第三十五話 はじまりの朝に、煙が立つ
あの夜が終わって、翌日の朝が来た。
僕は、腕の中の石の器を抱えたまま、店の裏の作業場にいた。
原本は、臨時の保管箱の中で、静かに脈打っていた。
中層で鎮めた緑色の担体とは違う。もっと深い、透き通った白。十八年間、眠り続けてきた重さがある。
「……一晩、無事だったね」
祖母が、暖かいお茶を置いてくれた。
「ええ。眠ってるみたいです」
「眠ってる子に名前がないなんて、可哀想だねえ」
名前の話は、まだ決めていなかった。
聖良さんと考える約束をしたまま、忙しさに負けて、ずるずると先延ばしになっていた。
その時だった。
店の表から、走ってくるような足音が聞こえた。
「朝比奈くん!」
扉を開けたのは、神谷さんだった。
昨夜の一件を知らされていないはずの、町の若手探索者だ。けれど、その顔は、真っ青だった。
「神谷さん、どうしたの」
「市場が……大規模探索者市場が、やられた!」
僕は、立ち上がっていた。
「……やられた、って」
「夜のうちに、変な粉が撒かれたんだ。素材の置き場がまるごと、黒いのがびっしりで……! 今日、そこで仕入れようとした連中が、何人か具合が悪くなってる!」
黒い粉。
僕は、すぐに革袋を取った。
「行きます」
「お待ちなさい」
祖父が、店を出ようとした僕の腕を掴んだ。
「じいちゃん」
「……行くなら、これを持っていけ」
祖父が差し出したのは、小さな木箱だった。中には、対腐食用の中和液が、完成品で六本。
昨夜のあと、一睡もせずに仕上げてくれた量だった。
「……いつの間に」
「お前が眠ってる間だよ」
祖母が、くすりと笑った。
「親ってのはね、子が寝てる間に、子の心配をする生き物なのさ」
「……行ってきます」
「生きて帰れよ」
僕は、頷いて、店を出た。
◇
大規模探索者市場は、町の中央にあった。
普段なら、この時間は人でごった返しているはずの場所が、警備員とギルド職員だけで埋め尽くされていた。黄色い封鎖テープが、あちこちに張り巡らされている。
封鎖線の外で、御子柴さんが待っていた。
「来たのね」
「……状況は」
「最悪よ」
彼女は、封鎖線の内側を指さした。
市場の中央付近、素材が並べられていた棚の一部が、黒く染まっていた。
見るからに、あの黒濁スライムの粘液に近い残滓。でも、それだけじゃない。
黒い部分の周囲に、細かい粉が、円形に撒かれていた。
「……意図的に、広げてる」
僕は、中に入ることを許可されて、黒い粉の前にしゃがみ込んだ。
《錬金術》の感覚を、集中させる。
……嫌な感触だった。
あの旧搬入口で見た黒い粉と、同じ系統。
でも、作りが違う。もっと、粗くて、もっと、散らせるための作り方だった。
「これは、煙草の副流煙みたいなものです。燃えると、遠くまで飛ぶ。……人が近づいて、吸い込むと」
「なる、のか」
後ろから、低い声がした。
振り向くと、戸塚玲子が立っていた。銀縁の眼鏡。手には、国の調査用の入館証。
「……戸塚さん」
「公務で来たわ。国の保護行政と、ダンジョン衛生管理の連携調査。……建前だけど」
彼女は、僕の隣にしゃがみ込んだ。
「吸い込んだ人は、どうなるの」
「……最初は、少し休みたくなるだけです。でも、体の中で、ゆっくり活性化する。三日から一週間で、黒濁の前兆が出る」
「出る前に、止められるの」
「……止められます。でも、市場の規模だと、今日ここを通った人は、数百人います」
数百人。
一週間後に、数百人が、黒濁化の前兆を抱える。
背筋が、凍った。
「……これは、テストよ」
戸塚玲子が、静かに言った。
「あの夜、倉橋は逃げた。でも、彼は、逃げる前に、この技術を持っていった。それを、なぜか“町の中心”で撒いた」
「なぜ、そんなことを」
「……復讐よ」
彼女は、銀縁の眼鏡の奥から、遠くを見た。
「倉橋悟は、あなたたちに捕まりかけた夜、加賀美局長に、売り込みました。あなたたちの情報を。でも、局長は、倉橋を捨てた。……倉橋は、それに逆上したのよ」
自分が使われたことへの、逆上。
だから、倉橋は、国の管理下にあるはずの技術を、国の管理が届かない場所で、ばら撒いた。
「……誰も助けようとしなかったから、全部壊してやるってこと?」
一ノ瀬さんが、走ってきて、僕の隣にしゃがみ込んだ。学校から直接来たらしい。
「でもさ、それは、 Town の人たちが犠牲になるだけだよ」
