第三十九話 二十分の面会と、繋がった声
保護行政の施設は、思っていたよりずっと、普通の建物だった。
駅から歩いて十分ほどの、白い五階建て。受付には観葉植物が置かれ、職員が静かに書類を運んでいる。壁時計の秒針だけが、妙に大きく響いた。
「緊張してる?」
隣を歩く御子柴雫が、前を向いたまま訊いた。
「……してます」 湊は正直に答えた。「手が、冷たいです」
「当たり前だ」 雫は受付票に署名しながら、低く言った。「これから、国に守られている人間に会う。しかも、頼んだのは薬師見習いの肩書だ。向こうが何を思うか、考えただけで胃が痛くなるだろ」
「……慰めてくれてるんですか」
「励ましてる」 雫は票を渡し終えて、振り向いた。「私が曲がったことをやったのは、あんたのためだ。だから、堂々としろ」
受付の奥、通路の突き当たりに、小さな会議室があった。
扉の前に、一人の女性が立っていた。
四十代の後半だろうか。髪は短く切りそろえられ、服はしわひとつない。けれど、その立ち方は、どこか長く、長く、何かを待ち続けた人のそれだった。
戸塚玲子。保護行政第二課主任。
「よく来てくれた」 彼女は、湊の顔をじっと見て、それから、深く息を吐いた。「……あなたが、冬吾さんのものを、持っている人ね」
「はい」 湊は頭を下げた。「朝比奈湊です。よろしくお願いします」
戸塚は、その一言で、少しだけ表情をゆるめた。笑った、というほどではない。けれど、十八年ぶりに、何かが整った、という顔だった。
「時間は、二十分。これを超えると、許可が取り消される」 戸塚は、扉の横の小さなプレートを指で叩いた。「中に入ると、そこからだ。……覚悟は、いい?」
湊は、鞄を胸に抱き直した。
鞄の中には、ハルの入った瓶がある。
事前申告した、唯一の持ち込み品だった。
二
部屋は、六畳ほどだった。
白い壁。丸いテーブル。椅子が三つ。窓には、細かい網が張られている。防護用の網だ、と戸塚は説明した。
そして、窓側の椅子に、その人は座っていた。
「……天城さん」
戸塚が、静かに呼びかけた。
少女が、顔を上げた。
十七か、十八か。湊と同じくらいの年齢に見えた。長い黒髪。白いカーディガン。膝の上で、両手をそろえて重ねている。指は、ほっそりしていた。肌は、少し青白い。
けれど、瞳だけが、妙に強かった。光を溜めた、濃い、琥珀色の目。
「天城聖良です」 彼女は、小さな声で言った。「……あなたが」
「朝比奈湊です」 湊は、椅子の前に立ったまま、頭を下げた。「御子柴さんの紹介で、来ました」
「聞いてる。薬師見習いで、ダンジョンに入って、錬金術を取った人」
「……そこまで」
「私のところには、私のところの情報が来る」 聖良は、すこしだけ、首をかしげた。「ここは、そういう場所だから」
戸塚が、時計を見た。
「十八分。座って」
湊は、聖良の向かいの椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで、一メートルほどの距離。
その瞬間——
鞄の中の瓶が、震えた。
三
「……っ」
湊は、とっさに鞄を押さえた。けれど、遅かった。
聖良の両手が、宙に浮いた。
手のひらが、うっすらと、白く光っている。熱ではない。光そのものが、肌の下から滲み出している。回復魔法の発動の、初動だった。
「天城さん、だめだ」 戸塚が、立ち上がった。「ここで使っちゃ」
「使ってない」 聖良は、答えなかった。答えながら、両手を、テーブルの上に置いた。「……勝手に、反応してる」
そして、彼女の手のひらと、湊の鞄の中の瓶が、同じ光で、結ばれた。
白い糸のような光が、鞄の留め金を通り抜けて、テーブルを横切って、聖良の手のひらに繋がっている。いや——繋がっている、というより。
呼応している。
「これを……」 聖良の声が、少し掠れた。「これを、何て呼んでる?」
「ハル」 湊は、反射的に答えた。「俺が、つけた名前です。……冬吾さんが、作りかけだった、担体」
「ハル」 聖良は、その名を、口の中で転がした。それから、目を閉じた。
「父が、作ってたもの」
「……知ってたんですか」
「知ってる。知らされてる」 聖良は、目を閉じたまま言った。「回復魔法を使うと、寿命が削れる。それを、私だけが知らされてなかった。十六のときに、教えられた。……父は、その前に、もういなかったけど」
指先の光が、震えた。
「父は、私に使わせたくなかった。だから、代わりを、作ろうとしてた。魔力を体に溶かして、治す仕組みを。……それが、ハル」
戸塚が、静かに、目を伏せた。
その仕草が、何より雄弁だった。この十八年、この少女に本当のことを隠し続けてきた大人が、今、やっと、その口を開いたのだと。
