第三十七話 内部の裏切り者と、束ねられた糸
朝比奈薬店の裏作業場には、まだ日が昇る前から灯りがついていた。
湊は一晩、眠っていない。
椅子に浅く腰かけ、膝の上に置いた硝子瓶を、ただ見つめていた。瓶の中には拳ほどの白い塊。表面は陶器のように滑らかで、けれどところどころ、細い血管のようなものが透けて見える。
ハル。
名を与えたのは、昨日の夜だった。
「……起きてるのか」
呟くと、白い塊の中心が、少しだけ明るくなった。灯りを反射したのではない。内側から、灯したのだ。
湊は息を呑む。握りしめた指先が、少しだけ震えた。
「湊」
背後から声がした。振り向くと、祖父が腕を組んで立っていた。寝間着の上に、古い作務衣を引っかけている。
「……祖父さん」
「名を与えたものは、返事をする」 祖父はそう言って、隣の椅子に腰を下ろした。「だがな、返事をするものは、要求もする。そいつを忘れるな」
「要求って」
「腹が減る、とか。守れ、とか。あるいは——もっと、重いものを」
祖父は瓶を一瞥して、それから孫の顔を見た。皺の奥の目は、静かだった。
「天城冬吾が十八年前に作りかけ、戸塚玲子が十八年守り続けたものだ。素人が一日で従えられる相手じゃない。……だが、素人だからこそ、できる付き合い方もある」
「どういう意味ですか」
「学者は、完成させたがった。お前は、ただ隣にいろ」
祖母が戸口から顔を出した。
「二人とも、朝飯だよ。……湊、今日は学校に行きなさい」
「でも——」
「休むと、それだけで誰かが気づく」 祖母は断言した。「あんたが今一番欲しいのは、時間じゃない。平穏だ。学校はそのために行くんだよ」
白い塊が、また小さく明滅した。
まるで、賛成しているみたいに。
二
昼休みの屋上は、十月の終わりの風でずいぶん冷たかった。
フェンス越しに、街の向こうへ灰色の塔が見える。第三ダンジョンの、外殻だ。
「三通」 篠宮ひまりが、スマートフォンの画面を湊と一ノ瀬の間に差し出した。「天城冬吾の直筆書類は、昨日のうちに三か所へ届いた。ギルドの会長宛て。うち——篠宮家の本家宛て。それから、宛先不明の一通」
「宛先不明?」
「保護行政の内部、とだけ記されていた。今朝、雫さんが調べたけど、受け取り記録が残っていない」
一ノ瀬が腕を組み、低い声で言った。
「残っていないんじゃない。消されたんだろ」
篠宮は答えず、画面を指でなぞった。
「内容の要旨は、三通とも同じ。冬吾は、担体は兵器ではない、と書いている。同時に——兵器にできる、とも書いている」
風が吹いて、彼女の前髪が揺れた。
「そして、共同研究者の名が一つ、記されていた。研究を裏切って、この資料を持ち出した人物の名が」
「誰なんですか」 湊が訊く。
篠宮は少しの間、迷った。それから顔を上げた。
「……ごめん。まだ言えない。実名を出すには、証拠が足りない。それに——」
彼女は唇を噛んだ。
「その名前が、うちの家の関係者なんだ。旧研究部門の、再来の人間の名前なんだよ」
一ノ瀬が静かに息を吐いた。
「身内か」
「身内だ」
篠宮はそう認めて、それでも背筋を伸ばした。
「だから、私が片をつける。これは宣言しておく」
三
夕方の探索者ギルドは、いつもより人で多かった。第三ダンジョン浅層の一部封鎖が長引いて、申請待ちの探索者がロビーに溜まっている。
御子柴雫は、その雑踏を縫って二階の査定部へ上がった。
執務室の扉を閉め、机の上に一枚の記録を置く。
第三ダンジョン中層への立入許可。発行日、四名・昼三時間の限定条件。彼女が取得したものだ。
この申請と交付の履歴は、システム上で三人しか見られない。
自分。査定部管理課の主任。それから、システムの自動記録。
「……いた」
雫は画面をスクロールして、手を止めた。
交付から四十分後。管理課の端末から、外部の見知らぬ中継先へ、一通の送信があった。件名も本文もない。ただ、添付ファイルの名前に、こう書かれていた。
『第三・中層・四名・昼三』
雫の指先が冷たくなった。
四十分。現場に出る前の、ぎりぎりの時間だ。あの日の自分たちが、いつ、どこから、何名で入るのかを、敵はその時点で知っていた。
