第四十二話 最初の預け先と、割れた家
メッセージの続きは、電話では来なかった。
来たのは、ひまり自身だった。
夜の十時前、薬店の裏口を、ノックも控えめに叩く音がした。出ると、篠宮ひまりが、制服の上に薄いコートを引っかけ、冬の色の顔で立っていた。
その半歩後ろに、一ノ瀬。
「遅くに、すみません」 ひまりは頭を下げた。「——上げてもらえますか。表からは、来られなかった」
「……どうして」
「誰かに見られたら、まずいから」 一ノ瀬が、低い声で言った。「今朝から、篠宮の家の周りに、見慣れない車が二台いる」
祖母が奥から顔を出し、二人を居間へ通した。湯呑みが四つ、膳に並んだ。
ひまりは、鞄から、紙の束を出した。撮影したものだった。
「祖父の書斎から、出てきた」 彼女は、その一枚を、膳の真ん中に置いた。「旧研究部門の、試料体預け先台帳。……写しだけど、原本は、まだ戻してある」
二
紙には、十三の行があった。
縦に並んだ名の欄。その多くは、姓だけだったり、土地と職だけだったりした。
『第一本 預け先 篠宮家(当主代々) 昭和の終わり』
祖父が、その行を、指で押さえた。
「……最初から、あんたの家か」
「はい」 ひまりは、うなずいた。「一番最初の一本は、うちに預けられている。代々、当主が受け継いでいる、と書いてある」
「今の当主は」 祖母が訊いた。
「私の祖父です」
居間が、静かになった。
膳の端で、ハルの瓶と、むすびの瓶が、並んで光った。ゆっくりと、同じ脈で。
『そうだ』
胸の奥から、声がした。
『篠宮は——冬吾の、最初の預け先だ。明治の終わりではない。昭和の終わり。……あの家の当主は、四十年、一本を、抱いている』
湊は、息を飲んだ。
「四十年」
「朝比奈くん」 ひまりが、顔を上げた。「続きを、聞いて」
彼女は、紙の一番下を指した。
『第十三本 預け先 ——』
そこには、名前が、書いてあった。
『篠宮 巌』
そして、その字だけが、他の十二行と、明らかに違っていた。太く、乱れ、後から、書き足されている。
「祖父の、名前です」 ひまりの声が、少し掠れた。「でも、この筆跡は——祖父のものじゃない」
「誰の」
「私の、父のです」
三
湊は、その字を見つめた。
「……どうして、それが分かるんですか」
「見慣れてるから」 ひまりは、苦笑した。「子どもの頃から、書類の隅に、あの字を見てきた。書道は、うちの家の嗜みです。だから、隠せない」
一ノ瀬が、腕を組んだ。
「つまり、あんたの父親が、あとから当主の名前を書き足した、と」
「そういうことになる」
「なんのために」
「分からない」 ひまりは、首を振った。「でも、十三本目の行は、もともと空欄だった。冬吾さんの手帳にも、そう書いてあるんでしょう?」
湊は、うなずいた。
『第十三本。宗一に、頼むつもりだった。……やめた』
空欄。行き先なし。十八年間、真壁宗一の体に残っていた、あの一本。
「冬吾さんは、十三本目を、誰にも預けなかった」 湊は言った。「でも、この台帳には、後から、あなたの祖父の名前が入っている。……誰かが、当主を、十三本目の受け手にしようとした」
「そういうことだ」 ひまりは、膝の上で、手を握った。
祖父が、低く唸った。
「……その一本は、もう、ここにある」
膳の上で、むすびの瓶が、一度、強く光った。
「間に合わなかった、ということだな」 祖父は言った。「書き足した男は、十三本目を、当主の体に、入れようとした。だが、その一本は、別の男の腕に残っていた。……だから、あんたの家の誰かは、今も、探している」
四
十一時を回った頃、雫に電話を入れた。
簡潔に、三つのことを伝えた。台帳のこと。第一本が篠宮家にあること。十三本目の欄が、後から書き足されていること。
受話器の向こうで、雫は、しばらく黙っていた。
「——記録を、先に固めろ」
「はい」
「台帳の原本は、動かすな。写しの撮影日時を、全部残せ。ひまりさん、聞こえるか」
「聞こえます」 ひまりが、受話器に向かって言った。
「あなたは、明日、家を出る前に、その写しを私のところへ寄越せ。ギルドの受付で、受理番号を取れ。……家の中の者に、先に触らせるな」
「分かりました」
「それから、朝比奈」 雫の声が、一段低くなった。「篠宮家へ、踏み込むな」
「……どうしてですか」
「今は、証拠が、向こうの家の中にある」 雫は言った。「こちらが踏み込めば、向こうは『外部の干渉』と言える。だが——台帳を、ギルドの受理記録に通しておけば、話が変わる。あれは、公文書の写しになる。誰も、消せなくなる」
電話が、切れた。
ひまりは、膳の上の紙を、丁寧にたたんだ。
「雫さんは、いつも、そう」
「そうですね」
「強い」 ひまりは、少しだけ笑った。「私は、そこまで、強くない」
