第三十三話 第九番倉庫と、原本の眠る場所
車を止めたのは、倉庫街の入り口から百メートルほど手前だった。
「ここからは徒歩よ。エンジンの音で気づかれる」
御子柴さんが、車のキーを抜きながら言った。
周囲を見回す。
錆びた鉄骨。傾いた塀。そして、どこからともなく漂う、湿った鉄の匂い。廃れた工場地帯特有の空気が、夕闇と一緒に肌に絡みついてくる。
「一ノ瀬さんは、まだ研究室に?」
「もう来てるわ」
御子柴さんは、小さな路地の陰へ顎を向けた。
見ると、影のように忍んでくる人影が一つ。
槍ケースを肩に担いだ一ノ瀬さんだった。学校から着替えなしで来たらしい。制服の上に探索用の軽装を羽織っている。髪の結び方が、いつもより強く締めてあった。
「待った?」
「待ってない。……ちょっとだけ、待った」
その矛盾を、僕は黙って受け取った。
「篠宮さんは?」
「倉庫街の地図を最終確認してるわ。カメラの映像ループも、この時間帯に切り替えられる。あと十分」
御子柴さんは、腕時計を確かめた。
「待ち合わせは、第九番倉庫の北側、給水塔の下。全員で最終確認をしてから、中に入る」
◇
給水塔の下には、すでに篠宮さんがいた。
作業用の暗い服装に着替え、腰に細剣。膝にノートを置いて、地図を広げている。顔を上げた彼女は、僕たちを見て、すぐに本題へ入った。
「来たわね。……状況を言うわ」
彼女は、地図の上へ指を置いた。
「第九番倉庫。周囲に監視カメラ四基。映像は今、御子柴さんの人脈でループに差し替えてある。あと十五分有効」
「十五分だけ?」
「それ以上やると、逆に怪しまれるの。システムの監視役は無関係な会社よ。何時間も頼り続けられない」
短い時間だ。
でも、長居をする気もない。
「建物の構造は?」
僕が聞くと、篠宮さんは地図をめくった。
「二階建て。一階は昔、素材の一次保管に使われていた。二階は事務所。……でも、電力の使用状況が変なの」
「変な、って」
「廃倉庫のはずなのに、夜間の使用電力が、通常の住宅一軒分ある。冷凍冷蔵系か、特殊な維持装置か。……担体なら、後者でしょうね」
担体の維持。
あの白い担体が「生きて」いる以上、保管にも何かしらの装置が要るはずだ。僕の家の作業場でも、聖良さんの回復魔法がなくても静かに眠れる温度と湿度を、篠宮さんが苦心して作ってくれた。廃倉庫でそれをやるなら、電力が要る。辻褄が合う。
「入り方は」
「北西の非常扉から。鍵は……私が開ける」
篠宮さんは、腰のポーチから、小さな電子機器を取り出した。
「篠宮グループの旧素材管理部門のマスターキー。倉庫街がうちの名義で借りられてる以上、同じ名義で開けられる鍵もあるのよ」
皮肉な話だ。
戸塚玲子は、倉庫を篠宮の名義で借りた。そのせいで、篠宮さん本人が、堂々と入る鍵を持っている。
「……でも、それって戸塚さんも気づくんじゃないですか」
「気づいても、遅いのよ」
篠宮さんは、静かに笑った。
「名義を使われたのなら、名義で迎えに行く。それだけのこと」
一ノ瀬さんが、槍ケースを下ろしながら、小さく息を吸った。
「……最後に、一回だけ聞いていい?」
「なに?」
「もし、中に人がいたら。警戒レベルは?」
先に答えたのは、御子柴さんだった。
「交戦禁止。逃がす。今日の目的は証拠と原本の確認よ」
「でも――」
「でも、がないのよ。公式に追う側になったとは言ったけれど、今日は立入権限の検証日。戦えば、僕たちの方が“荒らし”になる」
一ノ瀬さんは、露骨に不満そうな顔をしたけれど、頷いた。
「……分かった。逃がす。でも、逃がす時に撮影だけはするからね」
「それで十分よ」
僕は、革袋の中身をもう一度確認した。
検知液が三本。対腐食の中和液が二本。担体用の“仕切り”の液が一本。手袋ひと組。
今日、必要なのは、戦う薬じゃない。
眠っているものを、静かに起こさずに扱うための薬だ。
「……聖良さん」
僕は、倉庫の北西を眺めたまま言った。
「はい」
聖良さんは、僕の隣で、静かに空を見上げていた。