だから、あの場所に罠があった。
だから、黒い箱が、あの位置に置かれていた。
「設楽さん」
雫はいて、それから席を立った。
設楽巧。四十代半ば。物静かで、仕事が正確で、後輩の面倒をよく見る。三年前、保護行政から出向してきた男だ。
三年前——戸塚玲子の異動歴が空白になった、あの年と同じ。
四
会議室は、狭かった。
雫と設楽が、向かい合って座っている。机の上には、あの記録のプリントが一枚。
設楽はそれを一瞥し、それから眼鏡の奥で、静かに笑った。
「早かったですね、御子柴さん」
「否定は」
「しません」
あまりにもあっさりと、設楽は言った。
「私は流しただけです。あの日の四名、昼三時間。……正確には、もっと前から。あなたが動くたびに、私は上へ報告していた」
「上」 雫が繰り返す。「加賀美局長の、さらに上ですか」
設楽は答えなかった。答えないことが、答えだった。
「倉橋悟は、駒の一つに過ぎません。加賀美も、表に立っているだけの駒です。本当の会議は——名前がない。記録もない。席順もない。ただ、必要な時に、必要な指示だけが降りてくる」
「あなたは、その会議のために、自分の職を捨てたんですか」
「捨ててませんよ」 設楽は穏やかに言った。「私は、二つの場所に同時にいただけです。三年前から、ずっと」
雫は、拳を握った。
三年前。また、三年前だ。戸塚玲子の記録が途切れた年。設楽巧が出向してきた年。真壁宗一が研究室を追われた年。
「……一つ、訊いていいですか」
「どうぞ」
「天城冬吾の資料を、なぜ追ったんですか。あなたは研究者じゃない。研究の内容なんて、興味はないはずだ」
設楽は、初めて、間を置いた。
それから、静かに言った。
「興味がないからです。興味のない人間が、一番使いやすい。……ですが、一つだけ、私にも思うところがある」
「何ですか」
「天城冬吾の研究を、復活させたいと思っている人間は、倉橋だけじゃない」
雫は顔を上げた。
設楽は、正面から彼女を見返した。
「篠宮家の中にも、いる。それだけ言っておきます。……さあ、通報してください。私は逃げません。逃げても、意味がないので」
五
その夜、篠宮ひまりは本家へ帰った。
母屋の奥、祖父の書斎。障子の向こうに庭が広がっているが、灯りはひとつもない。
「ひまり」 当主は、孫娘の報告を最後まで聞き終えてから、そう言った。「その名を、外へ出すのか」
「出す」
「家が割れるぞ」
「もう割れています」 ひまりは畳に手をついたまま、顔を上げた。「お祖父様。旧研究部門を、もう一度開きたいと思っている人が、この家の中にいる。その人たちが、外の人間を使って、ダンジョンに箱を置いた。人が死にかけた」
当主は、しばらく黙っていた。
「……知っていた。名前までは、知らなかったが、そういう空気があることは」
「止めてください」
「俺の代では、止めきれん」
「では、私が止めます」
書斎が、静かになった。
当主は、苦笑した。年寄りの、諦めに似た苦笑だった。
「お前は、誰のためにやる」
ひまりは、一瞬だけ迷って、それから答えた。
「友達のためです。それと——うちの家が、恥をかかないためです」
六
薬店に戻ったのは、夜の十時を回っていた。
ひまりからの連絡を読み終えた湊は、作業台の前に座り、瓶を抱えていた。
「……家の中に、敵がいるんだって」
白い塊——ハルは、ゆっくりと明滅した。
「俺は、君のことを何も知らない。君が何なのかも。冬吾さんが何を作ろうとしたのかも。……でも、君は、俺の手の上で、ちゃんと生きてる」
ハルが、光った。
その光は、今までと少し違っていた。点滅ではなく、波。寄せて、返す、波。
湊は、目を閉じた。
その時、作業台の端で、携帯が震えた。
真壁宗一からの短いメッセージだった。
『設楽の名前を聞いて、思い出したことがある。三年前、私に接触してきた男も、同じ名字だった。手首の筋が、また広がっている。明日、会えるか』
湊はしばらく画面を見つめ、それから返事を打った。
『はい。明日、会ってください』
瓶の光が、一度、強く灯って、それから静かになった。
束ねられていく糸の、その端が、ようやく見え始めていた。




