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ダンジョン薬師の隠し秘術 〜世界初の錬金術師になった内気な僕は、正体を隠して最強へ至る〜  作者: 障子


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第四十三話 巌の右手と、受け継がれる一本

夜の十一時四十分。篠宮家の表門の前に、車は、二台とも、なかった。


「……いない」


ひまりが、門の前で、立ち止まった。


「今朝、停まっていた、あの二台か」


「そう。……もう、ない」


一ノ瀬が、門の脇の、砂利の跡を、見た。タイヤの痕が、二筋。片方は、奥へ。もう片方は、外へ。


「入って、出てる」 彼女は、低く言った。「少なくとも、一台は」


「保護行政の、車か」


「番号、同じだった」 一ノ瀬は、うなずいた。「一昨日、あの施設の前に、停まっていた。……設楽の、ところのだ」


門は、開いていた。家人が開けたのではない。最初から、開いていた。


庭の石畳を、月明かりが、白く、切っている。母屋の灯りは、一階だけ。二階は、真っ暗。


奥から、老いた男が、小走りに出てきた。作務衣の裾を、片手で押さえている。


「ひまりお嬢様」


「庄司さん。祖父は」


「書斎です。動かしてはおりません。……医者は、呼んでおりません」


「なぜ」


「当主が、呼ぶなと」 老僕は、声を落とした。「『医者には、見せられん』と。……あの、右手のものを」


二


書斎は、母屋の奥、庭に面した六畳だ。


障子が、半分だけ開いている。中は、灯りを落としていた。


畳の上に、巌が、横たわっていた。座布団を枕にして、両膝を立てている。着物は、着崩れていない。息は、荒くない。


右手だけが、開いていた。


手のひらを上にして、指を、すべて、伸ばしている。その三センチほど上に——白い糸が、浮いていた。


太さは、髪の毛ほど。長さは、掌より、少し長い。ゆっくりと、回っている。止まったままの、糸車みたいに。


「巌さん」 ひまりが、膝をついた。


「……来たか」 巌の声は、低く、掠れていた。「遅かったな」


「ごめんなさい」


「謝るな」 老人は、天井を見たまま、言った。「わしが、呼んだのは、お前じゃない。……庄司が、勝手に、電話をかけた」


老僕が、うつむいた。


その時、湊の胸の奥で、光が、痛んだ。


声が、重なった。


『——あれが、一本目だ』


『四十年、あの掌に、いた』


『巌は、名を、呼ばなかった』


『だから、あれは、外へ、出ようとしている』


三


「巌さん」 湊は、障子の内側に、膝をついた。「朝比奈湊です。……その糸、放っておくと、消えます」


巌が、初めて、こちらを見た。


老人の目は、昏くはなかった。まだ、光を溜めている。けれど、その光は、ずいぶん長いこと、何かを見続けてきた目だった。


「知っておる」 巌は、言った。「名をつけねば、消える。……四十年、それを知りながら、わしは、名をつけなかった」


「なぜですか」


「名をつければ、わしが、受け取ることになるからだ」 巌は、静かに言った。「この一本は、そういう、できものだ。……冬吾が、そう、作った」


「冬吾さんに、会ったことが」


「会った」 巌は、目を閉じた。「昭和の終わりだ。あの人は、わしの書斎に、一人で来た。硯を、借りた。……手紙を書くから、と」


「手紙」


「『私が預けたものを、お前の家の者が、持っている』と、そう書いた」 巌は、低く笑った。「わしは、断った。うちは、書道の家だ。魔力なんぞ、縁がない。……だが、冬吾は、『墨を、つけろ』と言った」