「ダメだと思ったら、言ってください。今日は、あなたが無理をする日じゃない」
「……ありがとうございます」
彼女は、僕を見て、少しだけ微笑んだ。
「でも、私は、行きます。……お父様のものが、そこにあるなら。十八年、知らずにいたものの最後を、私は目で見て、覚えておきたいんです」
その言葉に、もう何も言えなかった。
御子柴さんが、腕時計を見た。
「――開始よ」
◇
北西の非常扉は、篠宮さんのマスターキーで、驚くほどあっさりと開いた。
鍵穴の音すら立てずに。
さすがに、名義の持ち主が作った鍵は、静かだった。
中に入ると、湿った冷気が頬を撫でた。
外よりずっと冷たい。そして、静かだ。
高い天井。物置棚の残骸。
そして、正面の床には、最近よく踏まれた痕跡が、砂埃の上にくっきりと残っていた。
「……ついてるわね」
篠宮さんが、足跡の列をなぞるように指で示した。
足跡は、倉庫の中央へ向かっていた。
中央には、古い荷受け台の残骸。
その向こう側、壁際の一角だけが、妙にきれいだった。
高さ二メートルほどの、透明な仕切りが立っている。内側に、簡易の空調装置と、小さな作業机。そして、その中央に――。
「……あれ?」
一ノ瀬さんが、小さく呟いた。
仕切りの内側には、白い台座があった。
その上に、まるで、展示品みたいに、一つの石の器が置かれている。
中に、何かが入っているようだった。
でも、遠目には、その色が見えなかった。
「近づくわ」
御子柴さんが、静かに言った。
僕たちは、荷受け台の陰を伝って、仕切りへ近づいた。
近づくにつれて、僕の《錬金術》が、反応し始めた。
……温かい。
あの夜の中層で感じた、あの白い担体の脈動。
それと同じで、でも、もっと深い。
石の器が、見えてきた。
淡い緑色ではなく、白い。
けれど、その白さは、ただの白じゃない。深いところで、何かが、静かに渦巻いているような、透き通った白。
「……原本だ」
篠宮さんが、掠れた声で言った。
「間違いない。……これは、お父様が作った、最初の担体よ」
聖良さんは、一歩だけ前へ出た。
その足が、仕切りの前で止まる。
そして、彼女の右手が、白く光った。
「……生きてる」
彼女の声が、震えた。
「十八年、ここで、ずっと……生きてたんです」
その時だった。
仕切りの内側の空気が、わずかに揺れた。
石の器の白い担体が、聖良さんの右手の光に応えるように、ゆっくりと脈打った。
一つ、二つ。
まるで、久しぶりに会えた存在に、挨拶しているみたいに。
そして――僕の《錬金術》に、言葉が降ってきた。
どのような言葉かというと、文字ではない。
もっと、感覚に近いものだ。
――届いた、と、それは言った。
十八年間、閉じ込められて、ずっと待っていた。
誰も来ない、と、もう諦めかけていた。
それでも、待ち続けていた、その答えが。
僕は、思わず一歩、前に出てしまった。
「朝比奈くん」
御子柴さんの声が、後ろから届く。
でも、僕は、もう手が動いていた。
手袋を、取る。
仕切りの扉は、鍵がかかっていなかった。
ガラス越しに、石の器が、僕を待っていた。
扉を開ける。
中の空気は、冷たかった。でも、不思議と嫌な匂いはなかった。ただ、静かだった。
石の器へ、手を伸ばす。
そのまま、担体の表面へ、そっと掌を置いた。
瞬間。
――来てくれた。
はっきりと、そう伝わってきた。
十八年。
製造されてから、封じられて、置かれて、忘れられて。
それでも、“治すこと”だけを忘れなかったもの。
僕は、自然と目を閉じた。
《錬金術》の感覚を、ゆっくりと担体へ通していく。
あの時、聖良さんと組んだ時のように。
橋になる。
担体が求めているものを、翻訳する。
……担体は、静かに、答えた。
――癒やしたかった。
――それだけだった。
――それが、難しくなってしまった。
泣きそうになった。
担体の声は、静かだった。
でも、その静けさの奥に、ずっと一人だったものの重さがあった。
それは、聖良さんの十八年と、似ていた。
いや、たぶん、同じだった。
「……そっか」
