第四十話 守る者の名と、国との最初の衝突
設楽実の手が、テーブルの上の瓶へ伸びた。
その手を、戸塚玲子が、上から押さえた。
「止めなさい」
「戸塚主任」 設楽実は、手を引かなかった。「あなたは立会人だ。職務の範囲を、越えています」
「私は第二課の主任だ」 戸塚は静かに言った。「この部屋で、保護対象者に接触する人間を選ぶ権限は、私にある。……あなたは企画調整室。管轄が、違う」
設楽実は、眼鏡の奥で、少しだけ笑った。
「管轄、ですか。懐かしい言葉だ」
彼は、内ポケットから一枚の紙を出した。折り目ひとつない、白い紙だった。
「保護行政、企画調整室、通達第四十七号。天城冬吾が遺した研究試料体について、一時保管を企画調整室が行う。……押収ではありません。保管です。物言いは、つけられないでしょう」
雫が、その紙を横から覗き込んだ。
「一時保管の執行には、第二課の副署が要る」
「要りますね」
「なら、無効だ」 雫は言い切った。「戸塚さんは、署名しない」
「では、私が上位の署名を取る」 設楽実は、紙をまた内ポケットに戻した。「三十分で、取れます。……その間に、あなたたちが何をするか。それを、私は見ているだけです」
二
時計は、六分。
聖良は、まだ瓶に手を重ねていた。
彼女の手のひらから、白い光が、細く、震えながら伸びている。テーブルを渡り、瓶を通り、湊の胸に繋がっている。その光の糸が——少しずつ、細くなっていた。
「天城さん」 湊は声を落とした。「手、離した方が」
「離せない」 聖良は首を横に振った。「離したら、切れる。……この人たちは、ずっとここにいた。誰も、名を呼ばなかった。だから、名を呼ばれると、戻れなくなる」
設楽実が、その言葉に反応した。
「名、ですか」 彼は少し、首をかしげた。「なるほど。冬吾さんは、最後まで学者らしいことをしていたんですね」
「どういう意味ですか」 湊が訊く。
「研究試料には、管理名がつきます」 設楽実は淡々と言った。「天城冬吾が遺した試料体は、二つ。第一号は十八年前に行方不明。第二号は——」
彼は、瓶を見た。
「『試料体・第二号』。それが、国があれにつけた名前です。……番号、と言い換えても構いません」
湊の胸の奥で、繋がった光が脈打った。
痛い、という感じだった。番号を呼ばれた時の、痛み。
三
四分。
聖良の指が、白くなっていった。肌の下から、光が透けている。回復魔法を使っている時の、あの光だ。
「やめてください」 湊は立ち上がった。「それ、寿命を削ってます」
「削ってない」 聖良は笑った。掠れた笑いだった。「ただ、貸してる。……この人たちに、体を貸してる」
「だから、だめだ」
「だめでも、いい」 聖良は湊を見た。「あなたが持って帰って。ここに置いたら、国が番号をつける。名を、消す」
設楽実が、腕時計を見た。
「二十分まで、あと四分。……そろそろ、下が動きますよ」
廊下で、また足音がした。今度はもっと多い。五つ。六つ。規則正しく、二列で近づいてくる。
雫が、携帯を耳に当てた。
「査定部、御子柴。緊急。保護行政、第一施設、三階会議室。……うん。うん。そう。至急、来て」
戸塚が、扉の前に立った。
「この部屋には、入れない」
「暴力はやめましょう」 設楽実は静かに言った。「私たちは国の機関です。あなた方も、そうです。……手続きで片づく話です」
その時、湊は瓶を抱き直した。
そして、瓶の中の無数の光の糸に、語りかけた。
四
「君たちは、器じゃない」
声に出した。部屋の中の全員が、振り向いた。
「俺の祖父が、言ってた。学者は、完成させたがった。だから、君たちは番号になった。……でも、俺は学者じゃない。ただの薬師見習いだ」
瓶の中の糸が、ざわめいた。
