第三十六話 倉橋の最後と、届く証拠
加賀美局長は、一人だった。
探索者も、警備も、連れていない。灰色の髪の、大きな背中が、入り口の光の中に、ただ一つ、立っていた。
「……護衛は、いないんですか」
僕が聞くと、加賀美局長は、静かに笑った。
「笑うな。倉橋。お前と話がある。他人を入れるわけにはいかん」
「……おいおい」
倉橋は、机に寄りかかったまま、掠れた声で笑った。
「十八年、俺を道具にしておいて、今になって、二人きりで話とはな」
「道具とは言っていない」
「言わなくても、そうだった」
倉橋の目が、細くなった。
「研究が歪んだ夜、お前は、俺たちに言ったよ。『方向を修正しろ』と。……誰のための修正か、俺たちは、その時から、ずっと知ってた」
加賀美局長は、それには答えず、僕を見た。
「朝比奈湊くん。その手にある書類は」
「……渡しません」
「君は、昨日も、そう言ったな」
彼の声は、穏やかだった。
昨日の夜と、同じ、穏やかさ。
「なら、考えは変わらないのか」
「変わりません」
「……そうか」
加賀美局長は、静かに、一歩、進んだ。
その瞬間。
倉庫の外から、足音が、複数、聞こえた。
加賀美局長が、振り返る。
扉の外には、ギルドの正規職員たちが、数人、立っていた。その先頭に、御子柴さんと、戸塚玲子。
「――加賀美局長」
御子柴さんが、静かに、前に出た。
「今夜のあなたの足取りは、全部、記録されてますわ」
加賀美局長の肩が、わずかに、固まった。
「……何を」
「この倉庫街の監視網は、故障していることに、なってたわ。でもね」
戸塚玲子が、静かに言った。
「私が、“故障”させたのは、国の網だけよ。篠宮グループの私設網と、ギルドの記録係は、別系統なの。今夜のあなたの出入りは、時間も、顔も、全部、残ってる」
加賀美局長は、振り返らなかった。
その背中が、少しだけ、揺れた気がした。
「……倉橋」
低い声だった。
「これは、お前の仕業か」
「ああ」
倉橋は、静かに、笑った。
「お前は、俺を捨てた。俺は、お前を、ここへ呼んだ。……ただ、それだけだ」
「譲據なんか、通用せんぞ。これを奪えばいいだけの話だ」
「奪ってみろよ」
倉橋は、机の上の書類を、静かに、持ち上げた。
「俺が、ここで燃やす。目の前で、な」
加賀美局長が、一瞬だけ、動きを止めた。
本物だ。
この男は、本当に、燃やす。
「……あの書類には、俺の名前はない」
倉橋は、静かに続けた。
「あるのは、お前の名前と、天城冬吾の名前と、十八年前の日付だけだ。俺は、どこにも、いない。……お前が奪いに来た理由は、それだろ」
沈黙。
加賀美局長は、静かに、拳を握った。
「……倉橋。何が、望みだ」
「望み?」
「書類を渡すなら、命は助ける。町への汚染も、なかったことにしてやる。国の権限で、闇に葬れる」
倉橋は、笑った。
ひどく、乾いた、笑い方だった。
「俺の命を? おい、加賀美。俺の体を見ろよ」
彼は、袖を、まくり上げた。
腕の内側に、黒い筋が、いくつも、走っていた。
血管みたいに。でも、血管じゃない。黒濁の前兆が、彼自身の体の中で、静かに進んでいた。
「医者に、余命を聞かれたよ。二週間だって。……お前の国の権限で、二週間が、二十二年に変わるのか?」
加賀美局長は、黙っていた。
「……俺が欲しいのは、命じゃない」
倉橋は、書類を、机に置いた。
「俺が欲しいのは、正しさだ」
その言葉に、加賀美局長の眉が、わずかに動いた。
「十八年前、俺たちは、人を救うために、あの研究を始めた。途中で、お前が、歪めた。歪めたままで、俺たちは、ずっと生かされてきた。……研究が歪んでいることを、知っているのに、誰も、言えなかった」
倉橋は、僕を見た。
