第三十四話 もっと上の影と、原本の選択
ヘッドライトの光が、四台ぶん。
扉の隙間から差し込んだ光の帯が、倉庫の床を一本ずつ切っていく。埃が、その光の中でゆっくりと舞っていた。
「……数を数えないで」
御子柴さんが、低く囁いた。
「逃げ道を探すな、という意味?」
一ノ瀬さんが槍を構え直しながら返す。
「数えれば、焦るのよ。焦りは、判断を殺す」
僕は石の器を抱えたまま、入り口へ向いた視線を戻した。
……いけない。
このままでは、僕の腕の中にあるものが、すべての原因になる。
「下がって」
戸塚玲子が、静かに言った。
「私が、出るわ」
「出るって、この状況で?」
「ええ。私は保護行政の戸塚玲子。ここへは、公務で来たことになっている。……あなたたちは、いないことになっている」
「いないことに、って」
「非常扉から、裏の通路へ。水路沿いに北へ抜けられる。監視は正面に寄せられているはずよ」
篠宮さんが、目を細めた。
「……なぜ、そこまでしてくれるの。あなたは今まで、ずっと“向こう側”にいた人でしょう」
戸塚玲子は、一瞬だけ黙って、それから銀縁の眼鏡の位置を直した。
「向こう側にいたから、こっち側へ送れるのよ」
その言葉の意味は、たぶん、もっと深いところにあるのだろう。十八年分の何かが、その一言に圧縮されていた。でも、今は考える時間がない。
正面扉で、エンジンが止まった音がした。
扉が開く。
光が、一気に倉庫の中へ溢れた。
入ってきたのは、スーツ姿の男たちだった。探索者ではない。装備も持たず、ただ、堂々と歩いてくる。堂々と歩いてくる人間こそが、一番危ないのだと、この数ヶ月で学んでいた。
先頭の男は、五十代。
灰色の髪を後に撫でつけ、大きな体格をした、落ち着いた顔立ちの人だった。
手には、何も持っていない。
「……戸塚さん。夜遅くまで、ご苦労だね」
その声は、穏やかだった。
穏やかだからこそ、ぞっとした。
「加賀美局長」
戸塚玲子が、静かに頭を下げた。
局長。
その一言で、相手の肩書きが分かった。
国の保護行政の、いちばん上。
「私の倉庫に、勝手に入るから、来てしまったよ」
加賀美局長は、倉庫の中をゆっくりと見回した。
仕切りの内側。石の器。僕たち。
その全部を、一度ずつ確認するみたいに。
「……ああ、やっぱり、あったか」
彼は、石の器を見て、静かに言った。
その目の温度に、僕は背筋が冷えた。
あれは、久しぶりに会えた“宝物”を見る目じゃない。
長い間、探し続けていた道具を見つけた人間の目だ。
「加賀美局長。この方は」
篠宮さんが、低い声で訊いた。
「国の保護行政の責任者だ。きみのお父様がお世話になった人かもしれないな。篠宮グループの、お嬢さん」
彼は、篠宮さんの名前まで知っていた。
「……そして、一ノ瀬さん。御子柴さん。朝比奈湊くん」
僕の名前も。
全部、知っていた。
「倉橋から、聞いていたよ。 meda……いや、失礼。“興味深い若者たち”がいると」
倉橋悟が、売り込んだ情報。
それを、この人が受け取っていた。
上層部の“影”は、戸塚玲子じゃなかった。
もっと上が、この人だった。
「加賀美局長。あなたが、調査を止めた側ね」
御子柴さんが、静かに前に出た。
「止めた? 違うな。私は、守ったんだよ」
加賀美局長は、静かに言った。
「回復魔法使いは、この国に二人しかいない。その価値を守るのが、私の仕事だ。……そのためには、運悪く“邪魔になるもの”は、時々、遠くへ置かないといけない」
遠くへ置く。
その言葉の意味が、聖良さんへ向いた。
「……私の、お父様の研究を」
聖良さんの声が、震えていた。
「あなたは、お父様を……」
「天城冬吾は、優秀だったよ。でも、彼の研究が完成すれば、回復魔法使いの価値は、変わってしまう。国にとって、“二人しかいない力”を維持するよりも、誰でも使える治療薬の方が、はるかに危険な話だ」
加賀美局長は、静かに続けた。
「だから、彼の研究は、途中で終わった。彼は、どこか遠くへ行った。そして、娘の聖良さんには……私の保護行政が、優しく接してきた」
優しく、という言葉に、聖良さんの手が、強く握られた。
「……優しく、ですか」
彼女の声は、静かだった。
でも、その静けさは、泣きたいのを、一生懸命抑えている静けさだった。
