第二十六話 二日の準備と、中層への最後の降下
残された時間は、四十八時間だった。
聖良さんを匿う場所として選ばれたのは、篠宮さんの個人研究室だった。出入りの記録が残らず、防音扉もあり、何より“篠宮の名義で使える民間医療研究施設”という建前が立つ。
聖良さんはその扉をくぐった瞬間、しばらく足を止めた。
「……懐かしい匂いがします」
「懐かしい?」
「お父様の作業場と、似た匂いがするんです。薬草と、魔石と……少しだけ、金属の匂い」
彼女は静かに微笑んで、それから小さな声で付け加えた。
「ここに来られて、よかったです」
一ノ瀬さんが、そんな彼女の肩に、さっそく毛布を羽織らせていた。
「とりあえず座って座って。お茶ならあるし、ないものは取りに行くから」
「ありがとう。……あの、一ノ瀬さん、でしたよね」
「うん。よろしくね、聖良さん」
篠宮さんはその間に、白板を持ち込んで配置図を描き始めていた。
御子柴さんは端末を操作しながら、情報を順番に並べていく。
「整理するわ。二日後の昼前、担体の形が固定される。場所は第三中層、旧搬送路の先。立入許可はもう出せない。つまり、私たちの判断と責任だけで降りることになる」
「ギルドは?」
一ノ瀬さんが訊く。
「報告はする。ただし、事後ね。事前に行けば、上層部の統制が入って間に合わなくなる。向こうもそれを分かってるはずよ」
つまり、走り帽子をかぶる形になる。
僕は掌を握ったり開いたりしていた。
「……湊さん」
聖良さんが、僕の方を見た。
「はい」
「お話ししたことがありますか。担体に意思を通す、というのは」
「ないです。……でも、白い担体に触れた時、呼ばれた気がした。なら、次も通じるかもしれない」
「通じます」
聖良さんは、静かに言い切った。
「私の回復魔法は、時々“伝わる”んです。患者がどこを痛がってるのか、何を求めているのか。だから、あの担体が求めている形が分かれば、きっと届けられる。……ただ、私は一人だと、形を止められない。力が強すぎて、逃げてしまうんです」
「なら、僕が橋をする」
「橋?」
「担体と、聖良さんの間に。僕の《錬金術》は、性質を読み、組み替えるのが得意です。……力を、そっちに流すのはたぶんできます」
聖良さんは、しばらく僕を見つめてから、ふっと緊張の抜けた笑みを見せた。
「いいですね。その言い方」
◇
その夜と翌日を使って、僕たちは準備をした。
僕の仕事は、薬の最終調整だ。
――担体の暴走を抑える中和液。
――中層の魔力濃度に長く耐えられる身体強化補助薬。
――万一の対腐食用の即席処置キット。
――そして、白い担体と黒い担体を分けるための“仕切り”になる液。
篠宮さんは、その全てに魔石水と触媒を供給してくれた。個人研究室の棚の奥から、家の名義でこっそり流用してきた素材が、次々と僕の作業台へ並んでいく。
「……こんなに使っていいんですか」
「いいわ。というより、使わないと意味がない」
篠宮さんは分析台へ肘をついたまま、静かに言った。
「私の家の名義で動けるのは、今が多分最後よ。もしこの件で“篠宮が歪んだ側だった”ことが確定すれば、私は名字を捨てる覚悟もしてる」
「……そんな」
「でも、名字を捨てる前に、家の名義を使えるだけ使う。そういう時のために、名前ってあると思うのよ」
僕は何も言えなかった。
ただ、この人の強さは、きっとこのためだけにあるんだと思った。
一ノ瀬さんは、一方で僕を動かしていた。
「朝比奈くん、立ちなさい」
「……え」
「歩き方の練習よ。重い荷物を持って、暗い段差を、落ちずに上がれる? 昨日ので分かったけど、あなた、足元見ながら歩くと危ないんだから」
実際、搬送路を走った時、僕は何度か躓きかけた。
「じゃあ、荷物は持たせないわ」
御子柴さんが言う。
「担体との共鳴は、集中が必要でしょう。前衛と護衛で守るから、あなたは手ぶらでいい。薬は最小限だけ」
御子柴さんは、僕の革袋の中身を減らし始めた。
減らされるのは、惜しい。
でも、正しい。
「……最終装備、これよ」
最後に残ったのは、
検知液が三本。
対腐食の中和液が二本。
担体用の“仕切り”の液が一本。
そして、聖良さんと組むための、薄い手袋がひと組。
「手袋?」
「共鳴の練習で、肌を直接合わせないと危ないでしょ」
御子柴さんは、淡々と言った。
聖良さんだけが、少しだけ顔を赤くしていた。
一ノ瀬さんが、それを見て、ふっと笑った。
その夜遅く、僕は篠宮さんと、最後の連絡をしていた。
スマホに、御子柴さんからの一件が入った。
「真壁宗一が、第三管理棟の近くで見つかった。意識はあるが、左手が使えない。口を開いたわ。……“まだ遅くない”と言ってた」
僕は、息を呑んだ。
真壁さんが、口を開いた。
「彼は、私たちが担体を止めに行くことを知ってる。だから、最後に知ってる道を教えてくれたって。……あなたが感じた、手首のあの反応。彼が最近触れてたのは、担体の抑制剤よ」
抑制剤。
つまり、あの黒濁の“完成”を、一日だけでも遅らせようとしてくれていた。
僕は、メッセージ画面を見つめたまま、少し長く考えた。
そして、返信を打った。
分かった
行きます