「だが、こいつらは、違った。こいつらは、歪んだ担体を、目の前で、正しい方へ引き戻した。……俺は、それを見て、初めて分かったんだ。あの研究は、まだ、間に合うんだって」
彼は、机の上の書類を、両手で、持った。
「だから、薬師坊や」
「……はい」
「これを、受け取ってくれ」
僕は、静かに、前に出た。
受け取っていいのか、と、一瞬だけ迷った。
でも、倉橋の目を見て、分かった。
彼は、僕に渡したいんじゃない。
この証拠の行き先を、僕に託したいんだ。
僕が受け取ると、倉橋は、ぐったりと、机に寄りかかった。
……その場に、崩れ落ちた。
「倉橋さん!」
駆け寄ると、彼の顔は、白かった。
黒い筋が、首まで、広がっている。
今だ。体が、限界だった。
僕は、迷わず、革袋から対腐食の中和液を出した。
「……言ったはずだ。俺は、もう手遅れだと」
「聞いてません」
僕は、瓶の栓を、抜いた。
「薬師は、目の前にいる人を、見捨てません」
「……おい」
「聖良さん!」
聖良さんが、走ってきて、僕の隣に、膝をついた。
「一緒に」
「……はい」
僕は、倉橋の腕へ、中和液を、ゆっくりと落とした。
聖良さんの右手が、白く光って、それに重なる。
温かさが、黒い筋を、少しずつ、押し戻していく。
……完全には、無理だった。
十八年分の、歪みが、彼の体には、染みついていた。
でも、進行だけは、止められた。痛みだけは、引かせられた。
倉橋は、しばらく黙って、自分の腕を見ていた。
それから、静かに、言った。
「……効くんだな。お前の薬」
「……まだ、途中です」
「ああ。……いい薬だ」
彼は、僕を見て、少しだけ、笑った。
「十八年前の、最初の夜を、思い出したよ。研究が、まだ歪む前の。……誰もが、人を救うために、徹夜してた夜の匂いがする」
その目は、もう、憎しみを持っていなかった。
御子柴さんが、近づいて、書類を確認した。
「……間違いない。天城冬吾の直筆よ。十八年前の研究中止の経緯と、加賀美局長の指示が、日付入りで残ってる」
「公開するのか」
加賀美局長が、低く聞いた。
御子柴さんは、静かに頷いた。
「ええ。明日の朝には、検察と、篠宮家の法務、ギルドの監察の三か所へ、同時に届きます。……一度に三方へ渡れば、もう、燃やせないでしょう」
加賀美局長は、長く、黙っていた。
やがて、彼は、静かに、言った。
「……私が消したのは、研究だ。人間じゃない」
「人間も消したでしょう」
戸塚玲子が、静かに言った。
「天城冬吾を、町から消した。娘から、父を、十八年間、消し続けた」
聖良さんの肩が、震えた。
加賀美局長は、それには、答えなかった。
ただ、倉橋を見て、それから、僕を見て、最後に、一度だけ、扉の方へ向いた。
「……朝比奈湊くん」
「……はい」
「上を、憎むのは、構わん。だが、覚えておけ。上を、受け止められる壁がなければ、上からの打撃は、下へ、降ってくる」
それは、脅しだったのか、それとも――たぶん、本当に、教えていたのか。
分からなかった。
でも、彼は、それだけ言って、倉庫を出ていった。
職員たちが、後を追って、外へ出た。
明け方の空気が、扉から、ひんやりと入ってきた。
◇
倉橋は、その日の昼前まで、起きていた。
窓のない倉庫だけど、扉を開け放ったので、朝の光が、奥まで入ってきた。
僕は、彼の傍らで、一時間おきに、中和液を足した。
聖良さんは、ずっと、彼の脈を取りながら、白い光を、絶やさなかった。
「……薬師坊や」
起きているのが、つらそうな声で、倉橋が言った。
「はい」
「一つ、言っておくことが、ある」
「……はい」
「この粉の作り方を、俺に教えた人間が、いる」
僕は、息を止めた。