「そうね」
戸塚玲子は、静かに立ち上がった。
「でも、倉橋の眼には、あなたたちが“見えない”のよ。自分を捨てた国も、自分を捕まえようとしたあなたたちも、全部同じに見えている」
倉橋の目に、世界は、裏切り者しかいない。
「……では、僕たちにできることは」
「二つよ」
戸塚玲子は、指を立てた。
「一つ、町を守る。撒かれた粉を中和する。汚染地域を止める。それを、一週間の猶予の中で、全部やる」
「もう一つは?」
「倉橋を、止める」
彼女は、僕を見た。
「倉橋は、まだ、残っているの。手元に、最後の培養体が。あれを使えば、市場の十倍、百倍の汚染が、一気に広がる」
最後の培養体。
あの、中層のものと同じ、歪んだ担体の完成形。
「……居場所は」
「探してるわ。でも、倉橋は、国の監視網を知り尽くしてる。……私の仕事は、その網を、外から破ることだけ」
その時だった。
僕のスマホに、メッセージが入った。
篠宮さんから。
倉橋悟の居場所、ほぼ特定できた
倉庫街、第九番倉庫の北隣、第十一番倉庫
そこ、私の家の名義で借りられてる倉庫のひとつなの
……彼は、まだ、私の家の恩恵の中にいる
それと同時に、別のメッセージ。
一つ、言っておくわ
倉橋が持ってる“遺言書の写し”っていう情報が、国の中で動いてる
それ、本当は、お父様が国に残した“研究の証拠”よ
……加賀美局長のしていることが、証明できるもの
僕は、息を呑んだ。
天城冬吾の、本物の遺言書。
加賀美局長が、研究を潰した証拠。
それを、倉橋が持っていて、それを、加賀美局長が欲しがっている。
倉橋は、それを交渉材料にして、生き延びている。
「……ややこしいな」
一ノ瀬さんが、ぼやいた。
「国も、倉橋も、みんな、お互いを人質にしてる」
「そう」
戸塚玲子が、静かに頷いた。
「でも、人質になっているのは、あなたたちじゃない。……この町よ」
◇
午後。
僕たちは、篠宮さんの研究室に集まっていた。
テーブルには、篠宮さんが出してくれた倉庫街の地図。
第十一番倉庫の位置が、赤いペンで丸をつけられていた。
「倉橋は、第九番倉庫のすぐ隣に潜ってる。あそこなら、昨夜の騒ぎの中心から、目を逸らされない。……逆説的に、一番安全な場所なのよ」
「では、今夜、突入する」
篠宮さんが、頷いた。
「ただし、問題が二つあるわ」
彼女は、指を二本立てた。
「一つは、倉橋の体。彼は、自分の研究した黒濁に、既に自分自身が侵されている。中層の培養槽の前で、保護具を外したまま触れ続けたから。……あと数日で、彼自身が、暴走する」
「……彼自身が、黒濁になるんですか」
「ええ。だから、彼は、急いでいる。自分の時間がないから、町を焦がす。壊れる自分を見せつけて、世界に訴えかけているのよ」
一ノ瀬さんが、静かに呟いた。
「……なんか、悲しい」
「悲しいけど」
御子柴さんが、入り口から入ってきた。
「悲しいだけじゃ、町は守れない」
彼女は、テーブルに、一枚の紙を置いた。
「これは、ギルドの正式な立入許可書。倉庫街全体の、夜間調査の許可よ。上層部の“影”が動く前に、私が押し切った」
「御子柴さん」
「でもね、朝比奈くん。一つ、言っておきたいの」
彼女は、僕の目を、じっと見た。
「今日の突入で、倉橋は、生きて捕まえたいの。……そうすれば、遺言書の写しの真偽が、本人の口から確定するから」
「……でも、倉橋は、もう、余命がないんでしょ」
「だからこそよ」
御子柴さんは、静かに言った。
「壊れかけている人間の、最後の言葉が、正しい場所へ残るべきよ。倉橋が世界に何を言いたかったのか。それが、たとえ国への復讐だったとしても――それを、知った上で、受け取るかどうかを決めるのは、私たちなの」
僕は、黙って、頷いた。
そして、二つ目の問題を、篠宮さんが口にした。
「倉橋自身が侵されているなら、彼を止める時、薬を、彼に使うかどうか」
部屋が、静かになった。
「倉橋は、あなたたちの敵よ。国を、町を、あなたたちを裏切って、私たちを危険に晒した。……でも」
篠宮さんは、静かに続けた。
「彼は、あなたたちの薬で、しか救えない。この町の薬師がいるなら、治せる。……あなたは、どうする?」
僕は、しばらく黙っていた。
昨日の加賀美局長の言葉を思い出す。
――この国には、君たちより“上”がいくらでもある。
