第四十一話 緑の筋と、預けられなかった一本
薬店に戻ったのは、十一時を回っていた。
戸を閉め、灯りを落として、湊は奥の居間に祖父母を呼んだ。
「手帳?」
祖母が、茶を淹れながら訊いた。
「はい。戸塚さんから。……冬吾さんの、最後の私物だそうです。人目のないところで開けろ、と」
祖父は、火鉢のそばで腕を組んだままでいた。
「開けろ」
「いいんですか」
「あんたが預かったんだ。開ける権利も、開ける義務も、あんたにある」
祖母が、湯呑みを一つ、膳の真ん中に置いた。誰も飲まない湯呑みだった。
「冬吾さんに、一杯」 祖母は言った。「十八年、待たせた」
湊は、鞄から手帳を出した。
革は、擦り切れていた。角は丸くなり、留め金は片方だけ残っている。開くと、紙は黄ばんでいた。けれど、字は、はっきりと読めた。細くて、几帳面な字だった。
最初のページに、一行だけ書いてあった。
『これは、記録ではない。遺言でもない。ただの、預かり証だ』
二
二ページ目から、名簿が始まっていた。
縦に、名前が並んでいる。姓だけの者もいれば、姓も名もない者もいる。「札幌・看護師」。「青森・漁師」。土地と職だけの者もあった。
そして、それぞれの名の横に、短い書き込みがあった。
『第一本・預けた。昭和の終わり』
『第二本・預けた。本人の了承済み』
『第三本・預けた。妻の名で』
祖父が、身を乗り出した。
「……これは、守り手の預け先か」
「みたいです」
「冬吾は、一本ずつ、人間に預けていったのか」 祖父は低く唸った。「一人に全部を背負わせたら、その人間が潰れる。……だから、分けた。土地も、職も、ばらばらにして」
「これが」 祖母が指を差した。「最後の行」
湊は、ページの下を見た。
そこに、一つだけ、線が引かれていた。
他の行と同じ形の、けれど、名前の書かれていない行だった。
空欄。その脇に、小さく、こう書いてあった。
『第十三本。宗一に、頼むつもりだった』
そして、その下に、消えかけた字で。
『……やめた』
湊は、息を止めた。
「真壁さんだ」
「そうだ」 祖父が頷いた。「冬吾は、最後の一本を、真壁に預けようとした。だが、やめた」
「なんで」
「書いてある」 祖母が、静かに言った。「やめた、と。理由は書いてない。……書けなかったんだろうね」
三
翌朝、八時。
真壁宗一は、約束の十分前に来た。
前より、また痩せていた。上着の袖口から覗く左手首の緑の筋は、昨日より、さらに長い。手の甲の半分まで、届きかけている。
「おはようございます」 湊は、湯呑みを置いた。「手首、見せてもらえますか」
真壁は、黙って腕を出した。
祖父が、虫眼鏡を出して、その筋をなぞった。
「……表面じゃないな」
「ええ」 真壁が言った。「皮膚の下だ。触ると、少し熱い。夜になると、脈を打つ。俺の脈より、早い」
「痛みは」
「ない。ただ、広がる」
祖父は、虫眼鏡を置いて、しばらく黙った。それから、湊を見た。
「湊。お前の体の中に、今、何がいる」
「守り手です」 湊は答えた。「冬吾さんが集めた、回復魔法使いの、先代たち。……昨日、名を与えて、俺の中に来た」
「その連中に、訊けるか」
湊は、目を閉じた。
胸の奥で、光が脈打つ。声が、重なって、返ってきた。
『訊かれるまでもない』
『あの筋は——私たちの、落とし物だ』
『十八年前、冬吾に預けられなかった、一本』
『第十二本までは、行き先があった。第十三本には、なかった』
『だから、逃げた男の体に、そのまま残った』
四
湊は、目を開けた。
「治せます」 湊は言った。「ただ、条件があります」
「なんだ」
「名が要る、と」
真壁は、眉をひそめた。
「名?」
「はい。……この一本は、十八年間、名を持っていない。預け先も、呼ぶ者もいなかった。だから、体から出られない。出たら、消える」
「ハルと同じか」 真壁が、瓶を見た。
「同じです。だから、名を呼んで、迎える者が要る」
真壁は、しばらく、自分の手首を見下ろしていた。
それから、顔を上げた。
「俺が、つける」
「だめです」
「なぜ」
「名をつけた者が、迎える者になるからです」 湊は、はっきりと言った。「ハルを迎えたのは、俺です。名をつけたのが、俺だから。……真壁さんが名をつけたら、この一本は、真壁さんの体に戻ります。戻る場所は、もう、そこしかない」
真壁は、唇を噛んだ。
「……十八年、いた場所だぞ」
「だからです」 祖母が、口を出した。「あんたの体は、もう、器じゃない。十八年、無理をさせた。あと何年もたないよ」
真壁は、目を閉じた。
長い、長い沈黙だった。
やがて、彼は、低い声で言った。
「あんたが、つけてくれ」
五
作業場に、調合台を挟んで、二人が向かい合った。
湊は、ハルの瓶と、空の瓶を一つ、台の上に置いた。
「痛みは、出ます」
「かまわん」
「途中で、やめられません」
