第三十八話 証言者と、天城聖良への面会許可
朝の八時、朝比奈薬店の暖簾をくぐった男は、前よりずっと痩せていた。
真壁宗一。元第二素材応用研究室の副主任。灰色の上着の袖口から覗く左手首に、あの緑の筋が、前会った時より二センチほど長く伸びている。
「お邪魔します」 彼は丁寧に頭を下げた。それから、店の奥から出てきた祖父を見て、少しだけ目を細めた。
「朝比奈の旦那。……変わらねえな」
「あんたが変わりすぎだ」 祖父はぶっきらぼうに言って、調合台の椅子を引いた。「座れ。茶でも飲め」
真壁は素直に座った。湊が湯呑みを置くと、両手で包むように持って、しばらく動かなかった。
「手首、痛みますか」 湊が訊く。
「痛みはねえ。だが、広がってるのは分かる。皮膚の下で、何かが歩いてるみたいな感じだ」
「……歩いてる」
「ああ。俺の体は、あの黒い粉の置き場所にされちまったんだろうよ。十八年前に、な」
真壁は湯呑みを一口含んで、それから顔を上げた。
「御子柴さんのところから、聞いた。設楽、って名前が出たんだってな」
「はい。査定部の設楽巧さんです」
真壁は、首を振った。
「違う」
「……違う?」
「設楽って名字は、一人じゃねえんだよ」 彼は空いた方の手で、湯呑みの縁をなぞった。「俺が三年前に接触されたのは——設楽巧じゃない。設楽『実』。同じ家の、兄の方だ」
祖父が、ぴたりと動きを止めた。
「設楽実」 祖父が復唱する。「聞いたことがある。……もう十年以上前に、旧研究部門を辞めた男だ」
「そう。表向きはな」 真壁は低く笑った。「辞めてない。場所を変えただけだ」
二
真壁の証言は、ぽつり、ぽつりと、しかし正確だった。
三年前の冬。真壁が研究室を追われて間もない頃、彼のもとへ一人の男が訪ねてきた。名刺には、保護行政の外郭団体の名があった。名は、設楽実。
「あんたの研究は、惜しい。もう一度、日の当たる場所でやらないか、と。そう言われた」
「なんて答えたんですか」
「断った」 真壁は断言した。「俺は、天城先生の研究が何に使われようとしているか、途中で気づいちまったからな。だから逃げた。逃げた先で、また同じ顔をされちまったんだ」
「その時、何か言われましたか」
「一つだけ」 真壁は、湊の目をまっすぐに見た。「うちには、二人いる。弟の方が、表に立ってる。……そう言われた」
祖父が、低く唸った。
「表と裏。つまり、査定部の設楽巧は、弟の方。あんたに接触したのは、兄の方。……同じ家の人間が、二つの場所に、それぞれ潜んでいた、ということか」
「そういうことだ。俺はその時、意味が分からなかった。今朝、御子柴さんから弟さんの名前を聞いて、ようやく繋がった」
作業台の隅で、ハルの入った瓶が、一度だけ、強く光った。
真壁はその光を見て、息を呑んだ。
「これが……冬吾先生の」
「担体の、未完成形です」 湊は正直に言った。「冬吾さんが作りかけで、戸塚玲子さんが十八年守ってきたもの。俺は、昨日、ハルって名前をつけました」
「ハル」 真壁は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。「……いい名前だ。冬吾先生は、名前をつけるのを、いつも後回しにしてたからな。完成してから、って」
三
真壁の証言で、一つの輪郭が見えてきた。
天城冬吾の研究は、回復魔法を補うものではなかった。少なくとも、最初の目的は。
「回復魔法は、国に二、三人しか出ない」 真壁は言った。「それ自体は、誰もが知ってる。だがな、知られてないことがある。回復魔法を使える人間は、その力を使うたびに、自分の寿命を削っている」
湊は、声を失った。
「聖良ちゃんも」
「……そうなのかよ」 祖父が、低く訊いた。