「墨」


「わしは、硯で墨をすった。冬吾は、わしの右手を取った。手のひらに、あの一本を載せた。……そして、言った。『手を、閉じろ』」


老人は、右手を、見下ろした。


「閉じた。四十年、開かなかった」


四


その時、書斎の机の上で、何かが、光った。


湊は、立ち上がって、机に近づいた。


硯があった。墨が、すってある。まだ、乾いていない。筆が一本、置いてある。筆先は、濡れていた。


そして——台帳が、開いていた。


第十三本の行が、見える。そこに、篠宮巌の名。


「……ひまりさん」


「なに」


「これ、あなたが、戻した、と」


「戻した」 ひまりの顔が、強張った。「夕方、撮って、元の場所に戻した。……開いたままじゃ、なかった」


一ノ瀬が、障子の外を、見た。それから、声を落とした。


「誰か、いたな」


「いた」 巌が、畳の上で、言った。「わしが倒れる、十分ほど前だ。……顔は、見ておらん。背中だけ、見た」


「誰です」


「分からん」 巌は、天井を見た。「ただ、台帳を開いて、筆を取った。……わしの右手を見て、笑った」


湊は、机の上の筆を見た。


そして、巌の右手を見た。


開いたままの、右手。


老人は、ゆっくりと、右の肘を立てた。手首を返した。指を、曲げようとした。


曲がらなかった。


指は、伸びたまま、小刻みに震えている。何かを掴もうとしている。握ろうとしている。けれど、力が入らない。


「筆を、取れ」 巌は、言った。「台帳に、書く。……うちの習いだ。受け渡しは、当主の手で、書く」


ひまりが、筆を取って、差し出した。


巌は、右手を伸ばした。


指先が、筆に、触れた。


触れた、だけだった。


筆は、畳の上に、落ちた。


墨が、座布団の端に、飛んだ。黒い点が、三つ、四つ。


巌は、しばらく、自分の右手を見ていた。


それから、静かに、言った。


「……四十年、握っておった手が、動かん」


五


「ひまり」


「はい」


「右手を、出せ」


ひまりが、膝をついて、右手を差し出した。白い手だった。火属性魔法の使い手の手だ。


巌は、その手を見て、それから、首を振った。


「だめだ」


「なぜ」


「お前は、うちの、火だ」 巌は、言った。「魔力の通り道が、もう、決まっておる。そこへ、これを入れたら——」


『入る』


湊の胸の奥から、声がした。重なった、けれど、はっきりと。


『この一本は、四十年、篠宮の手にいた』


『冬吾は、はじめから、そう作った』


『預け先の家の、血に、馴染むように』


『篠宮巌の右手は、四十年、そのために、あった』


巌の目が、見開かれた。


「……何が、聞こえる」


「守り手です」 湊は、言った。「冬吾さんが集めた、回復魔法使いの、先代たち。……今は、俺の中に、います」


巌は、長く、息を吐いた。


「冬吾」 老人は、天井に言った。「お前は、最後まで、先を読む男だったな」


六


「ひまり」 巌は、言い直した。「名を、つけろ」


「私が」


「わしは、四十年、つけなかった」 老人は、目を閉じた。「つければ、わしが受け取ることになる。……わしは、次に渡すつもりだった。だが、渡す相手を、決められなかった。お前を、巻き込むのが、怖かった」