「やめる気は、ない」
真壁は、左手を、台の上に載せた。手のひらを上にして、指を開いた。緑の筋が、脈を打っている。
湊は、両手を、その手首の上にかざした。
「呼びます」 湊は言った。「俺が名を呼んだら、来てください。……来たら、もう、真壁さんの体には戻りません」
真壁は、うなずいた。
湊は、目を閉じた。胸の奥の光に、語りかけた。
――出てこい。
――迎える者が、いる。
光が、動いた。
湊の指先から、白い糸が、一本、伸びた。細くて、震えている。それは、真壁の手首の上で、止まった。
『名を』
声が、重なった。
『名を、呼べ』
湊は、息を吸った。
「むすび」
その瞬間、緑の筋が、動いた。
皮膚の下を、うねって、手首から、手のひらへ、指へ。真壁の顔が、歪んだ。歯を食いしばって、声を殺している。
「……っ」
「もう少しです」
白い糸が、緑の筋を、掴んだ。
引き抜く、という感覚ではなかった。結ぶ、という感覚だった。十八年、行き場のなかった一本の端を、湊の糸が、掴んで、結んだ。
真壁の手首から、緑が、消えていった。指の先まで、届いていたものが、手のひらへ、手首へ、腕へと、戻っていく。
そして、緑は、一本の糸になった。
白い、細い、一本の糸。
それは、湊の指先を伝って、空の瓶の中に、落ちた。
六
真壁は、台に、両手をついた。
肩で、息をしていた。
「……消えた」
「はい」
「熱も、脈も、ない」 彼は、自分の左手を、何度も握ったり開いたりした。「十八年、いたのに」
「ここにいます」 湊は、瓶を持ち上げた。
瓶の中に、白い糸が、一本、入っていた。
固まって、いない。動いても、いない。ただ、底に、丸くなって、落ちている。
「これが、預けられなかった一本」
祖父が、瓶を覗き込んだ。
「……糸、だな」
「はい」
「冬吾は、これを、人間に預けようとした。守り手を、一本ずつ、ばらしてな。……だが、最後の一本は、行き先がなかった」
祖母が、台の端で、小さく言った。
「あんたが、行き先になったんだね」
湊は、瓶を、両手で包んだ。
中で、糸が、一度だけ、光った。脈打つように。けれど、緑ではない。白い、静かな光だった。
「むすび」 湊は、呼んでみた。
糸は、丸くなったまま、動かなかった。ただ、光が、少しだけ、強くなった。
「……返事は、しないんだな」
『する』
胸の奥から、声がした。
『私たちが、する。……この一本は、まだ、喋り方を覚えていない』
「喋り方を」
『十八年、誰にも、呼ばれなかったから』
七
昼前、真壁は、帰っていった。
玄関で、彼は、一度だけ振り返った。
「朝比奈」
「はい」
「俺は、冬吾先生に、あの一本を、預かれと言われた」
湊は、黙って聞いた。
「三年前じゃない。十八年前だ。……先生は、俺の手首を見て、言った。『宗一、これは重すぎる。だが、お前なら持てる』と。俺は、断った。研究から逃げるつもりだったからだ」
「それで、やめた、と」
「そうだ」 真壁は、低く笑った。「先生は、断られた相手に、無理に押しつけなかった。……代わりに、その一本は、断った男の体に、残った。皮肉な話だ」
「真壁さん」
「なんだ」
「手首、もう一度、見せてください」
真壁は、袖をまくった。
筋は、なかった。皮膚は、元の色に戻っている。ただ、手首の内側に、細い、白い線が、一本だけ残っていた。傷ではない。跡だった。
「……消えないんですね」
「消えなくていい」 真壁は、袖を下ろした。「十八年、俺の体にいたんだ。跡くらい、残る」
彼は、頭を下げて、出ていった。
八
午後、湊は、雫に連絡を入れた。
『真壁さんの筋、治りました。詳細は、夕方に書面で出します』
返信は、すぐに来た。
『書面を待つ。それと、一つ。保護行政から、照会が来ている。天城聖良への再面会申請について、企画調整室が横から口を出してきた。……向こうも、諦めていない』
湊は、画面を見つめて、それから、瓶を並べた。
一つは、ハル。白い塊。
一つは、むすび。白い糸。
二つを並べると、同じ光で、ゆっくりと、脈を打っていた。
「……これで、二本か」
十三本のうち、二本が、湊の手元にある。
残りの十一本は、どこかの誰かの体の中に、まだ眠っている。
冬吾の手帳には、その行き先が、書いてあった。
『第一本・預けた。昭和の終わり』
『第二本・預けた。本人の了承済み』
『第三本・預けた。妻の名で』
札幌の看護師。青森の漁師。土地と職だけの、十一の行き先。
湊は、手帳を閉じた。
その時、卓上で、携帯が震えた。
篠宮ひまりからの短いメッセージだった。
『家の中で、動いた。祖父の書斎から、旧研究部門の名簿が出てきた。……第十三本の預け先に、うちの人間の名前が、書いてある』
湊は、立ち上がった。
胸の奥で、守り手たちの声が、重なった。
『篠宮は——』
『冬吾の、最初の、預け先だ』