僕は、目を開けた。
担体は、僕を静かに見つめていた。
白い渦巻きが、少しだけ、緩んでいる。
もう、怖がっていなかった。
「……朝比奈さん」
振り返ると、聖良さんが、仕切りの入り口に立っていた。
右手の白い光が、僕の肩越しに、担体へと届いている。
「伝わりましたか」
「……ええ」
「私は、私の魔法で、聞こえてました。……お父様が、残してくれた言葉が」
聖良さんの目に、涙が溜まっていた。
「“――聖良、そっち側で、幸せになれ”。って」
彼女は、静かに、涙をひとつだけ落とした。
十八年。
父親が、娘のために最後に残した、たった一言。
担体の中で、十八年間、ずっと守り続けられていた言葉。
「……私、十八年かかって、お父様の言葉を聞きました」
その横顔は、泣いていて、でも、嬉しそうだった。
◇
その時。
倉庫の正面扉から、足音が聞こえた。
僕たちは、一斉に振り返った。
静かで、整った足音。
迷いのない、慣れた歩き方。
正面扉の隙間から、人の影が入ってきた。
細身の女性。
短い髪に、銀縁の眼鏡。
手に持った、薄い書類ケース。
戸塚玲子。
「……ここにいたのね」
彼女は、静かに言った。
声は落ち着いていた。慌てていなかった。
最初から、ここへ来ることを、知っていたみたいだった。
「あなたたちのことは、四日前から、全部知ってたわ」
御子柴さんが、静かに前に出た。
「……どうして、知ってたの」
「あなたたちが、私を照合した時点で、予定は読めたわ」
戸塚玲子は、静かに歩を進めた。
「私の異動歴の空白。保護施設での私の行動。倉庫の電力。……全部、あなたたちに見えるように置いておいた」
篠宮さんが、目を細めた。
「……見せるように、って」
「ええ」
彼女は、僕たちを、一人ずつ見た。
「私は、待っていたのよ。あなたたちが来ることを」
その言葉に、部屋の空気が、変わった。
僕は、気づいてしまった。
この倉庫に入った時から、ずっと引っかかっていた違和感の正体に。
足跡が、ついていた。
装置の電力が、点いていた。
でも――この倉庫を守る警備が、いなかった。
守るべきものがある場所に、守る人間がいない。
それは、壊されないための配置じゃない。
見つかりたいための配置だ。
「……あなたは、味方なの?」
僕が聞くと、戸塚玲子は、少しだけ目を細めた。
「……味方、か。十八年、誰にも言えなかった言葉ね」
彼女は、書類ケースを置いて、静かに続けた。
「私は、保護行政の中で、十八年間、見てきたわ。回復魔法使いが、国の“管理資産”として囲まれて、消耗していく姿を。天城聖良さんも、その一人だった」
聖良さんが、小さく息を飲んだ。
「私は、それを止める力がなかった。だから、せめて――」
彼女は、石の器を示した。
「この原本を、守り続けた。正しい形で、封じられたままに。誰にも、歪められないように。……そして、あなたたちを待った」
「なんで、僕たちなんですか」
「……あなたが、担体に意思を通せたからよ」
戸塚玲子は、静かに僕を見た。
「錬金術。十八年前、天城冬吾が最後まで探していた才能。……中層の件を聞いた時、確信したわ。あなたは、あの人が望んだ、治す側の人間だと」
沈黙。
その沈黙を破ったのは、篠宮さんだった。
「……倉橋悟は」
「逃げたわ」
戸塚玲子は、静かに言った。
「でも、逃げる前に、“上の人間”に、あなたたちのことを売り込んでいった。……だから、上層部が動いた」
「上層部の“影”って、あなた?」
御子柴さんが聞くと、彼女は、首を横に振った。
「違う。……もっと上よ」
その言葉に、御子柴さんの表情が、一瞬で固まった。
その時。
倉庫の外で、エンジンの音が聞こえた。
一台じゃない。三台。四台。
そして、正面扉の外に、ヘッドライトが、一斉に点った。
「……来たわ」
戸塚玲子は、静かに言った。
「“もっと上”が」
ヘッドライトの光が、扉の隙間から、長く伸びて、床を切っていく。
光の中で、石の器の白い担体が、静かに、脈打っていた。
夜は、もう、終わっていない。