ひまりは、右手を出したまま、動かなかった。


「ひまりさん」 湊が、言った。「無理に、とは、言いません」


「……朝比奈くんは、どう、したの」


「ハルに、名をつけました」 湊は、答えた。「むすびも、俺が結びました。……だから、二本、俺の中に、あります」


「重い?」


「重いです」 湊は、正直に言った。「でも、一人で十三本抱えるよりは、ましです」


ひまりは、笑った。掠れた、短い、笑いだった。


「それ、祖母さんに、言われたんでしょ」


「……分かりますか」


「分かる」 ひまりは、右手を、まっすぐに伸ばした。「——私も、抱える。一本くらい」


七


「名は」 湊が、訊いた。


ひまりは、しばらく、考えた。


それから、畳の上の、落ちた筆を見た。墨の、黒い点を見た。四十年前、この書斎で、硯をすった、老人の手を思った。


「ともしび」 ひまりは、言った。「……四十年、消えなかった、灯り。そう、呼ぶ」


その瞬間、巌の右手の上の、白い糸が、止まった。


回るのを、やめた。


『——ともしび』


声が、した。まだ、喋り方を覚えていない声だった。


『その名は、いい』


『四十年、私は、消えなかった』


『だから、その名を、もらう』


湊は、両手を、糸の下に差し入れた。掌を、上にして。


「結びます」 湊は、言った。「ひまりさんの手に、渡します。……痛みが、出るかもしれません」


「かまわない」


「途中で、やめられません」


「やめる気は、ない」


ひまりの声は、巌の声と、よく似ていた。血の、声だった。


八


白い糸が、湊の掌に、落ちた。


冷たかった。それから、熱くなった。


湊は、両手で、糸を包んだ。指先から、白い光が伸びる。細い、一本の糸。それは、ひまりの右手の、手のひらの真ん中に、触れた。


『結べ』


声が、重なった。


『四十年の、端を』


湊は、息を吸った。


「——ともしび」


糸が、動いた。


ひまりの手のひらに、吸い込まれるように、入っていく。皮膚の下を、白い光が走る。手首へ、腕へ。ひまりは、歯を食いしばった。声は、出さなかった。


光が、止まった。


ひまりの右手の、手のひらの真ん中に、小さな、白い点が、一つ、残った。


それだけだった。


「……終わり、ました」


ひまりは、右手を握った。開いた。握った。


「熱い」 彼女は、言った。「でも、痛く、ない」


その時、畳の上で、巌が、右手を動かした。


指が、曲がった。


握った。開いた。もう一度、握った。


「……動く」 老人は、自分の手を見ていた。「動くぞ」


九


「台帳を、持ってこい」 巌は、言った。


ひまりが、机から、台帳を取った。第十三本の行が、開いている。


「書け」 巌は、湊を見た。「わしの、代わりに」


「俺が」


「うちの習いは、当主の手で、書く」 巌は、静かに言った。「だが、今、この部屋で、わしの手は動かん。動いたのは、右手だけだ。左手で書けば、習いが崩れる。ならば、証人に書かせる」


「証人」


「お前は、今日、この部屋で、一本が渡るのを見た」 巌は、言った。「見た者が書く。それも、習いのうちだ」


湊は、筆を取った。


墨を、つけた。


巌が、枕の上から、読んだ。


「『第十三本。篠宮巌より、篠宮ひまりへ、受け渡し』」


湊は、書いた。細い、几帳面な字になった。自分の字では、なかった。けれど、手は動いた。


「『名、ともしび』」


湊は、書いた。


「『立会い、朝比奈湊』」


最後の一行を書き終えた時、湊の胸の奥で、守り手たちの声が、静かに重なった。


『——これで、二本が、動いた』


『残りは、十一本』


『だが、一つだけ、忘れるな』


『十三本目の欄に、名前を書き足した男が、まだ、この家に、いる』


十


障子の外に、影が、立った。


音は、しなかった。ただ、庭の月明かりを遮るように、人の形が、障子に映った。


「——父さん」 ひまりが、言った。


障子が、開いた。


四十代の後半の男だった。着物ではない。スーツでもない。薄い室内着のまま、庭に出ていた。足元は、裸足だった。


「ひまり」 男は、静かに言った。「その手を、見せなさい」


「見せない」


「見せなさい」 男は、もう一度、言った。それから、畳の上の巌を見た。「父上。……遅くなりました」


「遅い、ではない」 巌は、言った。「お前は、最初から、ここに、いたな」


男は、答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


「台帳に、わしの名を書いたのは、お前だな」 巌は、続けた。「十三本目を、わしに受け取らせるつもりだった。……なぜだ」


男は、しばらく、障子の枠に手をかけた。


それから、低い声で、言った。


「家の外に、出したく、なかったからです」


「外に」


「あの一本は、四十年前から、うちのものです」 男は、湊を見た。「よそ者が、持って行くものでは、ない」


そして、ひまりの右手を、見た。


掌の、白い点を。


「……それを、渡したな」 男の声が、少し、低くなった。「父上。あの子は、家を、出る。外へ、行く。……だから、渡したく、なかった」


月明かりが、畳の上を、白く切っていた。


ひまりの右手の、掌の白い点が、その光を、受けていた。


湊の胸の奥で、もう一つの声が、した。十八年、誰にも呼ばれなかった、あの声だった。


『——巌』


それは、名だった。


この部屋の、老人の名を、瓶の中から、呼んでいた。

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