第三十二話 記憶の照合と、影の一歩目
水曜日の朝は、思ったより早く始まった。
集合は八時だったけれど、僕は七時には目が覚めていた。眠れなかったわけじゃない。むしろ、よく眠った。ただ、体が勝手に起きてしまった。
机の上の小瓶は、いつも通りに脈打っていた。
その横には、昨夜書き終えたメモが一枚。今日照合する“顔”の特徴を、聖良さんの言葉から書き起こしたものだ。
身長、体格、歩き方、あごの線、眼鏡の有無。
聖良さんの記憶は、驚くほど正確だった。十八年の間に、「本部から来た人」として保護施設を訪れた人たちの顔を、彼女は十人以上覚えていた。しかも、最後に会った日まで正確に。
「……写真を撮らせてもらえない環境で、これだけ覚えてるんだからな」
前日に御子柴さんが感心した通り、この記憶は、照合資料として十分すぎる価値があった。
「湊、飯だよ」
階下から祖母の声。
降りていくと、食卓にはいつも通りの朝食と、妙に真面目な顔をした祖父がいた。
「水曜か」
「……うん」
「無理はするなよ。照合だけだ。捕まえるのは、大人の仕事だ」
「分かってる」
「分かってる、な」
祖父はそう言って、味噌汁をすすった。
そして、飲み終わる頃に、ぽつりと付け加えた。
「……終わったら、帰ってこい。店の棚の整理が溜まってる」
それは、たぶん「無事に帰ってこい」という意味だ。
僕は「うん」と答えて、家を出た。
◇
集合場所は、市街地の北側にある国の行政施設の前だった。
御子柴さんは、今日は珍しく私服だった。灰色のジャケットに、眼鏡。いつものスーツよりずっと目立たない。さすがに「ギルドの査定官が国の行政施設に顔を出す」のは、目立ちすぎると判断したらしい。
「おはよう。聖良さんは?」
「もう中へ入ってもらったわ。証人の保護名目で、正面から正式に。私は私で、協力者として別口から入る」
一ノ瀬さんは来ていなかった。
学校があるからだ。さすがに平日の真ん中を休むのは、不自然さが増すという御子柴さんの判断だった。代わりに、研究室で篠宮さんが待機していて、何かあれば即応援に回れる体制を組んでくれた。
「……一応、聞くけど」
僕は、施設の入り口へ向かいながら聞いた。
「今日、危ないことは起きないよね」
「起きないようにするわ。ただし」
御子柴さんは、扉をくぐる直前に言った。
「照合の結果次第で、今日の夕方以降の予定が、全部変わる可能性はあるわ」
つまり、平穏な一日の保障はない、ということだ。
◇
照合の部屋は、行政施設の三階にあった。
窓のない小さな部屋に、テーブルと、パソコンを並べた机。国の担当官らしい堅物な男性が一人と、録音係の女性が一人。そして、僕と御子柴さん。
聖良さんは、最初の十五分だけ同席した後、隣室へ移された。
「本人が見ていると、思い込みが入るから」という担当官の説明だった。もっともだった。でも、あの背中が部屋を出ていくのを見送る時、僕は少しだけ胸が締め付けられた。
「それでは、始めます」
担当官は、画面に写真を一枚ずつ表示し始めた。
職員名簿の顔写真が、順番に流れていく。
「この方、覚えていますか」
「……違います」
「こちらは」
「……待ってください。もう一度、前の**
画面が戻される。
写真に映っていたのは、四十代くらいの女性。
短い髪に、細い銀縁の眼鏡。名簿の欄には、「保護行政第二課、主任、戸塚玲子」とあった。
「……この人は、頻繁に来ていました。三ヶ月に一回くらい。……来るたびに、私の健康診断の結果を持って帰っていました」
「健康診断の結果を持って帰る、と」
「はい。それと」
聖良さんの声が、録音された音声から、静かに続いた。
「来るたびに、私に“体調の聞き取り”をしていました。ただ、その聞き取りが、少し変わっていたんです」
「変わっていた、とは」
「病気のことじゃなくて、魔法のことを聞かれました。回復魔法の使い心地。疲れ方はどうか。無理をさせられると何時間持つか。……私は、あれが“健康診断”だとは、ずっと違和感を覚えていました」
御子柴さんが、静かに机に肘をついた。
戸塚玲子。
保護行政の主任。
そして、回復魔法の“性能評価”を定期的に行っていた人物。
倉橋悟の通話記録に残っていた、保護行政の回線。
もし、あれがこの人物と繋がっているなら。
「……この方の最近の異動歴を、確認できますか」
御子柴さんが担当官に尋ねると、担当官は少し躊躇してから、端末を操作した。
数秒の沈黙。
「……おかしいな」
担当官の顔が、変わった。
「戸塚玲子。異動歴の記録が……ない」
「ない、とは」