四
十四分。
「一つ、訊いていいですか」 湊は、訊いた。
「どうぞ」
「冬吾さんは、この担体に——ハルに、何を、入れたかったんだと思いますか」
聖良は、目を開けた。
「……治癒の担体。媒体。魔力を、体に溶かすための、器」 彼女は、ゆっくりと答えた。「それだけ、聞かされてる」
「でも、違うんじゃないかって、思ってる」
聖良の目が、わずかに見開かれた。
「……なんで、そう思う」
「ハルが、声を出すんです」 湊は、瓶を、テーブルの真ん中に置いた。「見てください」
瓶の中の白い塊が、また、脈打った。今度は、今までより、ずっと、はっきりと。
光が、点滅ではない。波でもない。幾筋もの、細い線になって、瓶の中いっぱいに広がった。
それは、糸だった。
数えきれないほどの、光の糸。
「……なに、これ」
「分かりません」 湊は、首を振った。「でも、昨日、ハルから声がしたんです。会いたい、って。その声は、ハルのものじゃなかった。もっと、奥の。……ずっと、奥の」
聖良が、瓶に、そっと手を伸ばした。
その指が、ガラスに触れた瞬間——
声が、溢れた。
五
それは、一つの声ではなかった。
十、二十、いや——もっと。無数の声が、重なり合って、響いた。
『あるいは、これが』
『これが、聖良か』
『冬吾の、娘か』
『ようやく』
『ようやく、会えた』
湊は、息を止めた。聖良は、指を離さなかった。指先が、白く光っていた。
『私たちは、名前を、持たなかった』
声は、重なったまま、続けた。
『回復魔法を使うたびに、命を、少しずつ、冬吾の研究に、預けた』
『預けられた者たちだ』
『国に、二、三人しか出ない、回復魔法使い』
『その、先代の。先代の、そのまた先代の』
聖良の唇が、震えた。
「……先代、って」
『冬吾は、集めた。私たちが、使い手を、守れるように』
『聖良。あなたは、私たちの、最後の、娘だ』
『私たちが、あなたを、守る』
その言葉が、終わった瞬間——
部屋の時計が、八分を指した。
そして、廊下で、足音がした。
ひとつではない。三つ。四つ。規則正しく、速く、こちらへ向かってくる。
戸塚が、椅子を蹴って立った。
「——来た。上だ」
六
扉が、開いた。
立っていたのは、背の高い男だった。スーツ。眼鏡。名刺は出さず、ただ、部屋の中を一瞥して、それから、聖良を見た。
「天城聖良さん。面会時刻は、ここで終了です」
「まだ八分ある」 戸塚が、前に出た。「誰の指示だ」
「私の指示です」 男は、初めて、戸塚と目を合わせた。「保護行政、企画調整室。設楽実。……弟が、お世話になっております、御子柴さん」
雫の肩が、わずかに、強張った。
設楽実。三年前、真壁宗一に接触した、兄の方。
「面会の中止は、上からの通達です」 設楽実は、淡々と言った。「理由は、保護対象者の、安定状態の維持。……聴取の必要があれば、改めて、許可を、申請してください」
聖良が、立ち上がった。
「この人は、何も、していない」
「していませんね」 設楽実は、うなずいた。「ですが、あなたが、何か、しようとしていた。……それが、問題なんです」
彼の視線が、テーブルの上の瓶に、止まった。
「担体、ですか」
湊は、瓶を、両手で抱えた。
設楽実は、首を、少しだけ、傾げた。
「あれは、十八年前に、冬吾さんが、置いていったものです。……本来、ここにあるべきでは、ない」
その一言に、聖良が、動いた。
彼女は、瓶に、手を重ねた。
光が、走った。
瓶の中の無数の糸が、一斉に、一本に、束ねられた。まるで、結ばれた——はいや、繋がった、一本の、太い光に。
その光は、聖良の手のひらを通って、湊の胸の真ん中に、まっすぐに、伸びていた。
「いや」 設楽実が、初めて、声を、強くした。「それは、外へ」
「——外へ、出したら、どうなるんですか」 湊は、顔を上げて、訊いた。
設楽実は、答えなかった。
聖良が、静かに、言った。
「出したら、消える」 彼女の声は、掠れていた。けれど、はっきりと、していた。「この人たちは、ずっと、ここに、いた。外に、出したら、光のまま、溶けて、消える。……父が、そう、作ったから」
「だから、渡せないんですね」 湊は、設楽実を見た。
「だから、取り上げるんです」 設楽実は、前に、一歩、踏み出した。「天城聖良さんの、安定のために」
湊の胸の中で、繋がった光が、脈打った。
その瞬間、湊は、理解した。
この声は、冬吾が、聖良のために、集めた、盾だった。
そして、いま、その盾は、湊の中に、繋がっている。
設楽実の手が、伸びた。戸塚が、間に、立ちはだかった。雫が、携帯を、握った。
時計は、まだ、八分を、指していた。