「ハルって名前は、俺がつけた。勝手につけた。……だから、君たちにも、つける」
光が、止まった。
「君たちは——守り手だ」
その瞬間、瓶の中の数えきれないほどの糸が、一斉に束ねられた。
点滅でも、波でもない。一本の、太い光の縄。それが、瓶の蓋を内側から押した。
ぱき、と音がした。
蓋が割れた。
白い光が、部屋を埋めた。設楽実が腕を顔の前に上げ、戸塚が聖良を庇い、雫が携帯を落とした。
光の中で、声が重なった。
『守り手。……いい名だ』
『私たちは、名を持たなかった』
『だから、あなたが最初に、名を呼んだ』
『朝比奈湊。……私たちは、その名を覚える』
光は、湊の胸に吸い込まれた。
熱かった。痛かった。けれど、消えなかった。
そして、瓶の中に残ったのは——拳ほどの白い塊、一つ。ハル。
それだけだった。
五
時計は、二分。
設楽実が腕を下ろした。彼の眼鏡に、ひびが入っていた。
「……試料体を、あなたの体に移したんですね」
「移したんじゃない」 湊は答えた。「迎えたんだ。……俺の体の中にいる。だから、あれはもう遺留物じゃない。俺の一部だ」
「そう主張するなら、あなたは国が管理すべき対象を、体内に抱えていることになる」
「そうですね」 湊はうなずいた。「だから正式に届けます。朝比奈湊、探索者登録、薬師見習い。……私の体内にある試料体について、その保管は私が責任を持ちます。回収するなら、探索者法に基づいて、ギルドの査定を経てください」
雫が、携帯を拾い上げて続けた。
「査定は、私が担当します」 彼女は設楽実を見た。「御子柴雫、探索者ギルド査定部。……企画調整室の通達より、ギルドの査定が先に立ちます。管轄の話をするなら、こっちでしましょう」
設楽実は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
彼は踵を返した。扉の前で、一度だけ止まる。
「朝比奈さん。あなたは、国に敵とは呼ばれません」
「……そうですか」
「ええ」 設楽実は前を向いたまま言った。「ただ——管理対象、と呼ばれます。それは敵より、ずっと長く続きますよ」
扉が閉まった。
足音が、遠ざかった。
六
時計が、零を指した。
聖良は椅子に座り込んだ。手のひらから光は消え、肌の色が戻っていた。ただ、呼吸が少し速い。
「……持って帰って」 彼女は言った。「もう、ここにはいられない」
「必ず、また来ます」 湊はハルの瓶を鞄にしまった。「次は、面会じゃなく、迎えに」
聖良は顔を上げた。琥珀色の目が、少しだけ笑った。
「朝比奈、湊」
「はい」
「名前、覚えた」 彼女はそう言って、目を閉じた。「……私も覚えておく。あなたの、名前」
戸塚が、湊の手を握った。皺のある、けれど強い手だった。
「これを」 彼女は、小さな手帳を握らせた。革の擦り切れた、手帳だった。「冬吾の、最後の私物。……開けるのは、家で。人目のないところで」
外に出ると、夜風が冷たかった。
雫が隣を歩きながら言った。
「今日のことは、明日、全部書面にする。通達の無効も、押収の阻止も、全部記録に残す。……あの男は記録を嫌う。だから、記録を増やす」
「はい」
「それと、真壁さんに連絡して」 雫は立ち止まった。「手首の、緑の筋。……あんたの体の中に、今、守り手がいる。あの筋のことも、聞けるかもしれない」
湊はうなずいた。
その時、胸の奥で、光が脈打った。
声が聞こえた。重なった、けれど、前よりずっと近い声。
『あの筋は——私たちの、落とし物だ』
湊は、立ち止まった。
『十八年前、冬吾に預けられなかった、一本。……真壁宗一の体に、残った』
「……治せますか」
声は、しばらく答えなかった。
それから、静かに言った。
『治すには、名が要る』