五
それでも、湊は言った。
「明日、篠宮さん」
「なに」
「俺は、あなたの祖父に、会いたい」
ひまりは、顔を上げた。一ノ瀬が、目を細めた。
祖父が、火鉢のそばで、手を止めた。
「行くな」
「祖父さん」
「行くな、と言った」 祖父は、こちらを見ないまま、言った。「お前、真壁の腕から、一本を抜いたな。それは、もう仕方がない。あの男の体は、あと何年も、もたなかった。……だがな、人の体に手を突っ込むというのは、そういうことだ」
「分かってます」
「分かってない」 祖父は、初めて、湊を見た。「お前は今、二本、抱えてる。ハルと、むすびだ。あと十一本、どこかにある。……お前は、それを、全部集めるつもりか」
「……まだ、決めてません」
「決めてない、と言いながら、当主に会いに行こうとしてる。会えば、抜くことになる。抜けば、三本目だ」
祖母が、湯呑みを置いた。
音が、やけに、大きかった。
「湊」 祖母は、静かに言った。
「はい」
「あんたは、器になりたいのかい」
湊は、言葉に詰まった。
「冬吾さんは、十三本を、一人で集めようとした」 祖母は続けた。「あの人は、賢い人だった。だから、分けられるだけ、分けた。それでも、最後には、抱えすぎた。……あんたは、その、最後の遠い親戚みたいなことを、しようとしてるんだよ」
「俺は、ただ——」
「ただ、何」
「放っておけないだけです」 湊は、はっきりと言った。「四十年、一本を抱えてる人がいる。名前をつけられた人が、瓶の中に、一人でいる。……知った以上、俺は、知らないふりができない」
祖父は、長く息を吐いた。
「それが、一番、危ないんだよ」 老人は、そう言って、それきり口を閉じた。
六
一ノ瀬が、口を開いた。
「朝比奈」
「なに」
「お前の祖父さんの言うことは、正しい」 彼女は、膳の上の紙を、顎で指した。「だが、俺は、行く方に一票だ」
一同が、彼女を見た。
「理由は、三つ」 一ノ瀬は、指を折った。「一つ。相手は、後から名前を書き足した。つまり、向こうの家には、まだやる気のある人間がいる。放っておいても、動く。二つ。書き足した相手は、当主だ。……当主本人が、賛成しているかどうかは、分からない。だが、体は、もう関係ないところで狙われてる」
「三つは」
「三つ」 一ノ瀬は、少し黙った。「俺は、一ノ瀬だ。篠宮の家の事情に、口を出す立場じゃない。……だが、あの屋上で、四人で話したろ。あの時に、決めたんだ。面倒ごとは、四人で背負うって」
ひまりが、目を伏せた。
「一ノ瀬さん」
「なんだ」
「ありがとう」 ひまりは、小さく言って、それから、顔を上げた。「——私も、行くべきだと思う」
「ひまりさん」 湊が言う。
「私が、家を割る」 彼女は、はっきりと言った。「祖父は、知らなかったんだ。自分の名前が、台帳に足されていたことを。私が、それを持って、書斎に入る。……うちの家の内輪の話は、うちの人間が、最初に切り出すべきだから」
七
その時、ひまりの携帯が、鳴った。
画面が、光っている。発信者——『篠宮 本家』
ひまりは、一瞬、湊を見た。湊は、うなずいた。
「もしもし」
受話器の向こうの声は、慌てていた。家の使用人の、老いた男の声だった。
『ひまりお嬢様。大変です。……当主が、書斎で、倒れられました』
ひまりの顔から、血の気が引いた。
「原因は」
『分かりません。ただ——』
老いた声が、震えた。
『今、右手を、開いておられるんですが。手のひらの上に、白い糸のようなものが、浮かんでいて。……部屋の灯りを全部消しても、それが、光っておるんです』
膳の上で、ハルとむすびが、同時に、強く光った。
胸の奥から、守り手たちの声が、重なって、響いた。
『篠宮巌が——』
『四十年、抱いてきた一本が、動いている』
『彼は、名を呼ばれていない』
『だから、その一本は、外に出ようとしている』
湊は、立ち上がった。
「篠宮さん。今から、行きます」
ひまりは、携帯を握ったまま、うなずいた。一ノ瀬は、すでに、コートを手に取っていた。
祖父が、背中に、声をかけた。
「湊」
「はい」
「お前が、行くと決めたなら、もう、止めはせん」 老人は、火鉢のそばで、目を閉じていた。「……だが、覚えておけ。あの当主は、四十年、一人で抱えてきた人だ。抜くのは、お前の勝手だ。だが——抜かれた後のことを、考えるのは、あの人の仕事だ」
「分かってます」
「本当に、な」
裏口の戸を開けると、十月の終わりの夜気が、頬を刺した。
その瞬間、胸の奥で、光が、少し、痛んだ。
声が、一つだけ、他の声に混ざらずに、響いた。まだ、喋り方を覚えていない、あの声だった。
『——巌』
それは、名前だった。
十八年、誰にも呼ばれなかった一本が、初めて、誰かの名を、呼んだ。