「三年前に入庁。それ以前の異動歴が、空白です。国の職員として、これはありえない」
部屋の空気が、一気に張り詰めた。
三年前に現れた。
それ以前の記録がない。
そして、回復魔法使いの“性能”を、定期的に記録していた。
御子柴さんが、静かに言った。
「……この人だわ」
◇
その後の手順は、急ぎ足だった。
戸塚玲子の顔写真と、聖良さんの記憶を突き合わせ、さらに他の「本部から来た人」たちも照合した。その結果、十人中四人の顔が、ギルドの非登録探索者集団との間で「似ている」判定が出た。
保護行政の中に、研究グループとの繋がりがある。
それが、ほぼ確定した。
担当官は、即刻で上へ報告を上げると言って部屋を出ていった。
録音係も続いて出て、部屋には僕と御子柴さんだけが残された。
「……思ったより、早く進んだわ」
御子柴さんは、椅子に深く座り込んだ。
「これで、解決ですか?」
「解決? するわけないでしょ」
彼女は、僕を見て、少しだけ苦く笑った。
「戸塚玲子という人間が浮上しただけで、彼女の背後に何があるのかは、まだ分からない。もしかしたら、彼女自身も“使われている”だけかもしれない。あるいは――」
言いかけて、御子柴さんの端末が鳴った。
画面を見た彼女の顔が、一瞬で引き締まった。
「……どうしました」
「篠宮さんからよ」
彼女は、メッセージを僕にも見せた。
「倉橋悟の潜伏先、特定できた。市の南側、旧素材倉庫街。
でも、よく調べたら、その倉庫街、戸塚玲子の名義で借りられてる**。
……つまり、担体の原本、そこにあるかもしれない」
僕は、息を呑んだ。
担体の原本。
天城冬吾が“正しい形”で封じた、あともう一つの担体。
それが、戸塚玲子の名義の倉庫にある。
「……今日の夕方以降の予定が、変わるって言ってましたよね」
僕が言うと、御子柴さんは静かに頷いた。
「ええ。変わったわ」
そして、彼女は立ち上がった。
「まず、戻るわよ。篠宮さんと合流して、倉庫街の下調べ。……あと、朝比奈くん」
「はい」
「今日は一つだけ、いいお知らせがあるわ。先ほどギルドから連絡が来てね」
「なんですか」
「あなたたちの動きを、上層部の“影”が妨害しようとした痕跡が、確定した。つまり――」
御子柴さんは、少しだけ笑った。
「あなたたちはもう、“隠れて動く側”じゃない。正式に追う側になったのよ。立入許可と、事後承諾の権限、もらったわ」
◇
倉庫街に向かう車の中で、僕は窓の外を見ていた。
夕方が近づいていた。
空は、オレンジから紫へ変わっていく。
南側の倉庫街は、この時間、ほとんど人がいない。古い工場地帯が廃れて、扉の半分以上が錆びついたままの、静かな街だ。
その静かな場所に、担体の原本がある。
僕は、スマホを開いた。
グループチャットには、一ノ瀬さんからのメッセージが入っていた。
学校終わった! もう研究室にいるよ
……倉庫のこと聞いた
行くって言ったら、御子柴さんが許可くれた
私、今日は本気だから、待ってて
続けて、篠宮さんからのメッセージ。
倉庫街の地図を分析したわ。
目的の倉庫は、一番奥の第九番倉庫。周辺に監視カメラが四基。
夜間は人がいないはずだけど、カメラの位置からして、常時監視を想定している
……つまり、正攻法では近づけない
そして、聖良さんから。
私も、行きます
……私は、今までは“守られる側”でした
でも、原本が見つかるなら、そこへ立ち会いたいです
お父様の残したものの最後を、私が見届ける番だと思います
僕は、三人のメッセージを読み返しながら、窓の外の夕日を見た。
車は、倉庫街の入り口へ差し掛かっていた。
御子柴さんが、ハンドルを握りながら、静かに言った。
「……最後に、確認しておくわ」
「はい」
「今日、倉庫に入って、もし原本があったら。その時、あなたたちは、どうするつもり?」
僕は、少し考えてから、答えた。
「……助ける、です」
「答えがすぐ出たわね」
「はい。前回と同じです」
前回、中層で、僕たちは黒い担体を“癒やす側”に引き取った。
あの時できたのなら、今回もできるはずだ。
御子柴さんは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った気がした。
車は、倉庫街の中へ入っていった。
夕日の影が、長く伸びた錆びた倉庫の壁へ、静かに落ちていく。
第九番倉庫は、その一番奥。
監視カメラの小さな赤い光が、四つ、点っているのが見えた。
夜が、始まる。
そして、この夜が終わる頃、僕たちの物語は、次の章へ進むことになる。