「加賀美じゃない。もっと、上だ。……俺は、その顔を、知らない。声だけで、言葉の癖だけで、やり取りしてた。……だが、一つだけ、確かなことがある」
「何ですか」
「その人間は、俺の研究を、正確に知りすぎていた。俺が、まだ誰にも話していない段階の設計まで、知っていた」
倉橋は、天井を見た。
「つまり……研究の内部に、最初から、そいつの回し者がいた。俺たちの中にだ」
背筋が、冷えた。
十八年前の研究室内に、最初から、「もっと上」の手下がいた。
だから研究は、あんなに自然に、歪んだのかもしれない。
「……名前は」
「分からん。でも」
倉橋は、そこで、長く息を吐いた。
「俺が消える前に、一つだけ、証拠を残してやった。この倉庫のどこかに、隠してある。……探してくれ。それが、最後の願いだ」
「どこに」
「……お前たちの、その“勘”なら、たぶん、見つけられる」
彼は、静かに、目を閉じた。
「……十八年前、俺は、間違えた。人を救う研究を、人を焦がす研究に、変えた。……お前たちは、それを、戻した。なら、次も、戻せるはずだ」
その言葉は、次に、僕たちへ向いたものだった。
彼は、その後、静かに眠った。
眠ったまま、朝が、来なかった。
黒濁に侵され続けた体は、僕の薬でも、聖良さんの魔法でも、もう、止められなかった。
でも、最後の夜の痛みは、取れていた。
顔は、眠っているみたいに、静かだった。
◇
その日、僕たちは、倉庫の中で、彼の遺したものを探した。
“勘”で、と言われて、僕は、《錬金術》の感覚を、ゆっくりと広げた。
壁。床。棚。
……ある。
古い配電盤の裏。
金属のケースの中に、小さな記録用の魔石が、二粒。
一つは、倉橋の声の記録。
そしてもう一つは――十八年前の、若い天城冬吾の声の記録だった。
再生すると、そこには、研究が歪む前の夜の、若い研究員たちの声と、笑い声と、そして最後に、天城冬吾の声が、こう言って残されていた。
『――担体には、名を、与える。歪まない限り、名は要らないものだと思っていたが、逆だった。名を与えられたものは、人に、近い。……だから、いつかこれを引き取る者へ。この子に、名を呼んでやれ。春を待たせた子だから――ハル、と』
聖良さんは、その声を聞きながら、泣いた。
泣きながら、僕と顔を見合わせて、静かに、頷いた。
僕の腕の中で、原本の白い担体が、ゆっくりと、脈打った。
――ハル。
十八年、春を待っていた子の名前。
「……ハル。ようこそ」
そう呼んだ時、原本が、初めて、明るく光った気がした。
◇
数日後。
書類は、御子柴さんの手で、三方へ届けられた。
加賀美局長は、職務停止となり、調査が始まった。
「もっと上」の正体は、まだ、見えない。
でも、倉橋が残した記録と、戸塚玲子の証言と、天城冬吾の声の記録。三つの糸が、少しずつ、同じ方向へ、束ねられ始めていた。
市場の汚染は、一週間かけて、全部、中和した。
町の探索者たちが、手伝ってくれた。神谷さんも、美琴さんも、“奇跡の薬師”の噂を聞いた正体不明の連中まで、次々に来て、粉の掃除をした。
噂は、まだ続いている。
でも、その中身は、少しだけ、変わっていた。
――あの薬師のところへ行けば、救ってもらえる。
怖い噂が、そういう噂に、なっていた。
店の裏では、ハルが、新しい保管箱で、静かに眠っている。
眠る前には、いつも、僕と聖良さんが、名前を呼ぶ。
「ハル、おやすみ」
すると、箱の中で、うん、と答えるみたいに、脈を打つ。
名前があるだけで、こんなに違うなんて、祖父も祖母も、驚いていた。
そして僕は、あの晩、倉橋に言われた言葉を、ずっと覚えている。
――次も、戻せるはずだ。
戻れる。
僕たちは、もう、戻す方法を、知っている。