「十八年、外にも出してもらえず、毎年、健康診断と称して魔法の性能を測られて、友達もできない。それが、あなたの言う“優しい”ですか」
加賀美局長は、それには答えなかった。
代わりに、彼は、僕を見た。
「朝比奈湊くん。私は、君と話がしたい」
その目は、静かだった。
脅している目でも、怒っている目でもない。
それが、一番嫌だった。
「君には、素晴らしい才能がある。担体に“意思を通せる”。……その力を、国の管理下で使えば、君は、たくさんの人を救える。私が保障する。身分も、安全も、全部だ」
「……その代わりに、何を」
「聖良さんの保護を、続けさせること。そして、原本は、国が管理すること。それだけだ」
それだけ、ではない。
それが、全部だった。
聖良さんは、また、箱の中へ戻る。
原本は、また、誰にも渡されずに、眠る。
そして、僕の《錬金術》は、国の道具になる。
……あの、中層の夜。
担体が、僕に言った言葉を思い出す。
――“どちらでもいいから、決めてくれ”。
担体は、僕に決めさせた。
決めてよかったと、今も思っている。
じゃあ、今度は、僕が決める番だ。
「……僕は」
僕は、静かに口を開いた。
「お断りします」
加賀美局長の眉が、わずかに動いた。
「……理由を、聞こうか」
「原本は、天城さんが作ったものです。聖良さんのお父様が、十八年かけて守ってきたものです。それを、僕たちの判断で、誰かに渡す権利はない」
「権利なら、私が持っている」
「権利の話じゃないです」
僕は、言った。
「渡されたものを、渡す側の勝手で使うのは、違うって話です」
倉庫が、静かになった。
担体の原本が、僕の腕の中で、静かに脈打っている。
……生きてる。
十八年間、ずっと、生き続けていた。
この人のために、この瞬間のために。
加賀美局長は、静かに息を吐いた。
「……残念だ」
そして、彼は、後ろの男たちへ、静かに手を振った。
男たちが、一斉に動いた。
「走って!」
御子柴さんが叫ぶ。
一ノ瀬さんが、即座に前へ出た。
槍の柄で、先頭の男の腕を払いのける。
篠宮さんの火球が、床を焼いて、男たちの足を止めた。
「非常扉!」
戸塚玲子が、扉を開けてくれていた。
僕は、石の器を抱えたまま、走った。
聖良さんが、僕の隣を走る。
一ノ瀬さんが、後ろから僕たちを押す。
篠宮さんが、最後尾で、火の玉をひとつ、床へ残してきた。
非常扉を抜けた瞬間、外の夜風が、冷たくて、ひどく新鮮だった。
水路沿いを、北へ走る。
後ろから、加賀美局長の声が聞こえた。
「朝比奈湊くん。考えておきなさい。この国には、君たちより“上”がいくらでもある」
上、か。
僕は、足を止めずに、答えた。
「……上に、なりたければ、なりゃいい。でも、僕たちは、下から救う側なので」
その言葉に、加賀美局長は、何も返さなかった。
◇
水路の北側の出口から出た時、月が、少し高くなっていた。
僕たちは、息を切らして、古い鉄橋の下に座り込んだ。
一ノ瀬さんが、僕の肩へ、ぐったりと頭を預けてきた。
聖良さんは、篠宮さんの肩を借りて、静かに呼吸を整えている。
「……逃げ切れた?」
一ノ瀬さんが、聞く。
「とりあえず、今夜は」
御子柴さんが、静かに言った。
「でも、これからは、正真正銘の“敵対”よ。国の保護行政のトップを、敵に回した」
沈黙。
……怖くない、と言えば、嘘になる。
国を敵に回したんだ。
これからは、隠れる場所も、減っていく。
でも――僕は、後悔していなかった。
僕は、腕の中の石の器を見た。
原本の白い担体は、今も、静かに脈打っている。
さっきから、ずっと。
……安心しているみたいに。
「……聖良さん」
「はい」
「この子の名前、考えませんか」
「……え?」
「十八年間、名前がないままだったんだから。……そろそろ、名前があってもいいと思うんです」
聖良さんは、一瞬だけきょとんとして、それから、ふっと柔らかく笑った。
「……はい。一緒に、考えましょう」
その夜の帰り道。
僕は、腕の中の白い担体を抱えて、月の下を歩いた。
名前は、まだ決まっていない。
行く場所も、まだ決まっていない。
上には、まだ“もっと上”がいる。
噂は、まだ広がっていて、僕の日常は、もう戻らない。
それでも、僕の腕の中のものは、静かに、温かかった。
この物語は、まだ、続いていく。