「冬吾先生は、それに気づいてしまった。娘が、回復魔法使いとして育っていくのを見てな。だから研究を始めた。回復魔法を使わずに治す、別の道を。……薬草じゃ足りなかった。現代医学じゃ、まるで追いつかなかった。だから、ダンジョンの魔力そのものを、体の中に溶かす方法を考えた」
黒い粉は、その残り滓だった。
魔力を体に溶かす。人間の側に、器を作る。その器を安定させるための、媒体。
「それが、担体か」
「そうだ」 真壁は頷いた。「だが、途中で、別の連中が寄ってきた。体に魔力を溶かせるなら、その体は、どこまで戦えるのか、ってな。……兵器になった」
祖父が、静かに息を吐いた。
「だから、お前は逃げた」
「逃げた。そして、追われる側に回った」 真壁は、自分の手首を見下ろした。「この筋は、俺が引き受けた証拠だ。冬吾先生の研究に、少しばかり協力しちまった。その報いだよ」
四
夕方、探索者ギルドの査定部。
御子柴雫は、設楽巧の件を上に通した後、その足で保護行政への照会を打った。
用件は、一つ。天城聖良への面会申請。
だが、返ってきたのは、あっけない拒否だった。
『該当者は国の保護対象。面会には、保護行政第二課の主任以上の承認を要する』
「主任以上」 雫は、画面を睨んだ。「つまり——戸塚玲子、本人か」
隣で腕を組んでいた篠宮ひまりが、静かに言った。
「うちの家から、口を利こうか」
「やめておけ」 雫は首を振った。「あなたの家の中に、まだ敵がいる。箔をつけるために口を利けば、その瞬間に奴らも知る。……ここは、まっとうに通す」
「まっとうに、か」
「私が、保管記録を盾にする」 雫は、机の上の一枚の紙を指で押さえた。「十八年前、第三ダンジョン中層で回収された樹脂素材。研究流出事案。その記録に、天城冬吾の名と——天城聖良の名が、隣り合って載っている。面会は調査の一環、と読める。」
「強引じゃないか」
「強引だ」 雫は認めて、それから少しだけ笑った。「私は、査定官だからな。強引に問いただすのが、仕事だ」
申請は、二人の連名になった。御子柴雫。それに、朝比奈薬店の薬師見習い、という肩書つきで——朝比奈湊。
五
許可が下りたのは、三日後の夕方だった。
条件は、四つ。
一、面会は保護行政の施設内、立会人一名の面前で行うこと。 二、面会時間は、二十分を上限とする。 三、天城聖良の保護に影響を及ぼす言動を行わないこと。 四、持ち込み品は、事前申告したものに限る。
立会人には、戸塚玲子が指定された。
「戸塚さんが、立会いか」 ひまりが、少し意外そうに言った。
「彼女が入れてくれたんだろう」 雫は、通知の文面を見つめながら言った。「あの人は、十八年、ずっと待っていた。冬吾の作ったものが、誰かに届くのを。……面会が許されるなら、自分が立ち会う。その方が、何かと安全だからな」
湊は、通知を二度読んだ。
二十分。たった二十分。それでも、前へ進んだことは確かだった。
その夜、湊は作業台の前に座り、ハルに話しかけた。
「聖良さんに、会えるよ」
ハルは、波打つように光った。寄せて、返す。まるで、うなずいているみたいに。
「冬吾さんの、娘さんだ」
すると——ハルの中の光が、急に、細く、鋭くなった。
点滅でも、波でもない。糸のように、一本。それは、湊の指先へ向かって、まっすぐに伸びていた。
「……なに、これ」
湊は手を引いた。光の糸は、指先から離れない。
その瞬間、ハルの中から、声がした。
言葉、ではなかった。けれど、意味は、分かった。
会いたい。
それは、ハルの声ではなかった。
——ずっと、奥の、奥にある、別の何かの声だった。
湊は、瓶を両手で抱えた。光の糸は、まだ、指先に繋がったまま、静かに脈を打っていた。




