呼ばれたのか」
「分からない」と雫は言った。「だが志乃は知っていた。自分の体のものが動き出すことを。だからメモを残した」
六
その時卓上でハルとむすびが同時に強く光り湊は胸の奥で声が重なるのを聞いた。
『——佐伯与作が近づいている』
『あの一本が近づいている』
『昼過ぎだ……急げ』
湊は立ち上がった。「佐伯さんが着く」
「どうして分かる」と一ノ瀬が訊く。
「守り手が言った」と湊はコートを手に取った。「……一本が近づいてると」
駅までの道を四人で歩いた。十一月の風はもう冬の匂いがした。ひまりは右手をコートのポケットに入れたままその中で時々指を開いたり閉じたりしていた。
改札を出てきたのは二時を少し回ったころだった。車椅子を押す若い男とその上に痩せた老人が一人。老人の右手は膝の上で開かれていて掌の三センチほど上に白い糸が浮いていた。
七
佐伯与作は思っていたよりずっと静かな顔をしていた。海の男の顔である。皺が深く日に焼けていてけれど目だけは若い。
「朝比奈さんか」と老人は車椅子の上から言った。「……電話の声のとおりだな」
「よく来てくださいました」
「来たかったんだ」と佐伯は低く笑った。「四十年預かった。返すのはわしの仕事だ」
湊は佐伯の右手を間近で見た。巌のときと同じ浮いた糸である。けれど佐伯のそれはゆっくりと回っていてまだ止まってはいなかった。
「急ぎます」と湊は言った。「この糸は回らなくなったら消えます」
「分かってる」と佐伯は頷いた。「……で誰が名をつける」
「決めていません」と湊は正直に答えた。「名をつけた者が受け取ることになります……あなたの体では受け取れない」
「ああ」と佐伯は自分の右手を見た。「わしの体はもう器じゃない……四十年持ってすり減った」
八
薬店に戻り佐伯は調合台の前に座らされた。翔太がその背に手を添えている。
「翔太」と佐伯が孫の名を呼んだ。「お前がつけるか」
翔太は首を振った。「俺は何も知らないんです。この一ヶ月祖父の手の上で何が起きてるのかもやっと聞いたくらいで……知らない者が名をつけちゃいけません」
「律儀なやつだ」と佐伯は笑った。
その時一ノ瀬が前に出た。「私がつける」
全員が彼女を見た。
「いいのか」と湊が訊く。
「いい」と一ノ瀬は断言した。「あの屋上で四人で背負うって決めた。ひまりが一本持った……なら次は私だ。順番だろ」
ひまりが右手をポケットから出して掌の白い点を一ノ瀬に見せた。「熱いよ……ずっと熱い」
「構わない」と一ノ瀬は笑った。「もともと熱いのは得意なんだ」
九
「名は」と湊が訊いた。
一ノ瀬は佐伯の開いた右手をじっと見た。日に焼けた節くれだった網を引いてきた手である。四十年一本を握っていた手だ。
「しおじ」と彼女は言った。「……佐伯さんが四十年見てきた海の道。そう呼ぶ」
佐伯の目が見開かれた。「……しおじか」
「だめですか」
「いや」と佐伯は首を振りそれから深く息を吸った。「いい名だ……わしの船が毎朝出て行った道だ」
白い糸が止まり回るのをやめた。そして声がした。まだ喋り方を覚えていない声だった。
『——しおじ』
『その名は海のものだ』
『私は四十年海のそばにいた』
『だからその名をもらう』
湊は両手を糸の下に差し入れ掌を上にして構えた。「結びます」と彼は言った。「一ノ瀬さんの手に渡します……痛みがでるかもしれません」
「かまわない」と一ノ瀬は右手を出した。
「途中でやめられません」
「やめる気はない」
十
白い糸が湊の掌に落ちた。冷たくてそれから熱くなった。湊は両手でそれを包み指先から白い光を伸ばす。細い一本の糸が一ノ瀬の右手の手のひらの真ん中に触れた。
『結べ』
声が重なった。
『四十年の端を』
湊は息を吸った。
「——しおじ」
糸が動き一ノ瀬の手のひらに吸い込まれるように入っていく。皮膚の下を白い光が走り手首へ腕へ。一ノ瀬は歯を食いしばりひまりのときと同じで声は出さなかった。
光が止まり一ノ瀬の右手の掌の真ん中に小さな白い点が一つ残った。
「……熱い」と一ノ瀬は右手を握った。「でも悪くない」
佐伯が右手を動かした。指を曲げ握り開く。「……動く」と老人は自分の手を見ていた。「四十年握ったまま動かんかった手が動く」
翔太が祖父の肩に顔を埋めた。
十一
その夜四人と翔太は居間に集まった。佐伯は客間で眠っている。四十年ぶりに手が軽くなったからだろうと祖母が言った。
「これで三本だ」とひまりが右手を開いた。「ともしびとしおじ。それから朝比奈くんのむすび」
「俺のは十三本目だ」と湊は言った。「冬吾さんが最後に預けようとして預けられなかった一本……だから数え方が違う」
「では十一本のうち二本がこちらにある」と雫は指を折った。「向こうには三本……残りは六本だ」
「六本」と一ノ瀬が繰り返した。
「行き先は手帳に書いてある」と雫は写しを机の上に出した。「問題はそのうちの一本が札幌の柏木志乃だということだ……それと天城聖良の面会申請は企画調整室がまだ横から押さえている。あちらも諦めていない」
その時雫の携帯が鳴った。彼女は一瞥してすぐに耳に当てた。話しているあいだに顔から血の気が引いていく。
「……分かった。すぐに向かう」
電話を切って彼女は四人を見た。「柏木志乃が見つかった」
「どこで」と湊が訊く。
「東京だ」と雫は低く言った。「新宿の繁華街の路地で……保護したのはうちの巡回だ。本人は生きている。名前も覚えている。ただ——」
彼女はそこで一度口を閉じた。
「彼女は言っている……『若い男と一緒だった』と」
居間が静かになり火鉢の炭が一つ崩れた。
湊の胸の奥で守り手たちの声が重なった。
『——抜かれた者は』『抜いた者の、そばに、いる』




