第二十八話 癒やす側の形、そして新しい朝
黒い担体が、培養槽から溢れ出した。
ずるり、と。
床へ落ちる前に、形を持ち始めていた。
それは、黒濁スライムによく似ていた。けれど、どこか違う。黒い体表の奥に、白い糸が走っている。白い方が、まだ、黒い方の中に生きていた。
「……まだ、決まってない」
聖良さんが、言った。
「形は、まだ、決まってないの!」
僕は、無意識に前へ出ていた。
「朝比奈くん、駄目!」
一ノ瀬さんの声が、遠い。
担体の中央に、白い塊が見えた。
あの、僕が旧搬入口で処理したもの。
今も、そこにいる。
「……僕が、触る」
僕は、手を伸ばした。
触れた瞬間、黒い担体が、僕を飲み込もうとした。
痛い。
腕が、熱い。
黒い方の性質が、僕の《錬金術》を、吸い上げようとする。
「駄目、朝比奈さん!」
聖良さんが、僕の手の上から、自分の手を重ねた。
白い光が、溢れた。
回復魔法の温かさと、黒い方の冷たさと、僕の《錬金術》の感覚が、一箇所で、ぶつかった。
僕の意識が、一瞬、飛びそうになった。
でも、飛ばなかった。
なぜなら、担体が、僕に伝えてきたから。
――“どちらでもいいから、決めてくれ”。
担体は、迷っていた。
白い方も、黒い方も、どちらも自分であると感じながら、どちらになるべきかを、自分では決められずにいた。
「……あなたに決めさせるわけには、いかない」
僕は、静かに言った。
担体は、答えなかった。
でも、聞いていた。
「決めるのは、あなたじゃない。……僕たちだ」
そして、僕は、自分の《錬金術》の全てを、白い方へ注ぎ込んだ。
回復魔法の温かさを、翻訳する。
黒い方の冷たさを、翻訳する。
二つの性質が、一つになる場所を、作る。
黒い担体が、大きく脈打った。
一瞬、形を失いかけた。
でも、次の瞬間――
黒い方が、白い方の中へ、沈んでいった。
白い担体が、黒い方を、抱え込んだ。
黒い性質は、消えなかった。
でも、暴れなくなった。
白い方が、黒い方を、包み込むように、鎮めていた。
僕の手の中で、担体は、ゆっくりと形を変えた。
黒と白が、静かに混ざり合って、最後には、淡い緑色の塊になった。
命の、色だった。
「……できた」
聖良さんが、涙を浮かべたまま、言った。
「……癒やす側に、なった」
その時、女の声が聞こえた。
「……あなたは」
彼女は、僕たちの後ろに立ったまま、その淡い緑色を見つめていた。
顔には、もはや敵意がなかった。
代わりに、その目には、静かな涙が溜まっていた。
「……十八年前、私は、あの人と同じ夢を見ていた」
彼女は、静かに続けた。
「回復魔法の届かない場所へ、治しの手を届けたかった。でも、途中で、私は間違えた。……あなたたちの力を、初めて見た時から、分かってた。この担体は、あなたたちがいなければ、絶対に正しい形に戻らなかった」
彼女は、小さく息を吐いた。
「……今なら、話せるかもしれない」
御子柴さんが、静かに、一歩だけ前に出た。
「なら、全部話して。私たちにできることから始めるわ」
女は、静かに頷いた。
◇
僕たちは、地上へ戻った。
聖良さんは、担体の入った小さな金属箱を抱えていた。
淡い緑色の担体は、今も、ゆっくりと脈打っていた。
その隣で、女は、御子柴さんに連れられて歩いていた。
地上へ出た時、空は、ちょうど白み始めていた。
夜明けの、始まりの青さだった。
「……綺麗」
一ノ瀬さんが、空を見上げて言った。
「何日ぶりかな、ちゃんとした夜明け」
「……さあ」
僕も、空を見上げた。
朝日が、雲の縁から、少しずつ漏れ出してくる。
第三ダンジョンの方向、遠くの灯りも、朝の光に飲み込まれていく。
その光の中で、聖良さんが、小さく笑った。
「私、初めて知りました。回復魔法以外で、人を救える力があるんだって」
「……僕も、初めて知りました」
「何を?」
「僕の力も、一人じゃ何もできないってことです」
聖良さんは、ふっと笑った。
「……なら、これからも、手を組みませんか」
「……はい」
その答えに、隣で一ノ瀬さんが、ふっと笑った。
「あ、それは私も」
「私も、ずっと側にいるわよ」
篠宮さんまで、静かに微笑んで言う。
僕は、思わず顔を伏せた。
なんだか、朝日より目の前の方が、少しだけ眩しかった。
その時、御子柴さんが、笑いをこらえた声で言った。
「……まずは、報告と、事後処理からよ。あなたの“平穏”は、これから先、もっと大変になるから」
それは、分かっていた。
担体の正体。
黒濁の出生。
篠宮家の内部。
国の保護制度の歪み。
そして、まだ名前も正体も知らない、天城冬吾の“もう一人の残党”。
問題は、まだ、山積みだった。
でも、今の僕は、少しだけ強くなっていた。
助けたい人を、一人じゃなく、みんなで助けられる。
守りたいものを、一人じゃなく、みんなで守れる。
それが、僕の《錬金術》の、最初の“正しい形”だった。
朝日が、完全に昇った。
その光の中、僕たちは、新しい朝へ歩き出した。