上にいる人たちは、倉橋を、捨て駒にした。
倉橋は、それに逆上して、町を焦がそうとしている。
連鎖している。裏切りと、復讐と、捨て駒が、ぐるぐると回って、最後に犠牲になるのは、いつも、何も知らない人たちだ。
なら、この連鎖を、僕が、切る。
「……救います」
僕は、静かに言った。
「倉橋は、捕まえる。でも、その前に、薬を、彼に使います。……誰を敵に回しても、それだけは、変えません」
一ノ瀬さんが、ふっと笑った。
「やっぱり、朝比奈くんは、そうだね」
「……変?」
「変じゃない。それが、薬師だからね」
聖良さんが、静かに言った。
「私も、手伝います。……回復魔法は、あなたの薬と一緒じゃないと、彼の病状には効かないと思うけど。……それでも、そばにいたいです」
戸塚玲子が、静かに立ち上がった。
「では、私も、最後の公務を一回だけ。今夜、倉橋の監視網を、一時的に“故障”させるわ」
御子柴さんが、頷いた。
「よし」
彼女は、地図の第十一番倉庫へ、指を置いた。
「今夜の作戦を、始めましょう」
◇
夜。
倉庫街には、月が出ていた。
僕たちは、それぞれの持ち場へ散っていた。
御子柴さんと戸塚玲子は、監視網の処置。
篠宮さんは、倉庫の外周の封鎖。
一ノ瀬さんは、正面の警戒。
そして、僕と聖良さんは、倉庫の裏口から入る。
裏口は、篠宮さんのマスターキーで、開いた。
中は、暗かった。
でも、奥から、カサカサと、乾いた音が聞こえていた。
紙の音。誰かが、書類をめくっている音。
「……倉橋さん」
僕が、声をかけると、音が止まった。
奥の暗がりから、男が、現れた。
痩せていた。
昨日までの、面影がなかった。
首筋から、腕にかけて、緑がかった黒い筋が、血管みたいに浮いていた。
目の下には、深くて、黒い隈。
でも、その目だけは、静かだった。
狂っている、というより、もう、何も怖れていない人の目だった。
「……来たか」
倉橋悟は、静かに言った。
「加賀美の犬は、連れてきてないのか」
「連れてきてません。……僕たちだけで、来ました」
「そうか」
彼は、ひどく静かに笑った。
「……お前たちの話は、倉橋悟……と、僕は言いましたっけ」
「いいえ」
倉橋は、静かに、首を振った。
「俺の名前なんて、どうでもいい。……おい、薬師坊や」
「はい」
「お前、あの粉、中和できるのか」
「……できます。市場のやつも、全部」
「そうか」
倉橋は、静かに頷いた。
「なら、もう、町は大丈夫だな」
その言葉に、僕は、思わず聞き返した。
「……え?」
「俺の目的は、最初から、あの粉を撒くことじゃない」
倉橋は、机の上の、一枚の書類を、指で、なぞった。
「俺は、加賀美を、殺したかった」
静かな声だった。
「でも、俺には、その力がない。だから、俺は、この町を、広く汚した。そうすれば、加賀美は、必ず、ここへ、自分の足で来る。……そして、この証拠の山を、必ず奪いに来る」
彼は、机の上の書類を、指で、叩いた。
「これが、天城冬吾の本物の遺言書。加賀美が、十八年前に研究を潰した、本物の証拠だ。……加賀美は、これが世に出るなら、自分が国のトップでも、一生、消される。だから、彼は、必ず、自分で動く」
つまり。
市場の汚染は、囮。
この倉庫も、囮。
全部は、加賀美局長を、ここへ呼び出すための罠だった。
「……だから、僕たちに、きてほしかったんですか」
「ああ」
倉橋は、静かに頷いた。
「俺は、もう、長くない。この体は、もう手遅れだ。……でも、俺が死んでも、この証拠だけは、生きていなければならない」
彼は、僕を見た。
「薬師坊や。お前は、誰でも救うと言ったな」
「……言いました」
「なら、最後の願いだ。俺を救う必要はない。でも、この証拠を、正しい場所に届けてくれ」
倉橋は、机の上の書類を、静かに、差し出した。
その時だった。
倉庫の正面扉が、開いた。
足音。
一人。
静かで、堂々とした足音。
振り向くと、入り口の光の中に、灰色の髪の、大きな背中が、立っていた。
加賀美局長。
「……倉橋よ」
彼の声は、静かだった。
「やっと、見つけたぞ」
倉橋は、それを見て、静かに笑った。
「……来たか。この、裏切り者が」
僕は、倉橋の隣に立ったまま、息を止めた。
原本と、遺言書と、黒濁と、国のトップ。
全部が、この、狭い倉庫の中に、揃ってしまった。
夜は、まだ、終わっていない。




